其の漆
モモセの一番古い記憶は、幼稚園の頃くらいだったかと思う。それはカズイがはじめて子どもらしく泣いた時の記憶だ。
六本木兄妹は全員が見事に年子として生まれてきたため、モモセやチタカは兄のマコトと。マコトが卒園すれば妹のカズイと登園していた。
兄妹の性格の基本的な部分は変わってはいないはずだ。マコトはあの頃から違う世界を垣間見てヘラヘラしていたし、チタカは一度キレると手が付けられなかったし、モモセも兄たちの姿を見て同じ轍は踏まない慎重さがあった。
周りをよく見て観察し、大人や年長者の手を煩わせないようにするのは、幼い頃からの特性だったのかもしれない。
そんなモモセだったが、妹のカズイに対しては謎に思う部分が大きかったように思う。
カズイは末っ子という事もあり、忙しい父母達から割と放置されていたところが多く、モモセの記憶の中でも妹が泣いていた光景はほぼない。
恐らく、赤ちゃんの頃に色々と諦めるスキルを獲得したのだろう。ただぼんやりと静かに座っているような、目立たない子どもだった。
マコトと似たような気質なのかといえばそうでもなく、世の中や周りに対して「そういうものなのかもしれない」というスタンスでいるらしかった。
自己主張激しい兄妹の中で、カズイは幼い頃から静かだった。モモセにはそれが不思議でしょうがなかった。マコトやチタカにオヤツを食べられても、おや?という反応はするものの、特に追求するようなこともしない子どもだった。
不満があるなら声をあげるべきと思っていたモモセからして見ると、カズイはそもそも不満というものがあまり無いらしく、余計に謎めいた存在としてカズイを見ていた記憶がある。
そんな妹に鮮やかな色がついた事件があった。
幼稚園の帰り。いつもより元気がない様子を見せていたカズイの手を、チタカが握った時だった。
「いたぁい」
舌足らずな言い方で手を引っ込めたカズイが、チタカに握られた手を見ている。見るとつねられたような痕がついていた。ふっくらとした手の甲が赤く腫れて痛々しい。
咄嗟にカズイの顔を見ると、小さな手で涙をふいている。
「カズイ、その手なに?」
「カズちゃん、おててどうしたの?」
チタカとモモセが訊ねるも、カズイはしょんぼりとしたまま首を振っていた。
「だれかに、おててギュッてされたの?」
「…しらない」
知らないことは無いはずなのに、カズイは俯いたまま手を隠す。そんなカズイの背後で、同じサクラ組の男児達が「ヨウカイ!」「いなくなれ!」「きもちわるいかお!」と喚き散らす声を聞いて、モモセが睨みつけた。
「あの子たちがやったの?」
何も言わないカズイの頭を撫でたチタカが、年少組の男児達の方へ走り出す。年長組のチタカが向かってきた事で彼らは、蜘蛛の子を散らすように走り出した。
これは、ケンカになるやつだ。
「チタカまって」
モモセが止めようとした所で、運良く迎えに来た母がチタカの制服の襟を掴んで阻止する。
「一体なんの騒ぎかしら?」
派手な髪色をしていたが、綺麗な顔立ちの母にはよく似合っていた。よく笑いよく怒る母だった。
何も言わず、ただ赤く腫れた手を隠すカズイを見た母がモモセに目を向ける。
手の甲をつねられたかもしれない事、サクラ組で男の子達から、妖怪とか気持ち悪いって言われてるらしい事を告げる。
目の座った母の顔は今でも覚えている。
角でも生えるのか、と思うくらいの怒りで綺麗な顔が歪められていた。
「あたしの子に向かってよくも……っ」
職員室に怒鳴り込みに行った母を見送り、モモセとチタカは小さな妹を挟んで、園庭の隅で待つ事にする。
カズイは母が来たことで少し気が抜けたのか、いつものようなぼんやりとした表情で、空を見あげていた。
モモセは、少なからずショックだった。
妹がいじめられている事、そして何も言わずに悲しみと痛みを堪えていた事。何より、カズイの感情らしいものの発現が痛みであった事が許せなかった。
でも同時に理解もした。ぼんやりしているようには見えていても、カズイもちゃんと感じることができるんだ、と。それを、大きな声で言わないだけであった事も。
謎に包まれていた妹の存在に、輪郭が与えられた気がした。
27となったカズイは、相変わらずぼんやりとしている。
歯科医師となって臨床現場に出ているとは聞いているものの、モモセの知る歯科医師像とはやはり違う。
幼い頃に矯正治療を受けたことがきっかけで、高校の進路を何となく決めたらしい話は千溪から聞いたものの、医療現場にカズイのふわふわした人格が馴染んでいるのか、たまに疑問に思う。
しかし、アヤノの視点を通して見るカズイは、どんな患者に対しても優しく誠実で、治療を諦める事はないという。一定のファン(患者からの指名)もあるというのだから、しっかりやれているのだろう。
そう思うと、手をつねられて涙をふいていた小さなカズイも、成長したんだな。などと思うのである。
そんなカズイの、彼氏になりたい。と、波多野は言う。
チタカの尋問にも笑って答える波多野の隣で、カズイは居心地が悪そうに小さくなっている。
モモセもチタカも、カズイは可愛い。
荒れ狂っていた高校の頃のチタカと取っ組み合いの大喧嘩をした時。
死闘を止めるためにマコトとカズイが仲裁に入ったのだが…。
ふたりともチタカの拳とモモセの引っ掻き傷をそれぞれ受けて倒れた。大柄なマコトはまあまあの軽傷だったが、カズイは成長過程でヒョロ長くなっていたので、吹っ飛ばされる勢いで倒されてしまったのを覚えている。
「いったぁ…」
間の抜けたカズイの声に頭が一気に冷えた。チタカを見ると、彼も冷水を浴びせられたような顔で立ち尽くしている。
カズイの顔につけられた殴打痕と、肩先に刻まれた爪痕。
幼稚園のあの日の記憶が蘇り、モモセは慌ててカズイを助け起こした。
さすがに泣くような事はなかったものの、冷静さを取り戻したモモセ達を見て、カズイが気が抜けたように笑う。
「怖いよ、二人とも」
「ごめんなさい、カズイ」
「…悪い」
「おーい、俺も被害者なんですけどー…」
へたり込んだマコトが、チタカの脚をパシンと叩く。
祖父に本堂で正座させられて将来を迫られた時、モモセはずっと思っていた事を白状した。
「なりたい職業があるわ」
わかりやすい正義、というのは良い。
チタカのように、諸々を拗らせた人間を叩きのめすのは性に合ってると思った。そして、どうせなら高い位置から動かしたい。
トントン拍子に国家公務員第一種試験を突破してキャリア組に食い込めたが、まさか公安部に引き抜かれるとは思わなかった。
しかし、ここも性に合ってるといえばそうだった。
色んな人間を見てきて良かったとさえ、今思う。
チタカの高圧的な尋問に平然と答える波多野を観察する。
公安部の人間としてみれば、波多野は割とバカ正直な類の人間だ。真実しか話していない。目の動きや呼吸の仕方ひとつひとつがそれを示している。
嘘や誤魔化しでカズイをエサに何かを企んでいるようにも見えない。
ただの食えない人間だ。
マイペース過ぎてカズイが警戒するのも理解はできる。この手の人間をあしらうことが苦手なカズイは、ひたすら振り回されて消耗させられるのが目に見える。
ただ、波多野が彼氏になりたいというのは本心のようだった。隙あらばカズイを横目にしながら、ヘラりとチタカに笑う余裕まで見せている。
本心なのに伝わりにくいのは、人間性によるものが大きそうだった。彼なりに順番を踏もうとはしたらしいが、チタカの圧に早々に最終目標を告げたに過ぎない。そう考えると、遅かれ早かれ…カズイが波多野という男に悩まされる日は確実に来ていたのだろう。
そこで、ハッとモモセは思い出す。
波多野が自分の休みにわざわざこの家に来た理由についてだった。
卒業アルバムの捜索を手伝おうかと思って。
確かそんな話をしていた。
それと、得体の知れない動くハニワがマコトに話していたという…ミユキ?について。
物思いにふけていたモモセが顔をあげる。
形勢はいつの間にか、チタカ 対 波多野、マコト、千溪 というものになっており、カズイはぼんやりとそのラリーを見守っている。当事者であるのに、会話にすら入れないのは今に始まったことではない。
モモセは仕方なく、カズイをつついた。
「カズイ、卒業アルバムとミユキさん?はどんな関連があるのかしら」
モモセの言葉にカズイが肩を揺らす。チタカと対峙していた波多野も振り返った。
「それです、ソレ」
波多野が破顔する。チタカが胡乱な目をして見てきた。端的に波多野がさっきそう話していたと説明する。
「ミユキに関しては、カズイさんに気づいて欲しかったので…だから卒業アルバムを見てほしかったんですよね」
「なるほど。で、カズイの卒業アルバムは我が家の蔵のどこかに埋もれてるのだけど、この場合、波多野さんは次にどうするつもりなのかしら」
モモセが波多野に向かって微笑む。
数多の凶悪犯に向けて放った微笑みだ。
老若男女国籍問わず、一様に見惚れさせて彼らの口を滑らせてきた実績を誇るモモセの一撃。
波多野が「うはぁ」と間の抜けた声を上げた。
「白状するしかないですよねぇ」
ヘラヘラと笑う波多野にチタカが唸る。
「カズイ、こんなにヘラヘラした男でいいのか」
「ちょっとちーたん!初対面の人になんて言い方なのよっ」
「笑い方はアレだけど悪いヤツじゃ無さそうだぞ?」
「あの、皆さん?カズイちゃんの意見も聞いて…」
カズイを放置してまた各々喋り出す面々を見て、モモセが座卓を叩く。
「静かに」
静まった居間で、モモセが再び波多野を見る。
「では、波多野さん。謎かけはもう終わりにしましょ。あなたの本来の目的を話してちょうだい」
モモセの言葉に、波多野がスマホを取りだしてカズイに見せる。
「猫…」
三毛猫だった。老齢に差し掛かっているのか、毛の色が少し褪せているように見える。
波多野が微笑んだ。
「この猫はアメです。…名付けたのは六本木先生ですよ」
「え」
波多野がアメと名付けられた猫の画像を次々に見せる。
「忘れてるのも仕方ないと思いますけど…僕もあの頃とは違ってますし」
顔を上げたカズイが波多野を見ている。
「同じ高校…だったんですか…?」
「はい。…名前は波多野ではなかったんですが」
それで卒業アルバムなのか、とモモセは納得する。
「当時はなんてお名前だったのかしら?」
モモセの問いに波多野が笑う。
「御幸亮介。クラスは一度も一緒になった事はありません。唯一の接点が、この猫のアメです」
「ミユキって…波多野先生のことだったんですか」
愕然とするカズイに波多野が苦笑する。
「六本木先生は当時からモテモテだったので、あまり…周りの人間についての記憶が無いのも仕方ないと思うんですけどね。…これ、昔の僕です」
そう言って波多野が見せたのは、ずんぐりむっくりの体型にメガネをかけた中学生の写真だった。
カズイと一緒にスマホを覗き込んだアヤノが、ええっと声をあげる。
「波多野先生…変わりましたね…?」
どれどれ、とみんながスマホを覗き込む中で、カズイが口を押さえながら何かを思い出すようにする。
「カズイ?何か思い出した?」
「…」
カズイの様子を伺いみる波多野が、その横顔に話しかける。
「…アメと出会った日、その日は雨が降ってたんですよ」
静かに告げた波多野の顔をカズイが振り返る。
「…」
ぼんやりとしたカズイの眼差しが、急に焦点を結んだのをモモセは見逃さなかった。
「思い出したのね」
そう訊ねたモモセの言葉に、カズイは小さく頷き返したのだった。




