19話 決勝戦VS神戸海稜③
「ファウル」
バックネットにぶつかったボールは、無造作に地面へと落ちる。
初球、上橋さんの投じた球はかなり甘かったものの、捉えきれなかった。バットはボールの下を叩いていた。
球審が替えのボールを投手へと投げ渡す。上橋さんは、雑にボールを受け取った。
「……」
浮き上がった――ありえない話だけど、さっきのボールを表現するのなら、そう言うしかなかった。
通常、投手の指から離れた直後のボールのスピードと、キャッチャーミットに収まる直前のスピードでは当然前者の方が断然早い。空気抵抗を受け、ボールの勢いが小さくなっていくから。
だけど、そのスピードの差、初速と終速の差が小さいピッチャーもいる。そういう人のストレートは最後まで勢いを失いにくく、他の投手の球に慣れたバッターにとってはボールが浮き上がるように感じる。
たぶん、上橋さんのストレートもその類だ。
マウンド上、上橋さんはサインに一回うなずき、セットポジションに入る。
一球目を見て、私はストレートを打てない、カウントを稼げるからもう一球ストレートで、と相手バッテリーが判断してもおかしくない。
どっちにしろ、初見の変化球なんて投げられたって分が悪いんだし、ストレート狙いで行くしかない。
二球目、大げさな投球フォームから繰り出されたのは予想通りのストレートだった。
もちろん振りいった。が、またしてもボールはバットにかすっただけで、後ろに飛んでいく。
「っ……」
また同じだ。本来なら絶好球であるはずの甘いストレートをしとめきれなかった。
これでツーストライクと追い込まれた。上橋さんの決め球、スライダーがやってきてもおかしくない。
投球前、上橋さんはキャッチャーのサインに首を振る。一回首を振られたことで、次になにが来るか、なおさらわからなくなった。
結局、やってきたのはまたしてもストレート――私は辛うじてバットに当て、打球はフラフラと上がって三塁スタンドへ入っていく。
「ファウル」
そして四球目、上橋さんはまたしても一回サインを拒否してストレートを投じてきた。今度も、私はギリギリのところでバットに当て、ファウルで逃げた。
五球目、上橋さんはついに首を振らず、サインに一回でうなずいた。今度こそスライダー?
上橋さんの足が高く上がる。十分すぎるほどにため込まれたエネルギーは、右腕を介して一気にボールに伝えられ、やってくる。
内角高めにやってきたのは、ストレート、私は闇雲に手を出した。そんなスイングが当たるはずもなく、ボールは気持ちの良い音を立て、キャッチャーミットへと収まった。
「あっ……」
目の前がフリーズした。球審の三振を告げる声で、我に返った。
10数メートル先の上橋さんは、不適に笑っていた。いや、わからない。私の見間違いかもしれない。
「どうだった?」
力無くベンチへ帰る私に、次の打者、美羽先輩は聞いた。
「……浮き上がってきました」
アドバイスらしいアドバイスが浮かばず、それしか言えなかった。美羽先輩も、これ以上なにも無いと察したのか、すぐに打席に向かった。
「ドンマイ」
ベンチに戻った私をねぎらったのは、陽子先輩だけだった。みんな声を出し、美羽先輩に声援を送っているものの、どうしてだろうか、その声の一つ一つが途切れ途切れで、繋がっていないような感じがした。
さらに、美羽先輩も空振り三振を喫す。相手のエースの登場によって、千庄はあっさりとチャンスを潰され、いけいけだったムードは一気に萎みきってしまった。
◇◇◇◇
息苦しいのは、たぶん、暑さのせいだけでは無かった。
光先輩は、作凛打線を相手にしここまで五回一失点、完璧に近い出来である。あとは打線が点を穫るだけ。ただ、それだけなのに。
六回表、先頭の陽子先輩はマウンド上の上橋さんに相対する。
相手バッテリーは、意外にもカーブから入ってきた。おそらくストレートを待っていただろう先輩はこれを見送る。一つ目のストライクを取られる。
二球目は外角へのストレートで、先輩はこれに明らかなほどに振り遅れてしまい、力の無い打球が一塁ファウルゾーンへと転がる。
続いての三球目、先輩の顔の近くをものすごいスピードの直球が通っていく。先輩が仰け反ってしまうほどの危険な球。
終わりは四球目。さっきの回は見せてこなかったスライダーが、ストライクからボールゾーンへと逃げていく。先輩のバットは、ボールに対して全然届かない。三つめのストライク、審判がバッターアウトを宣告する。
私たちは遊ばれている。あの人は私たちで遊んでいる。これで前の回から三者連続三振、あっちにとっては思惑通りに三振してくれて、笑いが止まらないのかもしれない。
ベンチは静まりかえっていた。けどそんな中、戻ってきた陽子先輩はバットとヘルメットを置くと、
「麗! 打て!」
と、麗先輩に大声を飛ばした。陽子先輩の声に続いて、他の部員からも声が上がり始める。
先輩の声でベンチに活気が蘇った。でも、先輩はすっと私の横に立つと、声を潜め、こう言った。
「ずるいじゃん、あんなの」
耳を疑ってしまう言葉だったけど、すぐに消えてしまいそうな幻みたいな言葉だったけど、確かに先輩はそう言った。
先輩の視線は、グラウンドの方を向いている。
麗先輩の打席は一瞬で終わる。一球目のストレートを果敢に狙いに行ったものの、ボールはバットの根っこに当たり、鈍い音。
打球はボテボテ、彼女のため誂えられたように、上橋さんの真っ正面へと転がる。
彼女は一歩も動かない。ただ目の前にやってきたボールを捕って、一塁へ投げるだけ、それだけだった。
この回の二つ目のアウトを取られた瞬間、試合終了まであとアウト四つになった瞬間を見届け、隣の陽子先輩は視線を伏した。
「ごめん」
先輩は、私の手を握る。
五番の光先輩も三振に倒れた。これでいよいよ、私たちに残された攻撃は最終回だけとなった。光先輩の打席の間、ずっと私の手を握っていた陽子先輩は、回が終わった瞬間に手を離した。手に残った熱が、夏祭りの最後の花火みたいに、ずっと心に残った。
◇◇◇◇
六回裏の海稜の攻撃は二番から始まる。いよいよ最終回の攻撃を残すのみとなった私たちにとっては、この回を0に抑えることは必須だ。
でも、それは簡単なことじゃない。上位打線は易々とアウトをくれない。
先頭バッターに対して、光先輩が投じた球は甘かった。それを逃すバッターではなく、二球目を痛打された。
幸いにして、打球はセカンド正面へのライナーとなり、なんとか一つ目のアウトを取ることができた。
しかしここからが本当の地獄、クリーンアップを相手にせねばならない。
一人目、三番の上橋さん相手にバッテリーは慎重に攻めた。四球覚悟で、外角のボールゾーンへと投球を集めた。
けど、それも上橋さんには通用しなかった。外への変化球を簡単にライト前へと運ばれる。鮮やかとしか言いようがない、見事な流し打ちだった。
さらに四番にも単打を重ねられ、一、二塁のピンチへと場面が移る。日菜子先輩がマウンドへ駆け寄っていく。間ができる。
「やあ、また会ったね」
間ができると、この人の相手をしないといけない。この人、上橋さんが今日、二塁へやってきたのは毎回の三回目だ。
二打席目では左中間を破る二塁打、さっきの打席ではライトへの流し打ち。圧倒的なパワーを披露したと思えば、今度は技術を見せつける。私たちは、この人一人にやられていた。
「さっきの打席さあ。どうだった? あたしの球」
上橋さんは、私をあざ笑うかのような、邪悪な笑みを浮かべた。どうって言われても、無様に三振をした私にはどんな感想も言いようが無かった。
「どうって……」
「君がストレート待ってるって顔してたから、ストレート勝負してあげたのに。最高だったよ、三振した瞬間の君の顔。そんな……信じられない! ってね」
「なっ……」
突然の悪意に脳が理解を拒否していた。脳天を鈍器で殴られたみたいだった。頭がくらっとした。流れ込んでくる邪悪な感情が大きすぎた。
「このわたしが!? って顔してたよ、君」
私の小さなハートはあっという間に決壊して、感情がすべて涙となって溢れてしまいそうだった。
「あれ、黙っちゃった」
惨めな気持ちを悟られたくなくて、必死に効いてない顔を作る。だけど、何にも言い返せない姿が一番惨めだってことは、自分が一番わかっていた。
言い返さないといけないのに、反論しないといけないのに、怖くて口が動いてくれない。
ただ、手を強く握っていることしかできなかった。
「なかなか楽しかったけど、もう終わりだね」
六回裏の間、ずっと私は泣きそうだった。体は動いていたけど、頭の方が機能していなかった。
けど、相手に二点目が入ったことだけは、停止していた頭でもちゃんと理解することができた。
◇◇◇◇
「いい? 絶対チャンスはやってくる。最後まであきらめず、全力で一人一人やれることをやろう!」
「はい!」
「絶対勝つぞ!」
「オー!!」
最後の円陣が終わる。いよいよ七回表がやってくる。
二点差を追いかける最終回、気持ちを盛り上げていかないといけないのに。私の心には、さっきの上橋さんの言葉が暗い影を落としたままだった。
そんな私の元にやってきたのは、乃愛だった。
「誰も打ててないから、駄目でもなにも言われないよね?」
この回は六番からなので、七番の乃愛には確実に回ってくる。
乃愛の表情は余裕そのものだった。今日の成績はノーヒット、気負ってしまってもおかしくないのに、どうしてそんなリラックスしていられるのだろう。
「末広さん」
いつのまにか、私の元にもう一人、明日葉、乃愛へ言う。
「みんなが責めなくても、わたしだけはあんたを責めるから」
「いいね、そういうの。まあ、やるだけやってみるよ」
乃愛は打席の準備に入った。
試合のプレイがかかり、私と明日葉は隣り合ってベンチ前方に立つ。
「三打数一安打。これで満足なの?」
“三打数一安打”は今日の私の成績だ。明日葉の言いたいことはわかる。
「……じゃないけど。でも……」
けど、もうどうにもならない。私に四回目の打席がやってくるためには、二人ランナーが出ないといけない。
「大丈夫」
きっぱりと言い張るその力強い口調に、私は思わず明日葉の方を向いた。
「上橋だって、最後だってこと意識して、制球乱すかもしれないでしょ。だいたい、ああいう外見が良くて、完璧そうな人に限って中身がもろかったりするのよ。……あなただってそうでしょ」
先頭バッター、すみれ先輩のバットが空を切った。今日何度目かの空振り三振。これでワンアウト、勝利を目前にして上橋さんの投球に変わったところは見られなかった。
「あれは、私とは違う。人間じゃない、悪魔だから」
あんな言葉たちを素で吐ける人間が、ちょっとやそっとぐらいで心を乱すわけない。
『七番ライト、末広さん』
「悪魔だかなんだか知らないけど、末広さんがやってくれるから、見ときなさい」
ゆっくりと乃愛が打席に向かっていく。試合終了まであとアウト二つ。




