残像 5
もう一度ソファにドカッと座り、直樹は言う。
「分かった分かった。ほんなら次は1人で行くよ。明日にでもあの和田んトコは潰して来たろ。俺1人でやるわい」
そこへ穂積が雰囲気を変えぬままに近づいて来た。
「その必要はないで」
『その必要はない』に対して直樹が問う前に、穂積は続ける。
「あの雀荘は今晩の内にウチのモンが掃除済ませたわ。雰囲気嗅ぎ付けてなぁ、和田のヤツは逃げよったんやけどなぁ。他の従業員は押さえたある。和田とっ捕まえるのも時間の問題や」
「……ッ!!」
一気に顔が冷たくなった。
その反動でか、体の中を血が駆け巡った。
直樹は勢いよく立ち上がり、大声でがなり立てる。
「何やソレ!!アイツんトコは俺がやる言うたやろ!!何で勝手なことすんねんッ!!?」
ガラスのテーブルに足がぶつかり灰皿がガチャン!と派手な音を立てるが、直樹は構わず穂積に詰め寄る。
「オイ何やねん、オッサン!!」
叫んで、穂積の両肩を引っ掴んだ。
「何でそんなことするんやッ!?まだ時間あったやろ!!週末行け言うたのオノレやないか!俺1人じゃ何もできんってか!!そんなに信用できんってか!!エエッ!?どないやねんッ!!」
その怒号にも、穂積は表情を変えることはない。
「その1人で行くっちゅーのが問題なんやないか」
「!!!」
穂積は直樹の両手を自分の肩からそっと外し、ソファに腰を下ろす。
「お前にも部下って呼べるのがようけぇおるやないか。何で1人で動くんや?ワシ、別にあの子を連れてったのを怒っとんちゃう。あの子に社会見学させるんもアリやろう。お前の言うように現実を見せるのもアリや。せやけどな、何で2人で行くんや。危ないことが起こるかもしれん。ようけぇ連れてったらエエやろ」
危ないことが起こるかもしれない。
……だからだろ。だから人を巻き込めない。
あのガキ1人なら、俺の命一つで何とかできる。
だけど人数が多ければ多いほど、俺1つじゃ事足りなくなる。
逆流していた血液が静かに正常に戻っていくのを感じながら、握った拳の力も抜けて行く。
ようけぇ連れてけって、そんなことできるワケないやろ……。
何の言葉も発さない直樹を穂積はじっと見つめ、静かに続けた。
「直樹、お前、俺が信用できんのか言うたな。信用やったらしとるで」
「………」
「信用いう話をするんやったらな、自分に問うてみぃ。ここ最近で構へんわ。お前は自分トコの人間、ちょっとでも信用しとるか?」
「!!!」
今回穂積にされた蔑ろについて、意見する箇所を見失った。
ただ俺は、アイツらを危険に巻き込まんように……
これは信用してないってことか?
虚ろになりだす自分の視線に何とか言い聞かせる。
目を見開き、穂積を見ろと。
「和田の件も、別にお前が信用でけんからウチで済ませたんとちゃうで。お前が危なっかしいからや。理解せェよ」
……俺のこの考えを責任感とは取ってもらえないのか。
俺が誰も信用していない……。
意表を突かれたようではあったが、その考えを持ち合わす自分を見つけた。
「………」
直樹はそのまま無言で部屋を出る。
廊下を歩き、エレベーターで降りながら、明日は何をしようかと考えてみた。
予定や計画が狂うのは好みではない。
何か仕事を入れるしかない。
面倒臭ェ……。
自分のものであるはずなのに、幕越しに触れているような思考。
直樹は車に乗り込み、走り出す。
呆けたように運転しながら向かったのは、あの雀荘。
ガラス張りの1階の売春喫茶は、確認するまでもなくガラガラ。
入口には閉店の知らせの張り紙。
2階の雀荘も同じく。
ここで働いていた女や従業員は一体どうなったのか。
俺ならああした、こうしたと、もう自分とは関係のなくなった今回のこの件を振り返り、全く意味のないシミュレーションをしてみた。
さっきの穂積は、あのガキをあの現場に連れて行ったことについて俺に文句を言った感じではなかった。
問題はやり方ね。
ふーん、やり方ねぇ……。
信用という言葉ではなく期待という言葉を用い、自分の中にあったもの。
『俺も期待はしないから、お前たちも俺に期待するな』
これが間違っているのか?
行くあてのない直樹の車は、やがてマンションへと辿り着く。
車を降り、マンション入口のオートロックを開け、階段を上る。
人を巻き込まないようにするというこの考えが人を遠ざけ、果ては俺の才覚にまで関わってくるってか。
押そうが引こうが押し潰そうが、何も出ねぇぞ。
……人との別れっちゅーのはな、異常に悲しいんやって。
アンタくらい年取っとったら、そんな感覚も磨耗してメリハリがなくなっとるんやろ。
俺は知ってるんやって。
深ければ深いほど、悲しいっちゅーのを。
自分の部屋の鍵を解き、ドアを開けると、部屋の灯りが点いている。
「………」
ホテル暮らしが長かったから、部屋に入って真っ暗なのはどうも気が滅入る。
これからも灯りは消し忘れて出かけることにしよう。
下駄箱の上に鍵を置き、廊下を抜けてリビングへ向かう。
その扉を開けて中に入った瞬間、直樹は驚きのあまり突いた足を滑らせそうになった。
「!?」
部屋の真ん中にぽつんと座る人影。
それがこちらを振り返る。
ずれる足を堪え相手の姿をよく見ると、それはメグミ。
「あ、おかえりなさい、直樹くん」
「……お、おかえりとちゃうやろ……お前、ここで何しとんねん!?ほんで、どうやって入ったんや!」
直樹の問いに、メグミは今回の経緯の説明をし始めた。
メグミはあれ以降、このマンション近くにあるキャバクラに通い、このマンションの向かい側の、直樹が借りた部屋で過ごしていた。
全て、直樹に言われた通りに。
「じゃあ自分のマンションにおりゃエエやないか」
「それがー…今日カバンがなくなってしまったんよ」
「何?」
「お店終わってね、帰ろう思うたら、お店の更衣室で鍵の入ってるカバンがなくなってしもうて…。部屋に入られへんの」
「大家か管理人に電話すりゃエエやないか」
「こんな時間やから電話にも出てくれへんねん」
「……だからって、っていうか何でこの部屋には入って来れとるんや」
「え?だってここは管理人さんに言ったらすぐ開けてくれたよ?この何日間かずっと」
「ハア!?何でや!?お前、この何日間かずっとこの部屋へ来とったんか!?」
直樹の声に、メグミは逆にビックリしたような顔をして応える。
「うん、だってほら、食事運んで来てたから」
「あ」
メグミはここ数日、直樹に言われた通り朝昼晩の食事を作り、この部屋に運んで来ていたのだ。
「……じゃあ何や、今日も夕飯作って持って来とったんか」
「うん。冷蔵庫にね、今日はね、オムライス作って入れてる」
「………」
食事が必要なときは自分から連絡する、そんな説明は一切していなかった。
そういえばしたな、そんな約束。
律儀に作って持って来てたってか。
しかもオムライス。
当然コイツに自分の好みなど話した覚えなどない。
今日あったいろんなこと、頭いっぱいに膨らませているそこへ食事でもすれば気が紛れるか。
そう思った。
リビングを通りキッチンの冷蔵庫を開けると、まだ空っぽのはずのその中には皿に盛られてラップを掛けられた料理が何点も並べられていた。
一番手前にあったオムライスを取り出し、電子レンジで温めていると、メグミもこちらへやって来る。
「直樹くん」
「何や」
「今日、何かあった?」
「ハア?何かあったって何が?」
「お仕事で何かあった?」
「……何やソレ」
「顔がこっぱってるよ。怖い顔してるわ。いつもより数段」
仕事であったイライラをプライベートで八つ当たりする。
プライベートであった何かを仕事で八つ当たりする。
これらは最低の行為だと、そう考えている。
今回、自分の表情について初めて指摘された。
恐らく今唱えた最低の行為というものを、俺は知らず知らずのうちにずっとやってきたのではないか。
……イヤ、やってきたのだろう。
「……こっぱってるって強張ってるってことやなぁ?そんなに?」
「うん、そんなに」
そこで電子レンジがピーピーと音を立てた。
直樹はオムライスを取り出し、テーブルに置いて椅子に座る。
それから、その場に立っているメグミに、
「こっちへ来いや。お前も半分食べるか?」
と声を掛けた。
「うん」
メグミはそう返事をすると、慣れた仕草で食器棚の引き出しを開ける。
その中には、市販されているプラスチックのスプーンの束。
そこから2本、そして棚から、こちらもプラスチックのコップを2つ取り出し、冷蔵庫にあったお茶を入れてテーブルに置いた。
あ……そういえば食器類はまだ買ってなかったな。
気は利くみたいや。
今回のあんな田舎のキャバクラなら、コイツもあくせくせんとやって行けるかもしれんな。
目の前には、綺麗にたまごの巻かれたオムライス。
それを見て、料理もなかなかの腕前と確信し、スプーンで半分に割る。
まずは自分が一口、口に入れてみた。
が、
「……ッ!?」
その物体を舌が知覚した途端、イヤな汗が出そうになった。
というか、出た。確実に。
驚愕するより他にないその味、そのニオイ。
「お、ぉぉお前何やコレ!!クサッ!!クサイ!!コレ何のニオイやねんッ!?何かケチャップとは言い難い変な酸味もある!!とってもクサイ!!」
え~?とでも言いたげなメグミの顔。
「お前、コレ何入れた!?」
「何入れたって、グリーンピースでしょ、たまねぎでしょ、あ、あと鶏肉がなくって、うちにサバ缶があったからサバ缶入れて、ケチャップかけて……」
そこへ被せるように直樹が叫ぶ。
「ソコやソコッ!!ソレや!!何でサバ缶なんか入れんねんッ!!このクサイのサバ缶やんけ!!…あ!何かゴリッとした!コレ、サバの背骨やろ!!」
「えー、そんなに合わない?」
「自分で食ってみろや!!」
メグミはそのオムライスに手を伸ばし、スプーンですくって口に入れた。
「……マズイ」
「お前、作るとき味見とかせんのかよ!?」
「したよ。したけど、うーん……サバはのけてしたんかなぁ。でももったいないから、2人で協力し合って食べてしまおうよ」
「………」
想像すら難しい、思いもかけぬハプニングだった。
メグミのこのサバ缶オムライスに、笑ってしまいそうになる。
この女には独特の間がある。
それは自分の間を崩すものであり、受け入れられるものではないと考えていたが、慌てずゆっくりと身を投じてみるとそれほど悪くない。
「アレ?直樹くん、でもコレ食べてみたら結構おいしくなってくるよ?何か私の田舎の五目寿司、おまぜって呼ぶんやけどね、それに似てるわ。オムライスと思うて食べるからアカンのやわ。コレ、五目寿司やで」
「ええ?ほんま?……ま、まぁな、そう思えば、焼き魚がふんだんに入ってる五目寿司にも思えんことはないな」
直樹はこの一時、今日あったことを忘れることができた。
食事を終え、直樹は当然のようにメグミに問うた。
「お前、ほんなら今日どうするんや?この近くのホテルへ部屋用意せェ言うたろか?」
その直樹の言葉に、メグミは目を丸くする。
「えー?何で?」
「何でってお前、部屋帰られへんのやろ?ドコで寝んねん?今日は店、早上がりやったかもしれんけど、寝とかなアカンやろ。朝までその辺ウロウロするんか?」
それに、メグミも当然のように返事をした。
「えー、何でー?泊めてよ」
「ハア!?何で俺がお前ココに泊めなアカンのや」
「ええー、だって直樹くん、私ら付き合ってるんでしょ?泊めてくれたってエエやん」
「………」
メグミの言った言葉が、自分の空けてあったスペースにズカズカと入り込んで来た。
以前の自分を振り返り、照らし合わせ、そんな事実はないことを確認する。
この作業に数秒を要した。
「……お前、何やソレ。誰が付き合うてるって?」
「直樹くんと私よ」
「………」
コイツ特有の間を全て網羅しようという気はないが、寝て見る夢と現実がゴチャゴチャになってしまうような人種であれば、俺も考え直さなければならない。
黙り込んでいる直樹に、メグミが続ける。
「だって直樹くん、私のこと特別やって言うたやん」
「………」
先ほどした作業をもう一度繰り返し、先日のことを思い出す。
……言った。
確かに言ったな。
手前勝手な解釈に対し数秒をケチッた俺が、確かにそう返事をした。
「………」
「付き合ってるんやったら泊めてくれてもエエやん、別に」
そう言ってしょんぼりと俯くメグミ。
ただ、直樹はここでそれらを深くは考えない。
別に、それならそれでいい。
これまでもこのような形で周りに女性を置き、働いてもらってきた。
その形は現在も進行形であり、複数の女性がこういった『私ら付き合ってるんよね?』というセリフを直樹に言ってくる。
それに対しては、イエスとも言わなければノーとも言わない。
それが儲けを生み、全てを円滑に進めるための手段だったから。
そういう生活を送ってきた直樹だが、しかしこれまで自分のテリトリーに女性を連れ込んだことはなかった。
少し考えてみる。
コイツ、店でカバンがなくなった言うとったな。
あの店には確か……ああ、あの女がおるか。
まったく、面倒臭い。
座ったまま俯いているメグミを見て、本来ならば自分のテリトリーに女を入れてしまうというのは心外ではあったが、しょうがないと思った。
「お前はほんならコッチの部屋で寝ろ。俺はアッチの部屋で寝るから。今晩だけやぞ」
そう言い、メグミの望みを聞くことにした。
「えー、ほんまに?良かったー。じゃあ私、お風呂入れてくるわ」
メグミは小走りで浴室の方へ向かっていく。
「……ハ――――……ッ」
所在無いままに、ふと窓の外を見てみる。
少し離れた場所に公園があるのを初めて知った。
アソコで寝ろとでも言うた方が良かったか。
……ま、アイツにも稼いでもらわなアカンからな。
情は移してなんぼ、移されるのは……
移されんに越したことはないってレベルとちゃうぞ。
絶対に受け取ったらアカンのよね、これが。
ザ――――……ッ
ドボドボドボ……ッ
浴室から聞こえてくる水の音。
直樹はそれを聞きながら、窓から外を見続けていた。
隣の部屋にいるメグミを気にすることもなく自分のベッドに入ったのだが、眠れないでいる。
もうすでに寝入っているだろうメグミに気を遣い、物音を立てないよう幾度となくトイレに立った。
信用っていうのは、度合いも大事やろう。
違うか?
頭の後ろで手を組み、オレンジ色の豆球を眺め続けている。
今日あったことを考えれば考えるほど睡魔は遠ざかり、この日は一睡もできないペースだとどこかで確信した。
そんな時だった。
部屋のドアがゆっくりと、静かに開く。
「直樹くん」
「………」
眠れずに天井を見上げているそこへ、人が入ってくることなど初めて。
直樹はリアクションに困り、その人影を見つめるのみ。
「眠られへんの?何回もトイレ行って」
「……俺はいつもこんなモンや。気にせんでエエよ」
起こしてしまったか。
済まないな。
そんな言葉が出そうになったが、それを飲み込み言わないでいた。
「………」
じゅうたんを踏む音が近づいてくる。
直樹は布団を抱きかかえるようにして、敢えてメグミに背を向けた。
「直樹くん、しりとりしようか」
「しりとり?」
「眠くなるかもしれんやんか。私から行くよー。えーっと、『あ』から始まる……えっと、『あ』から始まるもの……あん。あんこの『あん』」
「!! ………」
直樹は顔だけをメグミの方に向け、じっとその顔を見つめる。
「……あ、あ、しまった!『ん』が付いてる!えっとえーっとえっとねぇ、あんパン!」
「……お前、知ってやってるやろ。それやったら『あんこ』でエエやないか」
直樹はメグミに背を向けるのを止め、仰向けの体勢に戻る。
それから
「フ――――…ッ」
と、一つ大きな溜息を吐いた。
「もう俺のことは放っといていいから寝ろ。明日休みっちゅーワケやないんやから」
しかしメグミは首を横に振る。
「ほら、えっとー、直樹くんは私らの頂上におる人やから、ちゃんと寝てもらって万全の体制で仕事してもらわなアカンやんか」
「………」
「睡眠は大事やで」
時計の針は、もう午前3時に差し掛かっている。
「だから俺が働けんでも、お前らがちゃんと寝て働いてくれたら、俺はそれでエエねん」
すると、メグミは直樹の左胸、心臓の上に自分の右手をスッと当てた。
「……直樹くん、この歌知ってる?『言ーたーろー 言ーたーろ せーんせーにー 言ーたーろ』」
「何だ、それ」
「子どもの頃な、何か悪いことしたら周りの子らがコレ歌うんよ。その悪いことした子を見せしめにするようにね」
「………」
関西だけの風習なのか。
俺は聞いたことがない。
「この歌ね、例えば私が言われる立場やとしたら、言うてる人が誰かによって意味っていうか、受け取る側がどんな気持ちになるか違ってくる不思議な歌なんよ」
「………」
「私、この歌ゆっくりゆっくり歌うのが好きでね。眠れん時にこれ自分で歌ってるん。まぁ子守唄ってのも、歌ってもらったことがないだけなんやけどね」
「………」
メグミは歌う。
「……アーカンでー アーカンでー ……せーんせーにー 言うたーろー……
……イーヤーやー イーヤーやー ……せーんせーに 言うたーろー……」
重ねて、メグミは歌う。
囁くように口ずさみながら。
直樹の胸をゆっくりと、ぽん、ぽんと撫でるように叩きながら。
薄暗い部屋に流れる、密やかな声。
遊び歌だろうに、それは言葉とは掛け離れた物悲しさを漂わせた。
「……直樹くん、ありがとうね。助けてくれて。優しくしてくれて。
……アーカンでー アーカンでー せーんせーに 言うたーろー……」
歌の意味はよく分からない。
アカンと歌っているところで、こちら限定の歌なんだろう。
俺は知らない。
そして、俺も子守唄なんか聞いた覚えなどない。知らない。
……メグミにとって自分がどういった存在なのか、解りかねている。
直樹はメグミの目をじっと見つめながら考える。
……信頼について。
俺はコイツのことをナメているだけなのか。
それとも懐に入れても平気だから、今まさにこの体勢でいるのか。
直樹は自分の左胸に置かれているメグミの手をグッと握り締めた。
「……お前、俺のこと何も知らんやんけ」
メグミは微笑みながら、
「知らへんよ」
と応える。
「……じゃあ何でそんなに近い」
メグミは更にもう少し直樹に顔を近づけ、
「分からへん」
と応えた。
……一度に嘘は八百も思いつかない。
だがこれまで異性に積み重ねてきた嘘は、八百を優に超えているだろう。
『お前は俺の周りなんか見とかんでエエ。俺だけ見とけ』
『お前のその細腕で、俺の助けをしてくれへんか。俺のこの腕はお前専用で、他では使えんのや』
『俺はまだまだ勉強不足かもしれんな…。お前みたいな女がおったんやな』
『死にたい時は真っ先に俺に言え。俺が殺してやる。俺も死にたい時は、真っ先にお前に言うよ』
歯を浮かすこともなく平然と、2人きりでいる女性に囁いてきた数々の言葉。
その八百以上のモノで女性を盲目にさせ、我が身を固めてきた。
数多くの歯の浮かないセリフ、まだ思いつくはずであるし、何だったら再利用しても構わない。
そう思いつつも、直樹はメグミの目を見つめながら焦る。
その言葉たちが、喉元を過ぎて出て来ない。
メグミの手を握る手に、力が入る。
「何か……今回俺の様子がおかしいな」
つい口を突いて出た言葉。
「ん?なに?」
「……イヤ、気にするな」
直樹はメグミを抱きかかえるようにして、自分のベッドに引き寄せた。
そしてその時、メグミの体はとても軽かったのだ。
自分の調子がおかしいと、そう表した夜。
不満や不平、今日あったことへのフラストレーション、それらを彼女に押し付けたつもりはない。
それらは全て俺の問題で、コイツには関係ない。
だったら今晩のコレは、一体何なんだ?
計画性を持った何たるかとはかけ離れた、その夜。
直樹は今回の雀荘の件が自分の会社の部下たちに知られていないか、そればかりを気にしていた。
知能、行動、腕力。
言ってしまえば全てにおいて、人の上に立つ者はそれらがある程度長けていないといけないと思う。
それらのいろいろが人より劣っていたため、仕事を取り上げられてしまいました。
そんなことを知られてしまったら、連中も自分のことを居た堪れなく思うだろう。
そういう状況はゾッとするのだが…。
自分の事務所に行き、そのことを部下たちが知っているのかどうか確認したいのが4だとすれば、顔を合わせ辛いと思うのが6。
朝、マンションの駐車場に行くと、そこにはもうすでに琢磨の姿があった。
直樹の車の周りをゆっくりと歩きながら、まじまじと見つめている琢磨。
「……お前、何時からここにおったんや」
「え、7時から。昨日な、俺寝てしもうたやんかぁ。ニイニイに待ち合わせの時間聞くの忘れとってん」
「………」
サトミから連絡は入っている。
『事が済む前にあの子には逃げられた』
そういう報告が。
「……お前、昨日のケンカ……どっか体痛めてないか」
琢磨は直樹の車のエンブレムを見つめながら、
「んー、まあね。俺、修行して鍛えてるからねー」
「………」
しつこいようだがあの雀荘の件を思い出すと、血が逆流するような思いをしながらも熱くならずにゾッとする。
このガキが占める自分の中のポジションも、何となく曖昧になってきた。
追い出す計画はもうエエか……。
きっとリアルな部分を見せてやれば、コイツも家へ帰るだろう。
俺やメグミと違い、コイツには帰る場所がある。
「なぁニイニイ、今日は俺、何したらいい?」
「……今日はそやなぁ、うーん……」
「どっかで遊ぶか」と言いそうになったが、それは止めておいた。
「今日は俺の会社、いろいろ回ってみようか。ま、見学みたいなもんやな」
「えー、ニイニイ、お酒飲む店以外にもいろいろやってんの?」
「うん、まあな」
「ゴッツイなー!ニイニイ、まだ年若いやんなー?ニイニイ、今何歳?」
「え?俺?……ま、お前より大分年上よ」
限界を知らせるためにやらせたデスクワーク。
弱さを確認させるために煽った、昨日のケンカ。
そろそろ俺の行動は裏目に出てしまうと気づくべきだ。
頭の病んだガキだとばかり思っていたが、まあまあに見える。
こんな俺に、コイツは今日も屈託がない。
昨夜コイツの目の前で起こった出来事も、俺の差し金であると疑う様子もない。
それはコイツが、俺が雀荘の仕事を取り上げられたことを知らないからなのかもしれない。
……それらも含め、まあまあで程々である。
この日、直樹は夜になるまで琢磨に社会見学をさせた。




