75話 当たって砕けろ
「おはよう」
私がそう言うと、明日葉は顔を上げることなく本に視線を落としたまま、
「おはよう」
と言う。そこからこっちがなにも言わなければ、この会話は終わる。私と明日葉の会話は基本、私から始まるけど、この朝という時間、登校してすぐの教室での会話は、ほとんど明日葉から生まれない。
それが一年間ずっと続いている。一年生の時から、二年生の今まで、何も変わらない朝の風景だ。でも、今日はちょっと違った。「おはよう」のやりとりの後、特に言うことが思い浮かず、私が自分の席に戻ろうとすると、
「あ、あのさ……!」
ちょっと焦った様子で、明日葉は私を呼び止める。「なに?」と私は振り返る。
「この前話した、わたしが読んでて、桜希が読みたいって言った小説あったでしょ」
「ああ、うん」
「あれ読み終わってさ、今日の昼、図書室に返しに行くから、読みたかったら、借りて読んで」
数日前の朝、明日葉が読んでいた恋愛小説、彼氏がいる女性の前に違う人が現れて、その人に恋をしてしまう内容だという。別に私は内容が気になって読みたくなったわけでなく、いつもミステリーばっか読んでて恋愛モノに興味を示さなかった明日葉が、なんで急にそんなモノを読み始めたのか、気になったからだ。
「めちゃくちゃ面白かったから、桜希にも読んで欲しい」
「じゃあ……読んでみようかな」
「読んだら、感想聞かせて」
変だった。明日葉がこんなに熱っぽく、本を推してくる事はなかった。近頃は明日葉の好きなジャンルが私に全く響かないことを知っているのか、私が適当に「その小説、読んでみたいなあ」なんて言っても、「どうせ読まないんでしょ」とか返してくる。
でも今日は違う。本気に見える。それを読んで欲しいと、二つの瞳が私へ訴えかける。
「でも私、読むの遅いし。土日は試合だし、時間かかるかも」
今週末には地区のリーグ戦が予定されている。夏の選手権県予選のシードを決める、大事な公式戦だ。
「遅くてもいいから、とにかく読んで」
その日の夜、私は図書室にてその本たちを借りた。その小説はハードカバーの、上下巻となっていた。読み終わるのに、どれぐらいかかるかはわからないけど、ちょっとずつ読み進めていこうと思った。
でも数日後、思いがけぬ出来事が私を襲う。結果、私は上下巻の小説を一気に読み終わることになった。この週末は、私と明日葉の関係を変える、長い週末になった。
◇◇◇◇
私の母方のひいおばあちゃん――絹代おばあちゃんが亡くなったと聞いたのは、その週の金曜日のことだった。部活を終え帰宅した私に、ひどく取り乱した様子で母親は私に訃報を伝えた。87歳の絹代おばあちゃんは、近年は病気を患うことが多くなったし、手術を必要とすることもあった。
それでも、ここ一年は体調も安定していた。でもお昼頃、体調を崩し、そのまま回復することはなかった。本当に急変だった。
お通夜は土曜日、お葬式は日曜日に行われる。私の母だけは明日の朝から曾祖母や祖父母が住んでいる鳥取に帰り、私と弟は父に連れられ、遅れて鳥取に向かうことになった。
地区リーグは土曜日だけ出ることになった。部員のみんなや芹沢先生にも事情を話していたせいか、めっちゃ気をつかわれた。たいして強くないところが相手だったから、試合は圧勝だった。
「まあ、明日の相手も強くないし、さっちゃんいなくても余裕だから、安心しててね」
日菜子先輩にそう言って送り出された。私を安心させるための言葉だろうけど、なんだか少しだけ、さみしさを覚えた。
家に帰ると前日まとめた荷物をまとめ、即刻鳥取に向かった。小さい頃はお盆や正月の度に通っていたけど、近頃はあんまり行ってない。最後に絹代おばあちゃんに会ったのは中二の時だった。
おばあちゃんたちの家はそんなに遠くない。兵庫と鳥取の県境に面した町、私たちが住んでいる街だってそんなに華やかな場所ではないけど、あそこに比べれば超都会だ。
山が増えてきて、視界が緑と茶色ばかりになった。風景を眺めながら、それからこの前借りた小説を読みながら、到着を待っていると、やがて記憶に色濃くのこる場所の前にやってきた。
日が落ちて、暗い辺りに、ぽつりと建つ。昔ながらの日本の家というのだろうか、おばあちゃん家は広くて、古い。懐かしい匂いもする。お通夜は自宅で行うという。戸を開けると、黒い服に身を包んだ人たちの姿があった。その中の一人が、私に声をかけた。
「あ、もしかして桜希? 久しぶり」
「あ、夕子ちゃん……さん。久しぶり……です」
「なんで敬語なのさ。昔みたいにしてよ」
夕子ちゃんは私の従姉妹にあたる。化粧のせいか、昔の印象よりもずいぶん大人に感じた。
毎年のようにここに来ていてたときは、いつも遊んでいた。というか遊んでもらっていたというのが適切だと思う。今は鳥取市に済んでいるという。
「だって夕子ちゃん、なんというか、全然記憶と違って、大人の人に見えたから」
「まあ、5、6年ぐらい会ってなかったしね。それにわたし、もう25だし。ほら、陸。お姉ちゃんに挨拶して」
小さな男の子が、夕子ちゃんのそばにちょこんと立っていた。夕子ちゃんには二人の子供がいる。三歳の陸くんと、まだ赤ちゃんの明里ちゃん、ずっと夕子ちゃんに会っていない私は当然、初対面だ。
「陸くん、こんばんは」
できるだけ優しい声で、膝に手をつき、視線を低くして言ったけど、陸くんは夕子ちゃんの陰に隠れてしまった。
「あちゃー。こんな美人さん初めて会ったから、緊張しちゃったのかな?」
夕子ちゃんは茶化すようにそう言った。続けて、
「ホント、すっごい綺麗になって」
「やめてよ」
「それに、野球も凄いんでしょ。見たよ、女子野球の雑誌。全国ベスト8だっけ?」
「う、うん……」
「やー凄いなホント」
久しぶりに会った従姉妹との会話は、とても距離を感じた。
◇◇◇◇
「さっちゃん、こんなに大きくなって」
次に会ったのは私のおばあちゃんだった。久しぶりにあったおばあちゃんは記憶よりも小さく感じた。
「この前の全国大会の試合見たよ。かっこよかった」
「ああ、うん。ありがと」
「それに、こんな美人になって」
「だって、私の娘だもんねー」
と、軽口で間に入ってきたのは、私たちより先にここに来ていた母親だった。実の娘の言葉をおばあちゃんは無視し、
「さっちゃんは、もう絹代おばあちゃんに会った?」
「いや、まだこれから」
「じゃあ、行きましょ」
おばあちゃんに連れられ、絹代おばあちゃんの眠る部屋へと歩く。中に入ると、そこは広く、粛然とした雰囲気を感じた。仏壇には、絹代おばあちゃんの遺影があった。ようやく死を意識し、悲しみがこみ上げてきた。
「お義母さん――いや絹代おばあちゃんも、さっちゃんの試合見たの」
遺影を前にして、おばあちゃんは静かに話し始める。
「私とおじいちゃんと絹代おばあちゃんでネットでやってたのを見た。でも準々決勝で負けちゃったでしょ。で、絹代おばあちゃんはホント残念そうで。でもおじいちゃんが探したら、さっちゃんたちの試合の動画が残っていたの。それを見せてやったら凄い喜んで。
その後すぐにまた見たいっていうから、やり方を教えてたり、紙に書いてあげたりして。そしたら、あの人、それまでパソコンを一回も使ったことなかったのに、毎日のように自分で紙を見ながらパソコンつかって、ネットで検索して、さっちゃんの姿をいつも見てた」
遺影の絹代おばあちゃんは笑顔を見せている。私が「野球始めた!」って報告した時も、あれぐらい嬉しそうに笑ってくれた。
「私が“さっちゃんはいつか、日本代表になるかもしれませんね”って言ったら、“じゃあそれまで死ねないね”なんて数日前には話してたのにね……」
おばあちゃんの瞳に光るものがあった。私は再び、遺影に向き直り、手を合わせた。
◇◇◇◇
たくさんの親戚に会った。みんな口々に「大きくなったねえ」と目を細めていたけど、私には名前が思い出せない人や顔自体知らない人が多かった。
食事も済んで、私にはやることがなくなった。だから私はたくさんある部屋のうち、誰もいない部屋で、先日借りた本を読んでいた。一人静かな部屋で、物語に浸っていたのに、それを壊す人がやってきた。
「何読んでるの?」
それは私の従姉妹、夕子ちゃんだった。
「いや、別に……」
「でも、そっちの方が私の中の桜希のイメージに合ってるかも」
夕子ちゃんは戸を乱暴に閉めると、私のそばに座った。
「会うといつも私のそばに寄ってくる、おとなしい子。とてもスポーツで活躍する、とは思えない感じだったから、びっくり。本を読んでいる方が昔のイメージ通りだなあ」
「別に……いつもそんな読まないよ。たまたま図書室で借りてて、暇だったから。ていうかいいの? 明里ちゃん」
さっき夕子ちゃんの0歳の娘、明里ちゃんが凄い泣いていて、親戚中が心配そうに見守っていた。
「ううん、ようやく寝たみたい。まあどうせ夜中に目覚まして泣き始めて、私は寝不足になっちゃうんだけどね」
「大変だね」
「うんうん、大変大変。陸もまだまだ手がかかるし。それに二人の将来のこともあるからいくら貯めなきゃいけないとか、わたしもいつから働こうかとか、陸をどこに預けようかとかね。大人は大変なのよ。いいなあ高校生」
あなたも高校生だったでしょ、って言葉は口の中にとどめておいた。
「学生のうちにできるだけ遊んどいた方がいいけど、まあでも勉強も大事かな。あとはそうねえ、恋愛とか。桜希は、彼氏は?」
「いるわけないでしょ」
「過去にも?」
私が頷くと、夕子ちゃんは作ったような驚き顔をした。その顔にはなぜか、喜びが滲んでいた。
「えーモテそうなのに。ぶっちゃけモテるでしょ」
「さあね」
「じゃあ好きな男は?」
「いません」
「えーつまんないの。大人になると、打算的な恋愛しかできなくなるから、高校生のうちに恋愛をしてた方がいいよ。なんというか、プラトニックな恋?」
正直、めっちゃいらいらしていた。何でこの人に、そんなああしろこうしろって言われなきゃいけないの。
「野球を頑張るのもいいけど、彼氏作るとか、そういうのも――」
そこでもう、我慢の限界だった。
「余計なお世話だって」
自分でもびっくりするぐらい、自然と言葉が出る。
「なんでそんなこと夕子ちゃんに言われなきゃいけないの」
「……な――」
「夕子ちゃんがどれだけ大変かはわかんないけど、私にだって私なりの悩みも、辛いことも、大変なこともあるし。だけど、でも今の生活が幸せだし、ずっと会ってなかった人にそんな……指図受けたくない」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。きっと、おとなしい私にだったら、なに言ってもいいって思ってたんだ。
夕子ちゃんが私に対し優越感にひたれる部分、大人であること、子供がいること、異性との交際経験。それらをぶつけて、私を見下す。私の過剰反応かもしれない。でも、私には“あなたは子供だ”って煽られた気がした。
「それに、私だって恋ぐらいしてるし、好きな人だっている」
最後にそう付け加えてやると、夕子ちゃんは「えっ?」と困惑に満ちた顔で、
「だってさっき、好きな男いないって……」
そこで「おーい夕子」という声がした。旦那さんに呼ばれ、夕子ちゃんは罰が悪そうに部屋を出て行った。
◇◇◇◇
なかなか眠れない。いつもとは違う睡眠環境だというのもあるけど、それより、さっきの出来事が尾を引いている。人に悪意をぶつけるっていう慣れないことしたから、まだ心臓のバクバクが収まらない。
眠気が起きるまでどっかの部屋で本でも読もうと、私は起き上がって部屋を出ようとした。すると隣で寝ている母親が「どこ行くの?」と急に起き上がった。
「何か眠れないから、本でも読もうかと思って」
「そう……私も眠れないから、ちょっと起きようかな」
母も布団をでた。私たちは廊下を抜け、この家で一番広い部屋の電気をつけた。通夜に参加する人がたくさんいて騒がしかったここも、もぬけの殻のようにひっそりとしている。
「夕子ちゃんと喧嘩した?」
母はソファに腰を下ろし言う。
「喧嘩かどうかはわかんないけど……」
「夕子ちゃんが桜希に謝っといて、って言ってたよ。なにがあったの?」
「なんか最近いらいらしてたから、私。夕子ちゃんが、高校生は気楽でいいなあ、みたいなこと言ったから」
違う。ホントは“野球もいいけど、彼氏を”とかなんとか言われたのが一番気に障ったんだ。今の私を全部否定してしまう言葉だったから。
「まああの子は今、一番大変な時期だろうから。謝っときなよ。おばあちゃんも、喧嘩しないで、って言ってるだろうから」
「うん」
今になって考えると、私の沸点が低かっただけのように思える。明日、謝ろうと言う気持ちが芽生えてきた時、母が、
「あと、桜希が好きな人がいるとか」
「はぁ……」
なんであんなことを言ったんだろうと、後悔。
「どういう人?」
「んー。かっこよくて、運動ができて、頭がよくて、優しくて、私のことを凄いわかってくれて、でもかわいいくて、甘いものが好きで食べているとき、すっごい幸せそうなのが可愛くて――」
「ああわかったわかった。もういい。で、なんていう人?」
「……それは言えない」
「私の知ってる人?」
これは、迷った末に頭を縦に振った。
「最近、元気ないように見えたのは、その人のせい?」
これも、迷った末に肯定した。母はしばらくなにかを思案するように腕を組んでいたが、やがて笑顔で、
「自分の娘からそういう話を聞いたことがなかったから、安心したかも」
考えてみれば恋なんて、私には縁遠いものだった。ただ物語の世界にある、キラキラしたものでしかなかった。
「さて、いい話も聞けたし、寝るか」
母親は立ち上がった。
「まあ悩んじゃうのもわかるけど、こういうときは当たって砕けろ、よ。大丈夫よ、私の娘なんだから」
「そう……だね、ありがと」
「じゃあ私は寝るから、明日は式があるんだから早く寝るのよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
◇◇◇◇
時計の針は1時半を指している。母の消えた部屋で、私はひたすら本のページをめくり続けた。田舎のとても静かな夜は、私の物語への没頭を助けてくれた。
明日葉がなぜ、この小説を不自然なほどにすすめてきたか、理由を突き止めようとした。上下巻のうち、上巻だけ読んだが、思い当たる理由はひとつしか無い。この小説が、同性愛を、女性と女性の恋愛を扱ったものであることだ。
普通に彼氏がいる主人公の前に、一人の女の人が現れる。主人公はその人に強引に迫られる。主人公もその人に惹かれていってしまい、彼氏と別れ、二人は女同士、付き合うことになる。半分しか読んでいないけど、こんな感じ。
どうして明日葉はこれを読ませたかったのだろうか。私になにか感じて欲しい? 私になにか言って欲しい? 私の考えすぎ?
◇◇◇◇
結局、夜のうちに下巻も読んでしまい、寝たのは4時前だった。こんなに本を読むことに集中したのは初めてだった。
当然寝不足にはなったけど、特に問題なくお葬式は続いた。急死とはいえ、絹代おばあちゃんも87歳まで生きた。亡くなった悲しさよりも、笑って送りだしてあげようという雰囲気の方が強かった。
絹代おばあちゃんとの記憶を掘り起こしてしまい、私の中では悲しみのほうが強かったが、式が進むにつれ、新たな感情も芽生えた。
火葬され、骨になった人の姿を見た。死が身近になった。人間は誰だって、最後は死ぬ。そう意識すると、後悔したくない、人生は精一杯生きたい、燃え尽きたい、野球がしたい、明日葉に会いたい、声が聞きたい、想いを伝えたい、
「当たって砕けろ、か……」
お葬式は終わった。お線香の匂いがついた制服も着替えた。
今は午後の四時ぐらい。千庄女子野球部の試合は1時からで、スマホには“勝ったよ!”というメッセージが日菜子先輩から届いている。
もう連絡していいのだろうか。もう耐えきれない、明日葉と話したい。ただとりあえず、今電話していいか、聞いてからにしよう。
そして、“今電話していい?”というメッセージを送ろうとして、“今電話していい”まで打ってあと“?”をつければいいというとき、スマホが鳴った。
「あっ……! もしもし!?」
「もしもし桜希、今いい?」
それは明日葉からだった。




