幻影肢 1
―――― 出藍と表するのはおこがましい。
俺は師などではない。
どちらかと言えば俺は学ばんとする弟であり、どちらかと言えば師がアイツのような気さえしている。
所詮は怖いもの見たさであろう。
安易に、もっと簡潔に、その程度で考えていた。
中学生にいろんなことを言い聞かせるに当たり、さもこれは主命であると言わんばかりに命じてきたが、ここに来て気づく。
俺とアイツの差は、ないに等しい。
アイツに言い聞かせる云々かんぬんは、俺が受けている主命である。
アイツと俺の関係は、どちらが上下なのかすら定かではない。
アイツの述部を文として構成するのは難しいが、聞いた言葉をただ記すだけならば俺にだってできる。
『ちゃんと心を養わないと、怠けたい自分に負けてしまうだろ?そんなの嫌だろ?』
アイツは俺に教える様子もなく、確かにそう言った。
一応目上である俺に、
『辛くても現実だろ?だったら頑丈にならないと』
だったらどうすればいい……?
と俺から聞こうにも、主観が邪魔をする。
赤心するには遠く及ばない自心。
格好をつけたいのだ、紛れもなく。
『頑張りたければ頑張るしかない』
寂寞とした思いに駆られている俺などと、優越に浸っている場合ではない。
内情を知らないまでも、中学生のアイツが勇猛であるのだから。
有であろうが無であろうが、アイツに言ってもらった。
『アンタの命を預かる』と。
『笑うのが大事だ』
その言葉。
『間違えたら、同じ間違いをしないようにするしかない。巻き戻ってなんてできないんだから』
この言葉。
こんな2つの言葉、俺は二、三度繰り返して記さないと覚えられない。
早急迅速に、大事な言葉が頭を過ぎらない。
そんな自由な頭脳を持った俺に、アイツが言った言葉。
アンタの命を預かる。
笑うのが大事。
間違えたら、同じ間違いをしないようにするしかない。巻き戻ってなんてできないんだから。
アンタの命を預かる。
笑うのが大事。
間違えたら、同じ間違いをしないようにするしかない。巻き戻ってなんてできないんだから。
アンタの命を預かる。
笑うのが大事。
間違えたら、同じ間違いをしないようにするしかない。巻き戻ってなんて、できないんだから。
世の中は金であると言う俺に平気で返事をしながら、どこか清貧である子供。
決して清らかではないが……
こんな感想もたまにはいいだろう。
そう和らげてしまわないと、世の中金ではないのではないか、そうへし折れそうになる俺がいる。
大同団結
集団
組織
それらは俺にとって苦手の部類のものである。
逃げられればいいのだが、そうもいかないのが世のさだめ。
だから、決意しなければならない。
悩んでいる内は神経的に自傷行為であり、そうでもなく身軽でその悩みを口にした段階では、すでに自分の中で答えは出ているんだ。
口にするのは、ただ単に同意が欲しいから。
自分の中でした決定を、俺は皆と同じだろ?と確認をしたいだけ。
……心配することはない。
もう決まっている。
世が認めようが認めまいが、俺は今、人と協力し合っている筈なのだから。 ――――
直樹
琢磨
そして直樹の部下である、大森とイム。
4人はあるビルの入口に立っている。
玄関を入ったところにある元受付だった場所に、いかにも屈強な男が3人。
こちらを見ながら余裕の体で座っていた。
「ニイニイ、今日は何すんねん?このビル、まだ新しいのに機能してる感じとちゃうなー」
琢磨が高い天井を見上げながら尋ねて来る。
明るいそのエントランスは白とブルーグレーの配色が清潔で、まだ何の傷も汚れも付いていない。
「ああ、ここはな、こないだ裁判所でオークションに参加したやろ?」
「あー、あの競売物件?」
「そうそう。あん時俺が落札したビルや」
直樹の応えに、琢磨は前方の男3人を指差した。
「じゃああの3人は?」
「んあ―――ん?どう見ても味方とちゃうなぁ。こういう競売物件にはな、占有権を主張してそのビルに居座って、金ふんだくろうっちゅー輩がたまにおんねん。まぁ、害虫やな」
睨みを利かせこちらをじっと見つめるその3人を目の前に、そんな会話を交わしている2人。
「えー?じゃあどうしたらいいん?」
「退いてもらうしかないやろ」
言いながら、直樹が一歩二歩と前へ踏み出す。
すると、後ろから大森が声を上げた。
「あ、イヤ、秋月さん、ヤバイって。もっと人呼んだ方がエエんちゃいます?」
その時、対峙する3人の内の1人が大声でがなり立ててきた。
「○△×※■――――ッ!!▲○×※◇!!●×※▲◇×◎!!」
意味不明のそれを聞き、琢磨が直樹の腕を掴む。
「ニイニイ、あの人、今何て言うた?日本語ちゃうで」
「……俺の専攻はドイツ語やからなー」
そこへイムが口を挟んでくる。
「こちらには武器がたっぷりあるって言うてますよ。銃もあるって」
「………」
「………」
「なぁニイニイ、この人ら日本語全く通用せんのかなぁ?説得ナシ?」
それに対し、直樹は切り返すように返事をする。
「俺にそんな気さらさらないねぇ。実力行使やろ」
琢磨と共に行動するようになって、約2ヶ月が経っていた。
人に聞かれたならば季節柄とでも答えようか、最近は動き鈍く堅苦しいスーツを着る回数も減ってきている。
この日も直樹は実にカジュアルないでたちだった。
直樹は二歩三歩と男達に歩み寄る。
その直樹の背を追うように、後からついて来る琢磨。
「俺、刃物の防御術は習うてるけど、銃は分からんで」
琢磨の言葉に、直樹はニヤリと笑い、
「心配すんな。銃なんか持ってへんよ。まぁこんな真昼間に銃振り回すアホもおらんし。エエか、人っちゅーのはな、武器使うてるとより強力なモノ使いたがるんや。銃があるのにステゴロで行きますわーいうてふんぞり返ってんのもおかしいやろ。銃なんかないって」
ズカズカと進んで行く直樹に、向こうの1人がこれもまたニヤケながら余裕で話しかけて来る。
「お前ら、大人しぃ退いた方がエエ思うぞ。こっちゃー3人共プロ崩れっちゅーかな。まぁケンカ屋や。ゼニ置いてくか、二度とここへは近づかんか、好きな方を選ばしたる」
「あ、ニイニイ、日本語や」
以前であればこういった力自慢の者に対しては、その更に上を行く力自慢を雇い、軽く捻り潰してきた。
しかしここ最近の直樹は、その方法を取っていない。
以前自分はボクシングをやっていた、その考えをもう一度頭に定着させ、あの頃のようにとトレーニングなどもしている。
それは、今後自分がやっていかなければならないことを想定した時、必要なものだと判断したから。
穂積の組は解散する。
同時に直樹も今、岐路に立っていた。
「あのなニイニイ、あとの2人は分からんのやけど、一番手前のアイツ、アレ、元ボクサーや」
「は?何でそんなん分かんねん」
近づく直樹に対し、今琢磨が指差した男は軽く臨戦態勢を取っている。
「イヤだってほら、拳キレイやん。それに構えの上体が高い」
「………」
その男はこちらに向かって声を掛けてきた。
「まぁこの場合、正義の味方っちゅーことで頼むわぁ。ライセンスは剥奪されとるからなぁ。俺らはお前らみたいなヤ○ザから、善良な市民を守るために日夜活躍し続けとるんよ。お前ら社会のゴミを一掃するためにな」
言い終えると同時に男が臨戦態勢のギアを上げたのを見て、琢磨もまた腰を落とし、拳を構える。
直樹はその琢磨を制するように、彼の前で手を止めた。
「お前、アイツに勝てるか?」
琢磨は構えたまま、
「っていうか、余裕やで。ボクサーはパンチに気ィ付けとったら全く怖ぁない」
「そうか。……」
その応えに少し考えた振りをしてから、直樹は改めて男に向き直る。
「っちゅーことらしいわ。っていうか一つ言うとくが、誰がヤ○ザやねん」
隣から琢磨の驚いたような「え!?」という声が聞こえたが、無視する。
「まー、俺らみたいなん社会のゴミかもしれんけどな。お前らはそのゴミに引っ付いとるノミやろうが。悪がおらにゃ成立せん商売。惨めやなぁ。なあ?」
話しながら進んで行く直樹は、すでに男の目の前に到達している
「ウチのが相手したら余裕らしいからな。オモロないやろ?俺が相手したるよ」
今日、いやここ最近の動きやすい格好はコレが目的。
この行為を始め、遠くとも近くとも思えるゴールからやや軌道を逸れた、ともすれば迷走しまくりな自分の言動には気づいている。ちゃんと。
それでも何かやる以外に、ない。
やる気マンマンで男の前に立ち塞がった直樹の腕を、しかし琢磨が水を差すように慌てて掴み、首を横に振ってきた。
「な、何やねん」
すると今度は右側へイムがスッと入ってくる。
「な、何やお前ら!?」
「秋月さん、やめた方がエエよ。コイツら多分、結構強いよ」
自分としてはとうの昔に自立しているつもりでいたが、独り立ちの意味ではしっかり地に足をつけるという一応の到達点にはほど遠い気がしていた。
ケンカなどという野蛮な行為がそれほど身を助けるとも思っていないが、できないよりできる方がいい。
俺はまだ、どの方向に進むのか完全に決められていないのだから。
……迷走もアリだと思う。
「オイこらイム!エエから下がっとけ!お前も腕掴むな、離せ!まったく、俺がやるっちゅーたらやるんじゃ!黙って見とけ!」
こちらの遣り取りを黙って見ている3人組は、いかにも余裕といった体。
やがて琢磨が諦めたように、直樹に一言告げた。
「ニイニイ、じゃあ教えた通り動きや」
「分かっとる!」
続けて琢磨は直樹に顔を近づけ、耳打ちをする。
「こういうときはな、ニヤニヤ笑うとるんが大事やで」
「………」
琢磨とイムのリアクションで、俺の腕力がどのくらいのモンかコイツらにはバレているだろうに、今更笑えと言われても……。
琢磨が静かに直樹から離れた。
本当に先手必勝なのかどうかは知らないが、こっちはやる気。向こうも来る気。
じゃあ行くしかないだろう。
直樹は先日琢磨に教わった『裏拳で相手の目を叩く』という殴り方を早速実行してみることにした。
男の顔目掛け、左手をバックハンドで大きく振り下ろしたソレ。
目か鼻に当たればと繰り出したのだが、相手はそれをスッとかわし、逆に男の放った裏拳が直樹の左目にバチンッとヒットした。
「あッ!!」
声を上げ、痛みに前傾したのは直樹の方。
が、その体勢から、今度は拳を打ち上げるように男の顎を狙う。
それは僅かも掠ることなく、相手の軽いスウェーで空を切る。
次の攻撃態勢にも入れないほどの大きな空振り。
そんな隙だらけのこちらに相手はパンチを放って来、直樹はその場にドスンと尻餅をついてしまった。
「………」
「………」
「………」
自分はともかく、琢磨とイムの沈黙が居た堪れない。
……俺はこんなに弱かったんか。
男は転げ込んだ直樹に追い討ちを掛けることもなく、ニヤニヤと笑っている。
見上げると、味方の琢磨とイムも心配そうにこちらを見下ろしていた。
……少し頭がこんがらがった。
「お前ら何で助けへんのじゃッ!」
その声が号令となり、琢磨とイムが即座に構えを取る。
「ニイニイ、ボクサー相手にする時どうするか見したるわ。よう覚えとってよ。この状況で武器出してこんってことは、ほんまにないみたいやな」
琢磨のその声に、男が馬鹿にしたように笑い声を立てた。
「ハハハ…ッ!コイツらマジか。俺らもナメられたモンや。なぁ?」
そう言いながら、後ろの仲間を振り返る。
その隙を突き、琢磨は沈黙のままジャンプで一気に距離を詰め、
バキッ!
パンチは顔面にクリーンヒットし、男の上体は吹っ飛ぶように仰け反った。
それが開始の合図だった。
ここからが本番、そう言わんばかりに琢磨とイムが一斉に飛び掛かる。
数分後、呻き声を鳴らしながら倒れていたのは3人組。
「イタイイタイイタイ!」
床の上をゴロゴロとのたうつ1人。
「うわぁ…ッ!完全に折れとるやんけ!」
肘を押さえて横たわる1人。
あとの1人は気絶しているのか、全く動かない。
後ろで見物していた大森がその男に近づき、しゃがみ込んだ。
「コイツ、大丈夫よな?生きてるよな?」
ブツブツ呟きながら鼻と口の前に手をやり、吐息を確かめる。
「あ、息してるわ。良かったー」
琢磨も全くの無傷というわけには行かなかったらしい。
鼻血を流し、左目を腫らしている。
彼はズズッと鼻を啜りながら、
「よし!ボクシング相手でもイケる!大したことなかった」
そんな独り言を洩らしている。
直樹はそれを、床に座ったまま背中で聞いていた。
「ニイニイ、最初にこいつボクサーやって教えてあげたやろ?ボクサーは下半身攻撃されるのが苦手やねん」
「………」
「こうやって前蹴りで膝狙って、それが当たったら必ず頭を下ろしてくるから、アゴ目掛けてやねぇ…」
「………」
確かに琢磨から乱闘に関する教授はされていた。
コイツの説明は実に物理的で理に適っており、聞くに感心はしていたし、頭にもイメージを映像化させたものを焼き付けておいた。
だが、そのようには動けない自分。
やがて琢磨の興味の対象は黙り込む直樹の背を離れ、イムに移る。
横たわっている3人を放ったらかし、ついでに直樹も放ったらかし、琢磨とイムは楽しそうに会話をし始めた。
「イムくんの、その足技って何なん?」
「ええ?『くん』って……イヤ、あれはテコンドー。俺、テコンドーやっとったし」
「ああ、あの足技の多い格闘技やね。なるほど。キレイな振り下ろしやったわー!でもね、イムくん、振り下ろしやる時はもうちょっと軸、前にした方が効くと思うよ?軸足の力が上に行ってたら、威力が半減すると思うねん」
「え?あー、なるほど。確かに俺、蹴り入れた後、踵が上に浮いてるわ」
「うん、軸足は地ベタにちゃんと付いてないと…」
そんな2人の横で、大森が手錠を使って3人を拘束している。
……ボクサーは足を狙われると弱い。
そんなこと知っとるわ。
こっちゃぁボクシングやっとったっちゅーねん!
「………」
イライラした。
実に面白くない。
今の俺の尻餅ついた体勢も、何もできなかった自分も、会話の弾んでいるあの2人も、倒れているあの3人も。
直樹は誰の視線も自分に向けられていないことを確認し、立ち上がる。
……まだまだ独り立ちには程遠いってか。
思い知ったのではなく、ただ再認識してみただけ。
イラついた感情ままに、直樹は声を荒げた。
「オイ!大森!イム!お前ら2人はここの掃除しとけ!1時間後に事務所で落ち合うぞ!俺とコイツはもう一軒行って来る!」
自分の機嫌の悪さを顕わにして、コイツらから話し掛けられないよう釘を打ったつもり。
「お前は俺について来い!もう一軒あるんや!」
直樹の命令に3人は声を揃え、
「ハイ!」
と返事をした。
すぐさまイムと大森が作業するために背中を向け、直樹はビルを出ようと出口へ向かう。
その時、ついて来ようと足を踏み出した琢磨が、ふと気づいたように直樹を呼んだ。
「ニイニイ、コレ何や?」
「?」
琢磨が指差したダンボールの中には、たくさんの書類。
チラッと見た感じだと、このビルに関係するもの。
「……ん―――……まぁ、ちゃんと目ェ通してみなんだら分からんな。お前、そのダンボール車へ運べ」
「うん、分かった」
車に辿り着くと何も言わずに運転席へ回った直樹を見て、琢磨が尋ねる。
「あれ?ニイニイ運転するん?」
「うるさい!早よ乗れ!」
気が急く。
恥を置いて、早くこの場から立ち去りたい。
琢磨がダンボール箱を抱えて助手席へ座ったのを見て、一刻も早くと車を発進させた。
「ニイニイ、今度はどこ行くねん」
「もう一軒な、同じようなビルがあるんや。そこへ2人で行くぞ」
「あー、こないだ一緒に落札したやつ?」
「そうそう。あそこにもあんなヤツがおるっちゅー話なんや」
「ふーん。2人で行くん?」
「そうや、2人や」
「めっちゃ人数おったらどうするん?」
「そんなもんお前、俺も含めた2人でチョンチョンチョーン!やろ」
「………」
「何やお前、俺のこと信用してないな。さっきのは調子悪かっただけや。見とれよ、次や、次!」
直樹の言葉を聞いているのかいないのか、琢磨はダンボールの中をゴソゴソ掻き回している。
「何かこの書類、関係なさそうやで。履歴書やろ、これなんかホラ、契約の期限切れたあるヤツやし。……アレ?コレ何やねん」
琢磨は箱の奥に手を突っ込んだ。
そして、
「!?ハッ!?」
「何や?」
「……このダンボール、やけにガタゴト音がする思うたら、コレ……」
琢磨がそこから取り出したのは、拳銃。
「これってホンマもんの鉄砲やろ?」
「………」
「なぁ、ホンマもんやろ?」
「……まーね」
「じゃあほんまに銃持っとったんやんか!めっちゃ危ないやんけ!」
直樹は進行方向から目を離さない。
「………一回事務所に寄ってから行くぞ。あと3~4人連れてこか」
「………」
「………」
悩む暇があれは行動してみようと、そう考えている。
人任せにしてきたこと、人に任せられなかったこと諸々を一つに考え、今後自分はどうして行けばいいのか。
今、直樹は模索している途中なのだ。
この日、直樹は自分の事務所で、利き腕を庇いながらデスクワークをこなしている。
数日前、1人でいるところをまた襲われ、バットのようなもので殴られてしまった。
骨折している風ではなく、どうやら打撲だけで済んだようだ。
……あの街だけで一体何人、この街には一体何人、俺を邪魔だと考えている人間がいるのだろうか。
その事実も引っくるめ、直樹の中でほぼ決定していることがある。
岐路の選択。
穂積がこの世界から足を洗っても自分には関係ないという結論に到達し、それならば穂積が身を引く前に杯を下ろしてもらう必要があると考えた。
要するに穂積の後ろ盾、穂積の力を借りずにこの世界で生きて行くという選択。
この場所で組織に属し、形式を整えて生きていれば、文句があっても下手なイヤガラセなどは少なくなるだろうと思えた。
闇討ちをかけてくる輩なども減るだろう。
そしてその計画の中にはぼんやりとではなく明確に琢磨の存在もあり、この時にはもう琢磨を追い返してやろうなどという考えは頭の中に欠片ほどもなかった。
直樹が、気を付けなければ痛みの走る利き腕を抱えて仕事をしていると、部下が近寄ってきた。
「あの、秋月さん」
「ん?」
「報告遅れて申し訳ないんですけど、昨夜遅くに事務所にですね、秋月さんに電話があったんですよ」
「んん?俺に?会社にじゃなくて?」
「ええ。大林って人からなんですけど」
「大林?」
ざっと記憶を辿り、仕事関係者で大林という人物を探してみるが、思い当たる節がない。
「何や、仕事の話で?俺、大林なんてヤツ知らんからなぁ。新規かな?」
「イヤ、それが会社名とか一切言わないもんで…。秋月さんとツレやー言うてましたけど…」
「………」
こういった類の電話はよくあること。
仕事を装い、自分を外におびき出している間に店にイヤガラセをされた経験もある。
「一応連絡先ってことで電話番号は聞いておいたんですけど」
そう言って、部下は直樹に1枚のメモを差し出した。
『大』きい『林』
その下には090から始まる電話番号。
「………」
直樹は黙ってそのメモを受け取る。
「あのぅ、またイヤガラセですかね?かけない方がいいかもしれませんけど、その番号…」
「あーうん、まぁな。っていうかお前、これがもし大事な仕事やったらどないすんねん。もっと詳しゅう相手のこと聞いとかなアカンやろ。苗字しか聞いてないし」
「あ、そうですね、…申し訳ありません」
そのメモを深く考えることはなかった。
直樹は自分の引き出しに、その紙を仕舞い込む。
しばらくしてデスクワークを終えると、直樹は部下に「出かけて来る」と告げ、次の仕事場へと向かった。
車を少し走らせたところで、その仕事に必要な書類を部屋に置いていたことを思い出し、Uターンする。
すると、すぐ後ろの車が、その急なUターンについて来た。
………?
偶然かもしれないが、ここ最近の自分の待遇を考えると、また自分に恨みを持つ者が後を尾けてきていると考えるのが普通。
直樹はアクセルを踏み込み、スピードを上げる。
国道から横道に入り、裏側へ。
普段は通らない細い道に入り込んだところで、ルームミラーには後をついてくる車の姿は映らなくなった。
……思い過ごしか。
まぁ、こんな真昼間にな、襲うてくるヤツもおらんやろ。
そう思いながらマンションの方向へと車を走らせるが、道に迷ってしまった。
ウロウロと右往左往しながら進んで行くと、やっと見覚えのある景色に突き当たる。
そこは、マンション近くの公園脇を通る道路。
そしてその公園は、琢磨が寝床としている場所。
ここ最近、琢磨に与えている仕事は夜の業務で、昼間は自由にさせている。
彼はまだ中学2年生。
昼間空いていれば、家へ帰らないまでも学校へ行くことを考えるのではないか。
そうも考えていた。
アイツが昼間何をしているのかなどの話は聞いたことがない。
何となく気になり、車を停めて窓から公園を覗き込んでみると、広場の向こう側に琢磨の姿があった。
どうやら鉄棒で遊んでいる様子。
彼の横には同年代と思しき、背の高い少年が1人。
「………」
そういえば、アイツの出身地ってのはどこなんや?
家出してきて実家の近くでウロウロしてるなんてことはないやろうし、あの隣におるんは地元の友達ってわけでもなかろう。
琢磨は鉄棒の上で逆立ちをしたり、そのままぐるぐる回ったりしている。
楽しそうに隣の少年と話している姿を、直樹は遠目からじっと見つめていた。
……ああやって見てみると、やっぱりコドモなんやな。
不思議なヤツや。
胸がムズムズするような、よく理解できない気分でその光景を眺め、直樹はやがてゆっくりと車を発進させる。




