85話 初戦
私は一枚のプリントとにらめっこしていた。これを先生に提出しないと、朝のホームルームは終わらない。
プリントの上には“進路希望”という文字がある。とりあえずそのすぐ下には、“2年6組青見桜希”と書いた。第一希望、第二希望、第三希望と羅列された横、生徒たちが自身の進路希望を記す部分は、未だ空白だ。
「何してんの、早く行こ」
明日葉が、体操服を入れた袋を肩にかけてやってきた。一限は体育で、私たち女子は更衣室へと早急に移動しないといけない。
「これ、書くの忘れてて……」
夏の兵庫県大会、千庄の初戦は今週末だ。気分も体もそれにかかりっきりで、進路希望調査を今日の朝までに提出しないといけないことを失念していた。
「明日葉はなんて書いたの?」
「わたしは、とりあえず進学希望で……桜希も適当に進学希望でいいじゃない。それで希望する進学先は未定で提出したら? じゃないと――ほら、周り見てみ」
明日葉に私は、周りの男子たちからの視線に気付いた。男子の体操服への着替えは、この教室ですることになっている。すなわち、私がずっとここに居座れば、彼らは着替えることができないのだ。
「ご、ごめんなさい!」
◇◇◇◇
最近は雨の日が多かったけど、今日は晴れていた。太陽が適度に地表を照らしていて、試合の日もこんな天気だったらいいなあ、なんて思った。
そんな穏やかな12時過ぎ、私と明日葉は中庭のベンチに座り、お弁当を食べていた。
「はい。あーん」
私が卵焼きを箸で差し出すと、明日葉は小さく口を開け、受け取った。数回モグモグとすると「おいしい」と呟いた。
「桜希のお母さんの卵焼き、甘いよね」
「んー、そうかなあ。ちょっと明日葉の、食べさせて」
「いいよ。ほら」
そう言って明日葉は弁当箱ごと差し出した。
「もー。そうじゃなくて」
「あーはいはい。はい、どうぞ」
明日葉は箸で卵焼きをつまみ、私の口へと持っていく。口に含むと、少し塩の効いた味が口の中に広がった。
「確かにうちのは甘いかも。でも、どっちかというと私は明日葉のお母さんの卵焼きのほうがいいなあ」
「そうかなあ。わたしは桜希ん家のほうがいいけど」
「関東のがは関西に比べて甘いんだっけ?」
「だった気がするけど、」
そんな他愛もない話をしているうちに、話題は朝の話、進路希望調査へと移っていった。
「相変わらず優柔不断」
「苦手なんだって、私。進路を決めるっていうのが」
結局、周りの視線にせかされ、進学予定とだけ書いてプリントを提出することになったのだ。
「あんなの最終決定でもなんでもないんだから、適当に書けばいいのに。“明日葉と同じ”」
「そうすればよかったなあ」
実際問題、明日葉と同じ進路を希望してはいるので間違ってはいない。
「だいたい今までは進路を決めることもあっただろうに」
「だって今までは乃愛についてきただけだし」
「そういうの、あんま良くないとは思う……でもそのおかげで、千庄であなたに出会えたと思うと……まあ、よかったのかもしれないけど」
いろんな高校から「うちの野球部に来ませんか?」なんてスカウトをもらったけど、親元を離れるのは嫌だった。だからすべてのオファーを断って、乃愛と一緒の高校を受験した。
中学時代、男子に混ざって硬式野球をやったのは乃愛が「やる」と言ったからだった。私自身は女子軟式をやりたかった。もっというと、野球を始めたの自体、乃愛に誘われたからだ。私の高校入学までの人生は、ほぼ乃愛に選択権を委ねたといってもいい。
今のところ、その選択は全部、合っていた気がする。
「ていうか、それが駄目なら、明日葉と同じ進路、っていうの良くなくない?」
「良くない。だからやっぱ違う学校に行こ」
「えーなんでさ、私は一緒がいいなあ」
「だって桜希と同じ学校行ったら、勝負できないじゃん」
明日葉は手に持った箸を弁当箱に置き、口角を上げて言った。
「それって敵同士ってこと? なんか嫌だなあ」
「味方同士はもう高校三年間で満喫する予定だから、次は敵。で、またいつか二遊間を組むの」
「そーんな先のことまで考えてるんだ」
「うっ……例えばの話だって、例えばの話。そんなことより、今のほうが大事だわ」
そろそろ未来について、考えないといけないことはわかっている。でも今は、差し迫った夏大会に向けて集中したい。
「勝てるかなあ、私たち」
「海稜に?」
「うん。日本一を目指すとは言ってるけど、海稜に勝たないと全国の舞台にすら立てないわけでしょ。そう考えると、大変な話だと思って」
「たぶん、あっちもそう思ってるよ」
「かもしれないけどさ」
神戸海稜と県大会で戦わないといけないのは、なんだか不公平な気がする。一応私たちは去年の県王者で選抜ベスト8であるけども、選抜準優勝の神戸海稜相手にはやっぱり挑戦者ではある。
「どうせ、日本一になるには強豪と呼ばれるところ全部倒さないといけないわけだからさ。早いか遅いかの違いじゃない?」
「まあ、そうだね」
「そうそう。さて、行こ」
「あ、うん」
弁当を残さず平らげ、私たちはベンチを立った。明日葉が先へ進むのを後ろから追う。校舎と校舎に挟まって位置する中庭には、昨日までの雨の痕跡が随所にある。ところどころある水たまりを躱し、中庭を抜けていく。
校門から一番遠い、西校舎の角を直角に曲がる。あまり見慣れない場所に来た。中庭ではちらほら見えていた人影はなく、さっきまで騒がしかった男子生徒たちの声も、別世界に来たように聞こえない。
「どこ行くの?」
「んー」
明日葉は立ち止まらず、さらに進んだ。ようやく立ち止まった場所は見たことがない建物の前だった。
「これ何?」
「分かんない」
学校の敷地の端っこに、ひっそり立つ白い平屋建て、何の建物が知らないし、もちろん入ったこともない。
「わかんないって……ていうか、なんか怖くない?」
建物は老朽化していて、塗装が剥げている部分が多々ある。人の気配どころか、誰かが使っている感じすらない。
明日葉は私に背を向けたまま言う。
「この前ここ見つけたの。ここなら、誰もこないから、邪魔されないと思って」
「誰にも邪魔されず、何する気?」
「キス」
「あ、そう……え?」
あまりに当然のように言うので、一瞬、理解が遅れた。
「ダメ?」
振り返り上目遣いでそう言った明日葉が、艶めかしく、ドキッとする。
「ダメっていうか……何でしたいの?」
「大会前の景気づけ」
「ここでする必要は?」
「前々から、学校でしたいと思ってた」
私は一回大きく「はぁー」と溜息を吐いた。
「なんか最近の明日葉って、あんまり恥ずかしがらないよね。前はいつも顔を赤らめてたのに」
「む……そう言われると、なんか恥ずかしいんだけど」
耳がほのかに赤くなった明日葉は続けて、
「……前は自分の気持ちを隠したかったし、桜希がわたしの気持ちを知らないと思ってたから恥ずかしかったけど……今はそういうのないの。わたしが桜希のこと大好きだって、あなたにバレてるからだろうけど、自分の気持ちが素直に言葉になってくれる……説明すると、やっぱり恥ずかしいわ」
明日葉は自身の顔を両手で覆った。そのまま、
「もしかして、昔のわたしのほうが良かった、だったり……?」
「んーどうだろうなあ」
私は両腕を組んで考える振りをした。明日葉が不安げに眉を潜めるのが、両手の隙間から見えた。
「前の明日葉が好き――」
「えっ!?」
「だけど、今の明日葉も好き」
「び、びっくりさせないでよ! もう! ……で、どうなのするの、しないの?」
「するよ。うん」
私が近づいていくと、明日葉は両手を下ろし、真っ正面から私を据えた。見つめ合って、心もその気になっていったけど、やっぱり、
「誰も来ないよね? 大丈夫だよね?」
誰かに見られるという懸念は、拭いきれなかった。だけど、
「絶対、大丈夫」
よく考えれば何の根拠も示していないのだけど、明日葉に真っ直ぐ見つめられると、安心できた。
視線を交わす。明日葉から“大人”を感じた。まん丸の、ぱっちりとした二つの瞳が、熱を持ちながらもどこか涼しげに私を見つめる。阿吽の呼吸で、唇を近づけ合い、重ねた。
名残惜しくも、一瞬の逢瀬のあと、唇同士を離す。明日葉がすぐに、
「これで、勝てる。海稜にも、桐葉にも」
「……うん」
明日葉は「用済んだし、帰ろ」と言って、私の手を持った。歩き出したので、慌てて歩調を合わせた。たぶん、明日葉の言うとおり、誰も私たちのことを見てなかったと思う。
◇◇◇◇
「今日が、私たちがずっと目標としてた日本一、その第一歩となる日です」
腰をかがめた部員たちが、日菜子先輩を中心に円を作る。みんなの背中にある、1から18までの背番号がよく見える。
「どんな展開になろうと、今まで練習でやってきたことをしていって、幸先の良いスタートにできるよう、全員で勝ちにいきましょう!」
「はい!」
「じゃあ……千庄、絶対勝つぞー!」
「オ―!」
夏の兵庫県大会が始まった。私たちは六回勝てば優勝できる。順調なら神戸海稜とは決勝で当たる。
少し雨がパラつく中、私たちは初戦を戦った。結果は20-0のコールド勝ち。私と明日葉は全打席出塁し、ランナーも帰したし、ホームも何回も踏んだ。とりあえず、幸先の良いスタートだった。




