13話 相合い傘
午後から降り出した雨は、放課後になっても止むことはなかった。今年の梅雨はしつこく、なかなか私たちに夏を見せてくれない。
それでも夏の県大会は進んでいき、残すは準決勝、決勝を残すだけとなった。
初戦である二回戦に勝利した千庄は、その後、危なげなく勝ち進んでいき、四強に名を残した。
大会は一旦、休みの期間を置き、週末に最後の三試合が行われる。平日の今日は、普通に学校に通って放課後は部活という、安定のスケジュールだった。
ただ、この降雨でグラウンドは使えなかった。室内で体を動かしたけれど、明日以降に疲れを残さない程度の軽い負荷の、短い練習だった。
というわけで、今日の帰宅はいつもより早い時間だった。
「あれ?」
傘を差し、学校の敷地を歩いている途中によく知った顔を見かけた。
学校の玄関から突き出た屋根、そこにひっそりとたたずむ制服姿、明日葉だった。じっと雨の様子を眺めていた。
「なにしてんの?」
私が近づくと、明日葉はぶすっと顔を背けた。
「わかった、傘忘れたんでしょ」
なにも言わないのは、肯定の証だった。
「私の傘、入る? 駅まで送ってあげよっか?」
明日葉は電車通学だ。学校の最寄りの駅までは歩いて十分ぐらいで、たいした距離じゃない。明日葉はやっと口を開いた。
「断る。あんたの家、駅と逆方向じゃないの」
明日葉は、なおもまくし立てる。
「そんなに寄り道させてあんたが風邪でも引いたら、先輩たちになんか言われそうだから。わたしは先輩たちに嫌われてるのよ、特に主将にはね」
「そんなことないって、考え過ぎだってもう。大丈夫だから」
「わたしのことは気にしないで。さっさと帰って」
明日葉は「しっしっ」と私を遠ざけるように手を外にふる。
「もう、相変わらず強情なんだから。私がいいって言ってるんだから、おとなしく甘えてきてよ」
「なによその言い方。強情なのはそっち。わたしはいいって言ってるじゃないの」
「だからそれが強情だって言ってんの。なにがそんなに嫌なの?」
「あんたに借りを作るのが嫌なのよ」
私たちが喧嘩でもしているとでも思ったのか、男子生徒が物珍しそうにこちらを見ながら横を通ったのが見えた。
「借りとか、そんな小さなことどうでもいいでしょ。素直になって。困ってるんでしょ」
明日葉は不満そうに口をとがらせていたが、急に、
「……わかった」
と言った。ようやく折れたかと思っていると、
「この前、中間テストで負けた方がなんでも言うこと聞くっていうのがあったでしょ。あれ使うわ」
なにを言い出すのだろう。確かに、勝った方が負けた方になんでも命令をしていい、という約束を私たちは前回のテスト時にした。結局明日葉が勝ったけど、内容を決めかねているとかで、いまだ私は命令を受けていない。正直、忘れていた話だった。
「あんたへの命令はわたしを駅まで連れて行くこと。これでいいでしょ」
「命令じゃなくてもやるのに」
「わたしがいいって言ってるのならいいのよ。ほら、帰りましょ」
明日葉は強引に私の手の上から傘を掴むと、つかつかと歩き出した。
戸惑いを覚えつつも、私はそれについていくしかなかった。ひさしを抜けると、雨が傘を強く打ち始める。
「そういえば末広さんは?」
「用事があるって言って、お母さんの車に乗って先に帰った」
「ふーん」
こうして、私たちの短い間の相合い傘が始まった。
「場所代わって」
学校の敷地から道路にでた瞬間、明日葉はわざわざ私と歩く場所を交代し、車道側に自らの体を置くことを提案してきた。
「どうして?」
と聞くと、「水が飛んでくるから」と言った。私たちが歩く歩道は狭く、横を結構、車が通り過ぎていく。アスファルトには水たまりがたくさんで、いつこちらに水が飛んできてもおかしくなかった。
「別にいいのに」
「付き合わせといた分際で、濡れさせたら嫌だから」
断ってはいけないと思った。私たちは、互いの場所を入れ替えた。
「ずっと聞きたかったんだけどさ。いつも何の本読んでるの?」
「ミステリー小説」
「へえ。今度おすすめ教えてよ」
そう聞くと、明日葉はミステリー小説についていろいろと教えてくれた。饒舌な口振りだった。聞いたことのないタイトルをおすすめされたけど、明日葉が言うのならと、興味が出てきた。
しばらくは日常のこととかを話したり、二人とも沈黙したり。雨の音と明日葉の声しか聞こえない。
そして、話題は野球に移り、私の口は、いつのまにか最近ずっと抱えていた思いを発露した。
「勝てると思う? 私たち……」
ここ最近の心配事、それはもちろん、県大会のことだった。
千庄は準決勝に駒を進めたけど、ここからが茨の道となるのは間違いない。準決勝の対戦相手は名門、成徳学園だった。強力なエースを中心とした強豪で、これまでの相手とは一段も二段もレベルが違う。
もし、成徳学園に勝つことができた場合、予想される対戦相手が、神戸海稜高校だった。
神戸海稜は、兵庫県のトップに長年君臨し続けている、全国屈指の女子野球の名門校である。私たちの最大の障壁だった。
千庄は毎年、準決勝、決勝と全国まであと一歩というところまで迫りながらも、最大の壁を乗り越えられないでいる。
「知らないわ、そんなの。わたしに聞いてどうすんの」
「あなたの意見が聞きたくて」
明日葉は、私をちらっと見て言った。
「そんな不安そうな顔してさ。“大丈夫、勝てるよ”としか言えないじゃない」
自分では“不安そうな顔”しているつもりはなかった。たぶん、私のことは全部、明日葉にはお見通しなんだ。
駅が見えてきた。雨に隔たれた世界はもうすぐ終わる。
体を寄せ合うと、明日葉の体温が制服ごしに伝わってくる。前から思っていたけど、明日葉の体はめちゃくちゃ暖かい。ずっと触れていたい、その体温を分けて欲しいと思った。
「一つお願いがあるんだけど」
「却下」
まだなにも言ってないのに、速攻の否定だった。
「お願い、聞くだけ聞いて」
明日葉は「まあ、いいけど……」と言う。私は意を決して言った。
「もしこれから明日葉の目から見て、私が緊張してたり、とにかく弱っているように見えたら、励ましてくれない」
「はあ!?」
なかなか恥ずかしくて、真っ正面からお願いできることではないけど、今のこの空間なら言える気がした。ここを逃すと、もうずっと心にとどめておかないといけない気がした。
「なんでわたしがそんなことしないといけないのよ」
「だって、明日葉は私のことすごくわかってくれるし。明日葉の励ましだったら……なんというか、めちゃくちゃ頑張れそうだから」
「……意味わかんない、めんどくさ」
たぶん、今の私は相当にめんどくさい女だ。
「そんなこと、爪剥がされたってしないわ」
ため息を吐いた。変なことを言ってしまった。明日葉を前にした私はおかしくなってしまうんだ。
「ごめん、変なこと言っちゃって。忘れて」
それからずっと変な雰囲気が流れたまま歩き続け、駅にたどり着いた。構内には多くの学生服姿の人がたくさんいた。
「あれ、止んだ」
ちょうど駅の敷地に入ろうかというとき、なぜか、降り続けていた雨がぴたりと止んだ。
「じゃあ、帰るね」
「風邪ひかないでよ」
「大丈夫だって」
明日葉は私へ背中を向けた。そのまま駅の中へ消えていくと思ったけど、
「ありがと」
後ろを向いたまま、そう言った。どんな顔をしているのだろうと気になったけど、なんとなくわかるからそっとしておいた。
「バイバイ!」
去りゆく背中に向かって手を振ってみる。すると明日葉はちょっとだけこっちを見て、ほんの少しだけど手を振り返してきた。
「じゃあね」
もう一回大きく言ってやると、明日葉は走って駅の中へと消えていった。さっきの振り返った明日葉の姿は、可愛かった。
一筋の光が、曇天の空の隙間からさす。少しだけ足を弾ませて、自宅への道を私は歩いた。
そして以降、まとまった雨はしばらく降らなかった。梅雨が終わり、本格的な夏がやってきた。




