95話 兵庫県大会決勝VS神戸海稜⑦
延長八回裏ワンアウト、明日葉は追い込まれてから粘り、最終的にフォアボールによる出塁を果たした。還ればサヨナラ勝利、試合を決すべき時が来た。
十球以上使った上でのフォアボールで、ピッチャーにとっては相当きついはず。沙音璃は天を仰いだ。
大きな歓声に“二番ショート、青見さん”という場内アナウンスがかき消される。たくさんの音たちを背に、私は左打席に立った。
足場を均す。顔を上げ、左手を左肩の前に置き、右手一本でも持ったバットを目の前へ掲げる。バット越しに、沙音璃を見据える。半円を描くような軌道で右手を左手まで持っていく。
プレイ! と球審が始まりを告げた。セットポジションから沙音璃はくるっと向きを変え、一塁への牽制をした。セーフ、と一塁審が腕を軽く広げる。
言うまでもなく、明日葉は二塁を狙っている。相手が最大限に警戒されていることも承知の上でだ。
さらに沙音璃は、牽制をもう一回挟んだ。ようやく私へ投じた一球は、ストライクゾーンを大きく外れていた。キャッチャーが立ち上がってのウエスト――盗塁を警戒したのだ。
気配を感じ取ったか、明日葉はスタートを切らなかった。このウエストは無駄球に終わり、ボールカウントが一つ増えただけになった。
バッテリーと明日葉の二塁を巡った駆け引きで、局面の緊迫感が増していく。常に次の展開を予想し、備えを持って打席に望まないといけない。
明日葉の盗塁成功は、決まれば大きいが、勝利に必須ではない。むしろ必須なのは、私が打つことだ。チャンスを広げる、または明日葉を返すことが私には求められる。
だからこそ、明日葉の盗塁を待っているわけにはいかない。盗塁試行の有無は置いといて、甘い球が来れば打ちにいかないといけない。甘い球なんて、沙音璃相手では一打席に一球あるかどうかで、好機を逃さない。
二球目、明日葉はスタートを切った。ストレートが低めに決まった。“ボール”と判定される前に、キャッチャーは二塁へ送った。
相手にミスはなかった。沙音璃のモーションは限りなく小さかった。キャッチャーの送球は力強く、正確だった。でも、勝ったのは、明日葉の足。
セーフ、と二塁審が大きく両手を広げ、一塁側ベンチ、スタンドを中心に、歓喜の声が広がる。
このプレッシャーの押しかかる場面、明日葉は相手の何重もの警戒の網をかいくぐった。ワンアウト二塁、一打出ればサヨナラのチャンス。あとは、私の番。
今の球でカウントはツーボールとなった。さらに一塁は空いている。ここまでの私の成績は、センター前ヒット、右中間への三塁打、ショートへの内野安打と三打数三安打だ。
普通の相手ならば、私を四球で歩かすだろう。でも、そんなこと、沙音璃がするはずない。
予想通り、キャッチャーは座った。プレイがかかり、第三球、うねるような剛速球が、ど真ん中を襲う。
強いスイングで迎え打ったが、打球は前に飛ばなかった。真後ろへ向かう、ファウルとなった。スタンドから、おおっ、という感嘆の声が何重にも重なって聞こえた。
この大胆すぎる球で、勝負してくれることを確信する。
四球目、外角低めにストレートが決まる。非の打ち所のない、気持ちよすぎる球でツーストライク、私は崖っぷちに追い込まれる。
さすがに今の球をヒットゾーンに飛ばすのは無理だ。ど真ん中へ来た、三球目を打っておきたかった。
でも、あれを私がファウルにしかできなかったというのが、今の沙音璃の投球の凄さを端的に表している。終盤にかけて尻上がりに調子を上げ続けていた沙音璃は、私の打席となり、さらに球のキレを増してきた。何段階のエンジンを積んでいるのだろう。
五球目はストレート、六球目はスライダー、ともに当てるのが精一杯のファウルとなる。なかなかヒットゾーンに飛ばすのは難しいが、当てるだけならなんとかなる。ファウルで逃げまくって、打てる球をひたすら待つ。
七球目、真ん中付近へのストレートを打ちきることができない。またもファウル。今のみたいなのを捉えなければ、この勝負に勝機は無い。
八球目は、内へ食い込んでくる切れ味抜群のスライダーだ。ボールと球審は判定した。あと、キャッチャーがボールを逸らした。パスボールで、明日葉が三塁に進む。
サインミスのように見えなかった。要求どおりの球であったのに、キャッチャーはボールを捕まえることができなかった。余りの変化の大きさ、鋭さのせいだろう。あれがまともに決まっていたら、当てることすらできなかったかも。
とはいえ、ランナーは三塁に変わった。もう一回逸らせば、点が入ってしまい、試合は終わる。あとは、ストレートしか来ないんじゃないかと思う。
沙音璃はキャッチャーのサインに何回も頭を振った。ようやくセットポジションに入り、投じてきたボールは、やっぱりストレートだった。これも、ファウルになる。
そして十球目も十一球目も十二球目もストレートが来た。全部、ファウルになった。真ん中付近もあったのに。
延長戦に入った。沙音璃は、明日葉と私に連続で十球以上投げている。試合を通しては百二十以上だ。なのに、この球だ。遠目に見える沙音璃の瞳は、ライオンのそれのように獰猛に光る。そのまばゆさは、私を捉えて離さなかった。
最後は十三球目、
「ストライクッ、バッターアウト!」
高めのストレートに振り遅れた。当てることすら叶わない、たぶん今日一の球に、あえなく散る。
一塁側が沈黙し、三塁側が狂乱に陥る中、打席を降りる。
「あとは頼みました」
「うん」
『三番センター、相庭さん』
一瞬で冷え切っていた一塁側ベンチも、すぐに副キャプテンへの期待で熱さを取り戻す。私の三振などなかったことのように、みんな声を出している。悔しさに打ち震える人間に、居場所はなかった。
ただ、そんな私の隣にやってくる人がいた。バットとヘルメットを置き、ベンチの前の方に立った私に、
「ナイス」
と日菜子先輩は横に立ち、言う。
「ナイスって……三振だったのに」
「きっと、無駄じゃない。あの粘りは」
そう言った先輩の視線は、打席に立つすみれ先輩を向いていた。
私の打席が無駄に終わるか否かは、全部、すみれ先輩にかかっている。そうだ。悔しさに囚われている暇はない。全力で先輩を応援するだけ。
「すみれ先輩、頑張れ!」
沙音璃は興奮を収めるよう、時間を使い、セットポジションについた。ゆったりとしたフォームから、すみれ先輩への第一球を投じる。
「ストライーク!」
私の時と変わらない。剛速球がミットに突き刺さる。すみれ先輩のスイングは、ボールの
軌道の遠くを通った。
私を三振に打ち取ったことで、沙音璃の気持ちが切れることをちょっと期待したのに、まったくその気配はない。
絶望感が再び、心に巣くう。明日葉の頑張りが全部無駄になり、この回が無得点に終わるちょっと先の未来を思ってしまう。
でも、すみれ先輩が打席でしたある行動が、そんなイメージを消し去った。
「えっ。ねえ、あれって……」
日菜子先輩がうろたえたのも無理はない。すみれ先輩は、左手で自身のヘルメットが二回叩いた。私と明日葉、先輩が決めた、ランナーが盗塁したいという意思を示すサインだ。
あれはバッターではなく、ランナーが出すものだ。さらに今はツーアウト、どんな作戦も講じれない。すみれ先輩の意図が全く読み取れない。
もしくはあれはサインではなく、ただの無意識のうちの、意味を持たない行動なのかもしれない。いずれにしろ、全てを判断するのは、ランナーの明日葉だ。
「すっちゃん……」
日菜子先輩が私の手をとった。手がめっちゃ熱かった。
沙音璃の左足が上がる。右腕が振られる。
「ストライーク!」
すみれ先輩はさっきの再現のような、同じような空振りを喫する。キャッチャーが立ち上がり、ボールを沙音璃へ送る。
「えっ!?」
光景に異変が生じる。キャッチャーの指をボールが離れた瞬間、三塁ランナーの明日葉が走ったのだ。ホームスチール、だ。
キャッチャーの送球はゆるく、山なりだった。ボールが宙に浮いている間も、明日葉は本塁目指して走る。送球を捕った沙音璃は、すぐに本塁へ送る。明日葉は引き返さず、ひたすら走る。
キャッチャーがボールを掴み、タッチにいった。明日葉は頭から突っ込んだ。土埃が舞った。
「セーフ!」
判定を聞いた瞬間、何が何だかわからないまま、ベンチを飛び出した。
「やったやった!」
「凄すぎます先輩!」
明日葉のホームスチームでのサヨナラ勝利という劇的な展開に、千庄部員は本塁付近で踊り狂った。ただ、
「きゃあ!」
という誰かの悲鳴が聞こえた。時間が止まったように、歓喜が消えた。続いて「沙音璃!」と言って、神戸海稜の部員たちがマウンドへ駆け出した。
またもや何が起こったか分からぬまま、皆が向かう方へ目を転じる。そこには、糸が切れた人形のようマウンドに倒れた、沙音璃の姿があった。
◇◇◇◇
「あれは、白旗宣言みたいものかな」
すみれ先輩が言う。
「もう、あたしじゃこんな球打てないってわかったから。あとは明日葉様、なんとかしてください、って感じでサインを出したけど、理解してくれてよかった」
私たちは控え室で表彰式が始まるのを待っていた。みんな歓喜の表情をしていたけど、すみれ先輩は、どこか悔しそうな顔をしていた。
明日葉が「いえ」と前置きしながら、
「相手バッテリーが隙だらけのが、一球目でわかったんです。たぶん、桜希を三振に打ち取ったことで安心して、あとは先輩を抑えるだけだ、って。
あいつ――上橋沙音璃も球だけはよかったけど、やっぱり気持ち的に楽になって、バッテリーともにランナーのわたしの存在を完全に忘れていた
だから、単独でホーム狙えると思ったんです。サインを出すか迷ったんですけど、だけどさすがにホームスチールは、先輩の気持ち考えるとやりづらくて」
あそこでホームスチールをするなんて、先輩が打つことはまったく期待してません、と言うようなものだ。
「そこで、あたしのサインが出たと」
「そうです」
「渡りに船って感じか。なんかまあ、上手くいって、勝てて嬉しいけど、やっぱ悔しいな。結局、後輩二人に頼るしかできなくて」
「あたしもめっちゃ悔しいです」
と、会話に入ってきたのは美月である。
「全然打てなかったし、挙げ句の果てに最後エラーしたし」
「わ、わたしも!」
さらに、綾乃が割って入る。
「全部、わたしが悪いんです。わたしがあんなピッチングしてなかったら、乃愛先輩の好投とかも、全部無駄にしっちゃって……」
「ううん、元はといえばわたしがマメ潰したのが悪い」
乃愛も加わり、この辺一体の空気がさらにじめっとしたものになった。
「なんだなんだ、辛気くさいなあ、あなたたち」
悪い空気を吹き飛ばすような笑顔でやってきたのは、日菜子先輩だった。先輩は美月と綾乃の肩に手を掛けると、
「反省もいいけど、今ぐらいは勝利を喜んでもいいんじゃない? ねえ、あっちゃんさっちゃん」
同意を求められた私と明日葉は、曖昧に頷いた。
「あんたは活躍したからいいかもしれないけどねえ」
すみれ先輩が言うと、日菜子先輩が「ああ、あれ」と手を叩いて、私へ視線を転じた。
「あなた、また私にタメ語でなんか言ったでしょ」
「え? 言ってないですけど」
「なんか、二塁ランナーの時、“先輩、なんとかして!”って」
「……それは言った気がしますけど……別にタメ語とかじゃないですよ」
「ああ、いいのいいの。別に責めてるわけじゃないから。ただ打席でそれ聞いた、あいつまた私のこと舐めてるとか思ってたら力が抜けてさ。で、適当に打ったら、なんとヒットになった。さっちゃんのおかげかも」
なんかよくわからないけど、先輩のためになったのなら良かった。あのヒットがなかったら、勝利はおろか、そもそも延長戦に入ることもなかった。
「それより、上橋さんはどうなったの?」
沙音璃の名を聞いた瞬間、あの衝撃的な映像が脳裏に蘇った。マウンドに倒れ込み、担架に乗せられ運ばれていく沙音璃の姿は、私たちへの祝福ムードを跡形もなく消し去ってしまった。
「わかんないです」
「あなた、あの子と友達でしょう。見舞ってきてあげたら?」
日菜子先輩の言うとおりにした。私と明日葉は、沙音璃がいるであろう救護室に向かった。
◇◇◇◇
部屋の前には、何人かの神戸海稜の部員と、監督さんがいた。私が「あの……」と声を掛けると、彼女の中の一人が「あっ」と声を上げ、
「青見さんと関長さん」
「あの……沙音璃は?」
「ああ、大丈夫だよ。あれからすぐに意識取り戻したし、軽い熱中症と、試合に負けたショックでああなったみたいだけど」
「そうですか、よかったです」
「ただ、かなりショックを受けたみたいで、一人にしてくれって」
ここまでやってきておいてなんだけど、顔を見せるべきか迷った。けど、明日葉が勝手に救護室をノックし、「失礼しまーす」と言ってドアを開けた。
「なんだ、誰かと思えば桜希と、アシタバじゃん」
ベッドで横になっていた沙音璃は、起き上がり、ベッドの端に腰掛ける体勢へと変わった。
「アシタバ言うな」
「そんなことより……大丈夫?」
「ううん、大丈夫だよ。だってあれ演技だし」
「え、演技……?」
「喜んでいる君たちを見たらむかついてきて、邪魔してやろうと思ったの。あそこで倒れてやれば、あたしは悲劇のヒロインになって、祝福ムードぶっこわれるからさ」
沙音璃はあっけらかんと笑った。
「そんな余裕がありそうには見えなかったなあ。もう、正気を失った顔だったから、死んじゃうかもと思って、早く終わらせてやろうと思ってホームスチールしてやったの、わたし」
明日葉が、煽り気味に言った。
「……あの辺だけど、正直なところ、よく覚えてない。桜希に五球投げた当たりから、体が浮いている感じがしてた」
沙音璃は神妙な顔をして言った。明日葉がそれに対し返す。
「その割には、とんでもない球だったけど」
「……自分でもびっくりしたよ。あたし、あの域に達せたんだ、って。意識が薄れる中でも、自分が限界を超えていっているのがわかった。ありがと、二人とも」
「な、なに、急に」
「君たちのおかげで、まだあたしが成長できる、上にいけるってわかったから。うん、やっぱりライバルって大事だ」
今度は、演技感のない、ちいさいけれど自然な笑顔だった。私も、沙音璃に感謝を伝えたくなった。
「それを言うなら、私も。最後の打席で、打ち取られたけど、ちょっと嬉しかった。なんか、やっぱ沙音璃は凄い。沙音璃がいるから、今後も私、楽しくて面白い野球ができるし、成長できると思った」
「そっか」
私の言葉を聞くと、出会ってから一番の穏やかで優しい表情に、沙音璃はなった。でも、
「まあわたしも、最後の打席ホームラン打とうと思ってたのに、フォアボールとのが精一杯だったから。やっぱ、凄いって思った。今後も、難敵であり続けて欲しい。そしたら、わたしも伸びてかないといけないしね」
明日葉が言うと、沙音璃は眉間にしわを寄せ、
「なんか、煽ってない? あんたは人を煽ることしかできないのかしら?」
「あんただけには言われたくないんだけど」
「はあ?」
喧嘩っぽくなった。なんだかこの二人、全然馬が合わないみたいだ。とはいえ、本気の感じはないので、私は安心して、くすくす笑っていた。
「さて、そろそろ帰ってもうおうかな」
ひとしきり言い合いした後、沙音璃は言った。
「なんか、ようやく落ちついてきて、やっと悔しさが出てきた。もう泣いちゃいそうだから、早く出てって」
これは冗談めいた感じはなく、私と明日葉はお大事に」と言って部屋を出ようとした。沙音璃は最後に、
「ねえ、あたしって……」
と私たちを呼び止めたが、そこから続かなかった。やがて涙をすする声が聞こえたので、「じゃあね」と言って、ドアを閉めた。
「どうだった?」
部屋を出た瞬間、さっきの海稜部員が聞いてきた。
「元気そうでした。少なくとも、体の方は」
「そっか……ありがとね……あの、頑張ってね、私たちの分も全国で優勝して」
私たちは「はい。頑張ります」と返して、一塁側へと戻った。部員の赤く腫れた瞳が印象に深々と残った。きっと彼女も、試合後はたくさん泣いたのだろう。
一塁側へと向かう通路を進むにつれ、なにやら騒がしい声たちが徐々に大きくなっていく。
「やったぜ! 優勝だあ」
千庄部員たちは、未だ盛り上がっている。控え室の一歩手前で、私は立ち止まった。
「なんか、入りにくいなあ」
「どうして?」
「さっきはああいったものの、やっぱ悔しい、最後の打席。明日葉を私の手で還したかった」
私は通路の壁にもたれかかり、座り込んだ。さっきの沙音璃じゃないけど、なんだか急に最後の打席後の悔しさが舞い戻ってきた。
「でも、桜希があれだけ粘ってくれたからこそ、相手に隙ができたの。最後のわたしのプレーは桜希のおかげ」
明日葉は屈み、私の首に腕を回した。体と体の間に隙間がなくなる。明日葉の体には、試合の余熱が未だ残っていた。私は言う。
「……まあ、そもそも私が打ってたら、最後のもなかったわけだし。明日葉、めっちゃかっこよかったから。あれが見れたってことで、よしとしようかな」
「ふふ、ありがと」
「でも、次は私が決める」
「うん、その意気」
◇◇◇◇
すべてが終わり、私たちは記念撮影をした。日菜子先輩が大きな声で、
「去年優勝、今年も優勝! 千庄は――!?」
「Vツー!!」
みんながピースし、シャッターが切られる。長く苦しい戦いだったけど、千庄は勝ちきり、二年連続の県大会優勝となった。
これで、全国の猛者たちへの挑戦権を得た。二度目の全国女子硬式野球全国選手権大会、あの舞台に、再び私たちは立つ。




