74話 どこかの誰かさん
千庄高校女子野球部に新たな仲間たちが加わって二週間ちょっと、徐々に部の雰囲気も落ち着いてきた。
最初はどこかよそよそしかった一年生たちも、もうすっかり部の風景に定着した。彼女たちの存在は部に活気を与え、新たな風を吹き込んだ。いよいよ“夏”という最大の目標に向け、チームが軌道に乗り始めた感じがした。
その船出として、今週末には練習試合が組まれていた。千庄高校グラウンドでの、鳥取の名門、鳥取湘北高校との一戦は、一年生たちにとっての初めての対外試合であり、二三年生にとっては、選抜準々決勝の敗戦以降、初めての試合となる。
いろいろな意味で大事な一戦。チームは試合に向け、モチベーションを高めてきている。その中でも、ピッチャー陣の気合いの入り方はすさまじい。
乃愛と舞香と奈桜先輩の三人が占めてきたピッチャー陣に、森下綾乃という即戦力な一年生が加わった。横一線だった三人のエース争いに、新たな一人――それも別格の才能を持った一人が参戦し、より高い競争が生まれた。
エース争いが苛烈するのは、いいことなのだと思う。競い合いは互いの成長をうながすし、厳しい連戦が続く全国大会では、四人も高レベルなピッチャーがいることは、他校に対しての大きなアドバンテージになる。
三人のこれまでの姿を見てきた身からすると、突然現れた一年生が“背番号1”を頂いてしまうのは、胸中複雑なところもある。でも、これから千庄ピッチャー陣は森下綾乃が中心になる、そんな予感があった。
練習での打撃ピッチャーだったり、この前の紅白戦だったり、未だ綾乃は本調子ではなさそうである。それでもあの球の馬力、スケール感は全国レベルでもそうそう味わえるものではない。あれが更に洗練されていくならば、彼女は全国トップクラスに至っていくと思う。
そして、綾乃の華やかな未来を予感しているのは、私だけでないことを知る機会があった。
◇◇◇◇
鳥取湘北との練習試合を数日後に控えたある日、私はある会話を偶然、耳に入れてしまった。練習が終わり、あたりが夜の静寂に包まれたころ、私はものを忘れ部室に戻った。
部室にはまだ明かりがあった。部屋にいたのは日菜子先輩と綾乃だけだった。二人の間にあったシリアスな雰囲気に、思わず私は隠れた。壁に身を隠し、盗み聞きみたいな形になる。
「今週末の練習試合さあ、綾乃は、どこで投げたいとか希望はある? 先発がいいとか、途中からがいいとか」
日菜子先輩が口を開いた。長椅子に腰を下ろしている先輩が、立ち上がった、背の高い綾乃を上目遣いで見つめていた。
「自分が決めるんですか?」
「いや希望があるなら、だけど。あなたのやりやすいところで投げて欲しいから」
こちらからは綾乃の表情を見えず、どういう感情を抱いているか判断できない。が、なんとなく困惑をしているんじゃないかと思う。
この構図、どこかで見たことがある。そう、あれは一年前、初めての練習試合が差し迫った頃、陽子先輩が私へ「打順、何番打ちたい?」と聞いてきた。今回もそれとおんなじだ。主将が新入部員のご意向を聞く、という謎の行事は、もしかして恒例なのか。
「なら、先発がいいです!」
意外にも綾乃はそう言った。あまりメンタルが強そうではない彼女だから、途中からが良い、とか言うのかと思った。
「二試合の予定だけど、一試合目と二試合目どっち?」
「……一試合目でお願いします」
一試合目の先発がいい、なんて言うのは度胸を要すると思う。普通は先輩たちに遠慮するし。この一年生は、普段の様子とは裏腹に、強い意志を持っているのだろうか。
話はそれで終わったのか、綾乃は先輩に挨拶をし、部屋を出た。ドアを出てすぐに隠れていた私は当然彼女に見つかった。
「あ、さようなら!」
「さ、さよなら……」
当然びっくりされたけど、すぐに綾乃は去っていた。その様子を見た日菜子先輩に、私は発見されてしまう。
「盗み聞きとは趣味が悪いね」
「違うんですよ。ただ忘れ物があって、そしたら二人が真剣な話し合いしてるみたいだから、入れなくて」
「まあ、さっちゃんならいいけど。奈桜や乃愛、舞香には聞かれたくなかったから」
「ピッチャーには……ってことですか?」
「贔屓してる、みたいに取られちゃうからね」
先輩はため息をついた。
「でも先生と話したんだけどさ、綾乃の才能は誰もが認めるところだし。全国トップクラス、というかトップになれる可能性すらある。あなたもそう思うでしょ?」
「そう……ですね」
「だからこそ、大切に育てたい。これからの千庄女子野球部の三年間は、綾乃にかかっていると言っても過言じゃないから。
で、綾乃の場合、かなり繊細なところがあるから。あんまり最初から無茶させるのもってことで、本人の意向を確認したんだけど、まさか、一番手がいいとはね」
「やっぱり、先輩もびっくりしたんですね。私もまさか森下さんが先発がいいって言うとは思いませんでした」
「そういえば去年の今頃、陽子先輩に何番がいい? って聞かれた一年生は、下位がいい、とか言ったそうな」
「誰のことでしょう?」
言うまでもなくそれは私のこと。
「でも、あなたも一年間でこんなに立派になった」
「……変なこと言わないでください」
「ホントのことだって。一年前とは見違えるぐらい堂々としてるよ、さっちゃん。綾乃も、一年経てばだいぶ変わるのかなあ。まあ、一年経てば私はもういないんだけど」
そのとき初めて、日菜子先輩たち現三年生が、あと数ヶ月でいなくなることを意識した。“夏に向けて”という言葉は、一二年生と三年生とでは意味合いが違うんだ。もっと頑張らないといけないと思った。
◇◇◇◇
「お願いします!」
練習試合当日の朝、鳥取湘北は気合いの籠もった挨拶でやってきた。鳥取県大会や中国大会を勝ち抜き、何度も全国出場を果たしている名門校である。挨拶、準備、ウォーミングアップ、キャッチボール、シートノック、すべての動作に洗練と、機敏さを感じる。
天気に恵まれたとはいえない。春らしさはどこへやら、寒々しい風がやかましいほどに吹きつける。朝は冬に逆戻りしたかのように寒かった。それでも太陽が昇っていくごとに気温が上がっていくことが分かる。
「一番セカンド、関長明日葉」
「はい!」
徐々に体が臨戦態勢に仕上がっていく中、一試合目のスタメンが発表される。これまでより大きくなった円の前で、日菜子先輩がスタメンを告げていく。一番の明日葉に続いて、私の名が呼ばれる。
「二番ショート、青見桜希」
「はい!」
「三番センター、相庭すみれ」
「四番ファースト、高村星奈」
「五番キャッチャー、弓削日菜子」
「六番ライト、末広乃愛」
ここまでは三月以前と変わったところはない。新しい名がスタメンに現れたのは、この次だ。
「七番サード、瀬尾美月」
「はい!!」
美月の返事は気合い充分だった。美月は私の隣にいる。びびって思わず耳を塞ぎたくなるほどの声量だった。
最後にもう一人、一年生の名が呼ばれた。
「九番ピッチャー、森下綾乃」
「はい」
綾乃の声は、美月とは対照的にか細かった。綾乃はなぜか、右手を腹部に当てていた。お腹の調子でも悪いのだろうか。日菜子先輩は何か言いたげに綾乃に視線を送ったが、なにも言及しなかった。
「今日の試合、一年生たちも加わって、私たちにとって再出発の試合です。気合いを入れて勝利を目指しましょう!」
「はい!」
広かった円が、日菜子先輩を中心にひとつになっていく。みんなの手が幾重にも重なる。
「絶対勝つぞー!」
「オー!」
◇◇◇◇
「ねえ、綾乃がどこにいるか知らない?」
「えっ?」
もう今にも試合が始まろうかというころ、日菜子先輩は私に言った。
「おかしいな、さっきまで話してたのに。急にいなくなった」
とりあえず辺りをキョロキョロして問題の人物を探してみたけど、部員一背の高い彼女の姿が全く見当たらない。
「まさか、神隠し!?」
「いや、あの、トイレでも行ったんじゃないですか?」
「ああそうか、それがあるか。さっちゃん頭いいね」
「いや真っ先にトイレを疑うと思いますけど……」
綾乃は、先に守る千庄の先発ピッチャーだ。彼女がいないと試合が始まらない。既に鳥取湘北は準備万端なようで、試合開始を今かと待っている。
そういえば綾乃はさっきお腹をさすっていた。一抹の不安がよぎった。もしかしたら、なにか彼女の体にあったのかもしれない。
「ちょっとトイレ見てきますね」
「あ、ごめんね、ありがとう」
私たちが主に使用するトイレは、グラウンドから少し先に位置する体育館の中にある。スパイクを脱ぎ、すぐ左手にあるトイレに入っていくと、なにやら、くぐもった声が聞こえた。
「うえっ……」
それは人が、せっかく口から入れたものをまた外に出してしまうときの声に聞こえた。戸を開けると、案の定、綾乃はそこにいた。
「あっ……」
「だ、大丈夫?」
綾乃は呆然自失に私を見ていたが、やがて我を取り戻したように、
「あ、あの。わたし、吐いてません! 吐きそうになっただけで……なんにも出してないです!」
「そ、そう……それはよかった」
綾乃のつぶらでまん丸な瞳が、必死に私に訴えかけていた。
「ていうか、もう試合始まるよ」
「はい……わかってるんです。ただちょっと緊張しちゃって。お腹も痛いし、なんか吐きそうだし。緊張しいなんです。私」
「うん、なんとなく分かる」
「で、ですよね……」
身長にアンバランスな童顔で、ふわふわな茶色な彼女は、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた。私はなんだか、彼女を愛らしさを感じ始めていた。
「でもだったら、なんで今日の試合、一番手を志願したの?」
「ああ、そっか。先輩はあの時いましたもんね。あれは……えっと荒療治みたいなもんです。きつい場面を経験していけば、緊張とかなくなるかなあって。こういう齢自分が嫌いで、直したかったから。でもやっぱり……期待されていることが分かっちゃうとどうにも」
あはは、と綾乃は苦笑いを浮かべた。引きつった口元を見るに、その笑顔すらやせ我慢だなのだろう。
「なんか、こう、あなたを見てると、一年前の私を思い出すなあ」
「えっ」
皆が試合開始が迫っているのはわかるけど、話をせずにはいられなかった。
「私もすっごい期待をかけられてたの、わかってたから。初めての試合のとき、結果出さなきゃって緊張しちゃって」
「そうだったんですか」
「まあ、あなたほどではないけど。なんかださいから緊張を周りには隠そうとしてポーカーフェイスを貫いてたんだけど、明日葉にはバレてさ」
「明日葉先輩……」
「そのときは全然仲良くなくて、むしろあっちに嫌われているとも思ってたんだけど、でも、明日葉は私の弱いところ見抜いてくれて、それで嬉しくて。緊張も解けたし、試合も結構いい感じだった」
先輩風ふかせて、自分の体験談をアドバイスしようとしたのに、結局、明日葉の話をしてしまった。これじゃ、何の助言にもならないだろうに。でも、
「桜希先輩……青見先輩もそんな時期があったんですね」
「桜希先輩でいいよ。うん、というか今もダメダメだけどね。明日葉がいないと私は……」
そうだ。ずっとこの一年間、明日葉は隣にいてくれた。ずっと私は引っ張られたり、支えられたり、ずっと明日葉に助けられてきたんだ。
「明日葉先輩はいつもキリッとしてて、かっこいいのに、桜希先輩の話するときだけ、優しい顔になってて楽しそうなんです。先輩にいうことじゃないですけど、そのときの明日葉先輩はとっても可愛いです」
「そう……」
めっちゃ嬉しい話だけど、複雑な気持ちにもなる。今は心から明日葉と通じ合っているとは言えない。
「わたし、明日葉先輩かっこよくて、あの人みたいになりたいって思うんです」
「あなたは明日葉派?」
「えっ?」
「あ、いや、なんか美月が――」
そのとき、大きな音がして、誰かがここに入ってきたのがわかった。
「何やってんの二人とも」
噂をすればなんとやら、それは明日葉だった。
「試合、もう始まるよ」
「いやちょっと話してて」
「ごめんなさい。緊張していたわたしを桜希先輩が、リラックスさせようとしてくれてたんです」
「へえ」
明日葉は笑みを浮かべ、私を一瞥した。そして、綾乃に向き合った。
「あなたの球の威力なら、ストライク投げてればそうそう打たれないし、わたしたちが後ろを守っててあげるから。そんなに緊張しなくても大丈夫だわ」
その言葉を聞いた綾乃は、見たことないぐらい表情を明るくさせ、
「……ありがとうございます。頼もしい先輩がいてくれて、わたしはとても幸せです。後ろに先輩たちがいてくれると思ったら、なんだかいける気がしてきました。桜希先輩、明日葉先輩、ありがとうございました!」
私たちに頭を下げ、飛び出そうような勢いでグラウンドに戻っていった。私と明日葉は、トイレに取り残された。話題の中心の人が去ったせいか、私たちの間に、きまずい雰囲気が流れた。
「意外とおしゃべりだねあの子。ちょっとあぶなっかしいところもあるけど、とってもいい子だ」
私が言うと、明日葉は「うん」と頷いた。
「一年前の“どこかの誰かさん”に似て、ほっとけない感じ」
それはたぶん、私のこと。
「その“どこかの誰かさん”は、明日葉にめっちゃ感謝してるってさ」
「あっそ」
私の感謝の言葉が響いたのかは分からない。明日葉が歩き出したので、私もそれに続いた。
◇◇◇◇
夕暮れ、カラスの鳴き声が街に響く。あかね色が空を染める中、私は乃愛と帰り道を行く。朝から吹き続ける強い風はいまだ衰えない。自転車のペダルをこいでも、なかなか進んでくれない。
「今日はやっぱ綾乃ちゃんがMVPだね」
乃愛が言う。今日の二試合は、6-1、7-2と、ともに千庄の完勝で終わった。全体的にみんなが活躍したといえるけど、なんといっても一番目立ったのは綾乃だ。
一番最初にマウンドに上がった綾乃は、三回無失点被安打0、5奪三振という完璧な投球を見せた。あのトイレでの緊張ぶりはなんだったのか、いよいよ才能が本領を発揮したかという無双ぶりだった。
「乃愛はさあ、綾乃の活躍に、なんか思わないの?」
聞くべきではなかったかも、と口から出してしまった後に思った。今日の乃愛は四回を一失点、悪くはないけど、綾乃が見せた投球には、ほど遠いできだった。
「めっちゃむかついている」
と、乃愛はにっこり笑いながら言う。本人もこの話題が嫌だったのか、すぐに違う話を振ってくる。
「今日は桜希も明日葉ちゃんもそんなに目立ってなかったね」
今日の私は五打席で一安打一四球、明日葉は五打席で無安打二四球、まったくチームに貢献できなかったわけでないけど、目立っていたとはいえない。
「ていうか二人とも、練習見てても、調子悪そうに見えるんだけど、もしかして、なんかあった?」
乃愛は私たちのことをある程度、感づいているのかもしれない。でも、
「ううん、なんもないよ」
「そう? なんかあったら、相談に乗るよ。わたしは二人の味方だからね」
乃愛の言葉はとてもありがたい。でも、これは私たちの、外に出してはいけない問題。たとえ乃愛といえども、包み隠さず話す気になれなかった。




