20話 決勝戦VS神戸海稜④
上橋沙音璃は、私の心を壊した。
第三打席の空振り三振、あえて私の狙いどおりの球で勝負され、惨めに喫した三振。さらにはその後の嘲笑、こんな屈辱は過去に受けたことがない。
きつい。早く家に帰りたい。
試合終わりまでのカウントダウンは、あと二つ。海稜の選手の中には、笑顔を見せているものもいる。
乃愛はいつもどおり、ゆっくりと打席に入り、リラックスした構えを取った。
マウンドの上橋さんは、まるでお手玉をするかのようにロージンバッグを空中に上げる。白い粉末が辺りに漂う。
球審の声に合わせ、上橋さんがワインドアップからの一球目、伸び上がるようなストレートがキャッチャーミットに収まった。
さらには二球目も似たような光景だった。ストライクゾーンに入ってきた剛速球に、乃愛は全然挙動を見せない。
三球目、上橋さんはサインに首を振った末に直球を続けてきた。乃愛はやっと振りにいった。というか、いかざるを得ない。擦ったような打球は、後ろへと飛んでいく。
続いてのストレートはボール球となる。その次の球もストレートで、乃愛はまたもやファウルにする。ギリギリの攻防が続く。
六球目はついに変化球がやってくる。外へと曲がっていくスライダーに、乃愛は食らいついていく。
決め球をファウルにされた相手バッテリーだったが、もう一回スライダーを続けてくる。連続のスライダーに、バットの出かかった乃愛だったけど、ギリギリのところでスイングを止める。
七球目、もう一回やってきたスライダーを乃愛は見極めた。これでツーストライク、スリーボール、フルカウントとなった。
ベンチがざわめきだした。盛り上がっていると言うより、なにか予期せぬことが起きたみたいに。
粘っている。みんながあえなく三振の山を築いていった豪速球とスライダーのコンビネーションに、乃愛はちゃんとついていっている。
「末広さんは当てるの得意だし、選球眼もいいから」
明日葉は言った。
「ボール!」
乃愛が四つ目のボール球をしっかりと見逃した。相手投手が変わってから、初めてのランナーが出た。これにはベンチも大騒ぎになった。
「あいつは、他人のことはうざすぎるほどわかってるくせに、自分のことはあんまわかってないみたい」
「……そうね」
明日葉の言ったとおり、乃愛はやってくれた。だから私は、すべてを委ねてしまおうと思った。
「私は……あの人を打てると思う?」
「うん」
普段、明日葉は、私と目が合うと、すぐに視線を逸らす。でも、今は、ずっと私をその瞳で捉えて、離さなかった。
私は、明日葉の手をとった。
「信じるよ、明日葉のこと」
明日葉は、
「わたしじゃなくて、自分を信じるの」
◇◇◇◇
乃愛の出塁に大盛り上がりの千庄だったけど、八番の日菜子先輩はあっさりと三振に倒れた。ツーアウト、バッターはラストバッターの三年生、前田未来先輩だ。
その初球、ストレートが真ん中付近に入ってきたが、未来先輩は手を出さなかった。いや手を出せなかったのか。
一人ランナーを出したからといって、上橋さんのストレートは依然キレキレで、先輩が打てる望みは、かなり小さい。
ここは本来なら全霊を込めて祈らないといけない場面だ。なのに、ネクストの私はとても落ち着いていた。
最大の準備をして、その時を待つだけ。
二球目、先輩のバットはかろうじてボールに当たった。力のない打球がサードとピッチャーの間に転がる。
「あっ」
サードがグローブを差しだし捕球しようとしたところ、そこに上橋さんが強引にボールを捕ろうと突っ込んでいき、二人は激突した。
ボールを奪取した上橋さんだったが、バランスを崩した。そのまま不安定な体勢で成された送球は、少しだけ高くて、ミットを伸ばしたファーストの足が離れることとなった。
「セーフ! セーフ!」
その“少しのずれ”によって、私たちの命は繋がる。これでツーアウトでランナーが一塁と二塁に一人ずつ、バッターは私。首の皮一枚繋がった。
相手のサードが上橋さんに一声掛けると、彼女は「ふん」とでも言いたいかのように横柄な態度でマウンドに戻っていく。
あんな性格だからチームメイトとはうまくいっていないんだろうけど、それにしても酷いと思った。相手は守備のタイムを取り、伝令役の部員がマウンドにやってきた。
上橋さんはチームの中で一人。一人で野球をやっている。そんな気がした。
そんな中、千庄も動く。芹沢先生が球審に選手交代を告げる。
『一塁ランナー、前田さんに代わりまして、関長さん』
マウンドに集まった内野陣の輪が解ける。打席に向かう。
「青見ちゃん!」
私を呼ぶ大きな声。
「打ってきます!」
陽子先輩に届くよう、いっぱいの声を出した。私は一人じゃない。
◇◇◇◇
「プレイ!」
球審が試合の再開を告げる。
バットを前に据え、ピッチャーを見定める。さっきの打席とは光景が全然違う。なにもかもがゆっくりで、はっきりと見えた。
二塁には乃愛、一塁には明日葉、二人がホームを踏めば同点となる。
初球、相手バッテリーが選んできたのは変化球だった。空気を抉るような切れ味抜群のスライダーが、ストライクゾーンを大きく外れ、私の肩付近へとやってきた。
「ボール」
ちょっと体を動かし、それを避けた。キャッチャーは体を投げ出し、なんとか捕球した。
当たっとけばよかったかな、いや、それはもったいないな。
これまでこんなコントロールを失った球は一個も来なかったけど、今の球は完全に制御の効いていない感じだった。
意外と、彼女も年相応な普通なところもあるんだ。
上橋さんがセットポジションへ、足が素早く、高くに上がる。私はストレートを狙う。
相手の足の動きに同期させ、私も足をあげ、軸足に体重を乗せる。踏み出した足を強く踏み込み、あとはボールを誘い込むだけ。
鞭みたいなしなやかさを乗せ、振られた上橋さんの腕。回転の最中に放たれたボールは、あっという間にゾーンへ入ってくる。
見えた。ここだ、と思った。足の裏から腕、そこからバットへと繋がっている私の神経が、一気に動き、バットがボールを真芯で捉えた。手首を返す。心地よい感触が、バットから足の裏、脳にまで伝わった。
右中間へと鋭く飛んでいったライナー性の打球、ライトが追っていく。
「抜けろ!」
ライトは打球には届かなかった。何回かバウンドして、ようやくライトは追いついた。
私はとにかく走った。一塁を回り、二塁へ。早く二塁へたどり着いて、明日葉は?
ボールはライトから中継先のセカンドへ、さらにホームへと渡っていた。けど、ボールよりも早く明日葉はホームを踏んでいた。
「や、やった……!」
同点、同点だ。右腕を思いっきり天に突き上げた。歓喜に湧く千庄ベンチが見えた。
次のバッター、美羽先輩の打席となる。上橋さんは続投で、その打席は、デッドボールとなった。
上橋さんが投じた一球目のことだった。球が当たったのは、美羽先輩の手か、それともバットのグリップか、一瞬わからなかった。
けど、痛そうに顔を歪める先輩と、死球を宣告する審判の声で、手に当たったんだってわかった。
先輩は少しのコールドスプレーを掛けたあと、駆け足で一塁に向かっていく。とりあえずは大丈夫そうで安心だった。
「三番サード、吉川さん」
ツーアウトランナー一塁、二塁と代わり、打席には陽子先輩。ここでも相手の監督は出てこず、上橋さんはマウンドに立ち続ける。マウンドに駆け寄るものもいない。
「先輩!」
上橋さんの投球は荒れてはいたものの、威力は未だ健在だった。先輩も捉えきれず、ツーストライクツーボールの五球目。
きた、と思って走り出す。だけど、ボールは無情にもサードのグローブの中に収まった。
「ああ……」
サードライナー、良い当たりだったけど、サードの真っ正面だった。
肩を落としながらベンチに戻ると、みんなから手荒い祝福と歓迎を受けることとなった。
私は、真っ先に明日葉の元に行った。
「やった……やったよ」
「暑苦しい、近寄るな」
抱きつきにいった私だけど、拒否された。
「明日葉の言う通りだった」
「あんなの、全部出任せなのに」
そう言う明日葉は、スポーツドリンクの入った紙コップと、私のグローブを用意してくれてた。私はそれを受け取り、一気にドリンクを飲み干した。
「でも、嘘つきにならなくて良かった」
明日葉は、優しく柔和に微笑んだ。
と、そこで、同点となり盛り上がっているはずのベンチの雰囲気が、なぜか重々しくなっていることに気づいた。
理由はすぐにわかった。美羽先輩だった。
「あたし、この後守備に付けそうにない」
美羽先輩は、芹沢先生に沈痛な面もちで話しかけていた。デッドボールを受けた右手を庇いながらだった。
「大丈夫だと思ったけど、たぶん投げるのは無理、です。みんなに……迷惑かけたくないから。最後なのに、こんなところで、やめ……たくないけど」
涙を流し、だんだんと言葉が途切れ途切れになっていく。美羽先輩はついにしゃがみこみ、顔を手で覆って泣いた。
陽子先輩もしゃがみこみ、美羽先輩の背中を軽くさする。そんな様子を、私たちは言葉を失いながら見ているしかない。
美羽先輩の声だけ響く中、なかなか守備につかない私たちをいぶかしんだのか、球審がやってくる。
「大丈夫ですか?」
先生は「ちょっとすみません」と球審に頭を下げ、陽子先輩と目を合わせた。
「とりあえず、セカンドに誰かを。陽子さん、あなたが」
けど、なぜか先輩はすぐに返事をしなかった。数秒、なにかを考えたような顔をする。
「陽子さん?」
「いえ、先生」
陽子先輩は立ち上がった。
「関長ちゃん」
先輩は、明日葉の方を見て言い放った。
「あなたがセカンドに入って」




