残像 3
意気揚々と笑顔を見せる、この少年。
逆に、自分の中には物静かな空気が流れて行く。
「……アンタまでニイニイ言うな」
そう呟き、一旦呆けるのを止めて穂積に掴みかかった。
「って!!そんなんどうでもエエわ!!オイお前どういうつもりや!?俺ャこんなん飼うとる余裕なんかないぞ!!ちゃんと説明せェ!ワケ分からん!!」
そう怒鳴り散らす直樹の後ろに、琢磨はペットリとくっつくようにして立っている。
「おいクソガキ!邪魔じゃ!!あっち行けッ!!」
「あっちって、どこ?」
「部屋の外へ出とけ!!」
そう怒鳴ると琢磨は「うん」と返事をし、
「じゃあ外で待ってるわ」
と、部屋を出て行った。
直樹は穂積を無理やりソファから引き起こす。
「イタイイタイイタイ!こら直樹!無茶すんな!」
「無茶もしたなるよなぁオッサン!!ちょっとこっちへ来いッ!!」
ちらと周りを見てみると十数人の男たちがワイワイと話しているのは琢磨や他のことではなく、先ほどの破門について。
直樹は穂積を引っ張るようにして、隣の小部屋へ連れて行く。
そして穂積を突き飛ばすと、ドアを勢い良く閉めた。
「………」
「………」
そこで口を開いたのは、穂積の方。
「あの子はなぁ、あの感じやと、ここを追ん出されても同じような所へ行くやろうなぁ」
「………」
「家には帰らんと思うわ。だったらあの子が飽きるまで、ここにおらしたったらエエわ」
「だからって何で俺やねん?!オノレで面倒見ろ!」
そう言うと、穂積は笑って直樹の肩をポンと叩いた。
「何言うとるんや。アンタやからエエんやないか。アンタは幸い誰の杯も受けてない。極○とちゃうやないか」
「………」
「それにな、愛でるものがすぐ傍にちゃーんとあった方が、人間は素直に生きて行く。愛でるモンがあったらなぁ、自分のこともちゃんと愛でるようになるんよ」
「……俺は部下を生かしきれてないってか」
「そうは言わへんよ。せやけどその部分、もっと鍛えてもエエんちゃうか。心配せんでも、あの子の身辺調査はちゃんとやる。事情が変わったら、それもまたちゃんとアンタに伝えるやないか」
自分にとってあれほど年の離れた、社会生活もしてきていない人間を相手にしなければならないという事実は、途方もなく計り知れないほどの難関であると思えた。
「なぁオッサン、もう一回考え直してくれへんか」
それに対して穂積はゆっくりと「イ・ヤ・や」と返事をする。
それから穂積は直樹が琢磨の面倒を見ることに当たり、何点かの約束事を勝手に押し付けてきた。
危ないことはやらせるな。
法に触れることはもちろん、飲酒・喫煙など特に気を配れ、と。
それに対して直樹は確認するように問うた。
「アイツが逃げ出したらもうエエんやろ?探すところまで面倒見ろとは言わんわな?」
「そうなったらしゃーない。ただ、アンタがイジメてそうなったんやとしたら、アンタが責任取れ。そやないんやったら許容範囲外や。しゃーないわ」
そう言って、穂積は満面の笑みで直樹の両肩をポンポンと叩いた。
…あ、そう。
逃げて行けば追う必要はないんやな。ふーん。
正直やっとられんよ。
この場で自分の意見は通らない。
そう思った直樹は穂積の言い分に含みを持ちながらも、承諾するような返事をしておく。
あんなガキと一緒におれるか!!
人間は近づきすぎて付き合うと、ロクなことにならん。
俺はそれをもう十分知っとるんや。
必要なのは多少距離のある人間。
近づきすぎたらアカンねん。
しかも、あんなガキや。
そう思考しながら、最後に直樹はもう一つ、穂積に確認する。
「アイツ、さっき破門やいうて、アレほんまなんか」
「ああ、ほんまや」
「何でや?あれくらいのことで」
「不意打ちだろうが何やろうが、この世界で生きとるモンが中学生にケンカ負けるんじゃあ、そりゃ向いてないいうこっちゃ。まだ若いしな、違う道へ進んだ方がエエ。こういうのは早う決めた方がエエからなぁ」
「………」
直樹は穂積に挨拶もせず、その場から立ち去る。
まだザワザワと破門について話をしている組員たちを横目にドアを開けて部屋を出ると、廊下の窓から外の景色を見ている琢磨の姿があった。
扉の開閉音でこちらに気づいた彼が振り返る。
「なぁニイニイ、ここスゴイなー!めっちゃ高いやん。な、車もミニカーみたいやんか」
それを無視して通り過ぎると、すかさず琢磨は後を追いかけて来た。
「……お前、どうしてもついて来るんか」
すると琢磨は
「まあね」
と応える。
「犬かお前はッ!シッシッ!ハウス!ハウス!!」
「んん?」
逃げる者は追わなくていい。
そう言われているからな。
直樹はこの後、その考えを行動に移す。
直樹の後を、自分のペースでついて来る琢磨。
ほんまに、邪魔にしかならん…。
駐車場に着き、直樹の車の前まで来ると、琢磨が声を掛けてきた。
「俺って何の仕事したらいいん?今から教えてくれるん?」
……溜息すら出ない。
直樹は冷えた目で琢磨を見る。
「……今日は何もないよ。もうエエわ、帰れ。ほんで明日の昼前、11時くらいに俺のマンションの外で待っとけ」
声色は素っ気無く、ぶっきら棒。
直樹はその場で自分が今度住むマンションの住所をメモに記し、琢磨に渡した。
「………」
琢磨は紙を受け取るが、何も言わない。
「何や!?」
「俺、こんな風に住所渡されても、このマンションどこにあるか分からへんわ」
「ハア!?ちゃんと書いとるやろうが」
「イヤ、多分分からへん」
「………」
直樹のズボンのポケットの中にはスタンガンと拳銃型ライターが、上着のポケットには本物の拳銃が入っている。
実にヌルく脱力してしまったこの様で、和田に攻撃する力など残ってはいない。
……今日はもう止めや。
直樹は半分ヤケになり、まだ週末までには時間があると、この日の予定を自分の中で全てキャンセルした。
「ほんなら今からそのマンションに行くから、お前原付で後ついて来い。一回で覚えェよ」
「うん、分かった」
返事を聞き、直樹は運転席に乗り込む。
すると続いて助手席のドアが開き、琢磨が乗り込んできた。
「お前、何やっとんねん。原付でついて来い言うたやろ」
「うん、でもほら原付はコンビニに置いたあるから」
「…チッ!!コンビニまで走ってついて来い!」
「イヤや!」
自分の考えにそぐわない、受け入れ難い現実に目を遣らざるを得ないこの状況に、苛立ちしか覚えない。
苛々しながら、直樹は琢磨を助手席に乗せて車を出した。
帰りの車内でもキョロキョロもそもそと落ち着かない琢磨。
隣でダッシュボードを開けたり閉めたり。
座席の下を覗き込み、
「あ、ニイニイ、ガム落ちてるわ」
そうしてそのガムを拾い上げ、ダッシュボードの上へ置く。
その後は沈黙でありながらも、始終漂うソワソワした気配。
しばらくして、直樹は琢磨に向かって話しかけた。
「お前、学校エエんか、行かんで」
「エエねん」
「エエわけないやろ、お前。14いうたら中2やろ。義務教育の真っ最中やないか」
すると、琢磨からは意外な応えが返って来た。
「義務教育って、別に俺ら学校に通ってる人間に宛がわれた義務とちゃうやろ。あれは、大人がちゃんと子どもを学校に行かせる義務があるっていう意味やろ?じゃあ俺のモンとちゃうやん」
「………」
義務教育の何たるかについて知ってるヤツってのは少ないのに。
人が言ってるの、初めて聞いたな。
……コイツ、アホのくせに。
「どうせアレやろなぁ、そがいなカッコしとるくらいや。成績も相当イカレとるんやろ、お前。5教科の成績言うてみぃ」
「5教科?……ええっとー、国語が5、数学が5、えっと……理科5、社会4、英語が4」
「あとの教科は?」
「えー?どうやったかな……音楽5やろ、……技術4やろ、体育が5か4で、美術は5やった。最後に貰うた通知表はね」
……中の中やん。
学校に対して何の支障があるんや。
あ、そうか。コイツも親の何とか言うとったな。
「まぁアレやな、見た目ほどクソが付くほどのアホでもないんやな。中の中やないか」
「………」
「お前アレやぞ?俺なんか中学校の時オールじゅ……」
言いかけたところで、自分の成績表を思い出す。
受験に対する執着から勉学には勤しんでいたが、その他の教科というと体育は3、音楽2、……その辺りの数字……。
「……俺なんかお前、準オール10やぞ。中学ン時はなぁ」
それを聞き、琢磨はこちらを向いて、
「へぇ、準オール10?……ん?10って何?」
「ハア?10段階評価の10やないか」
「10段階?俺の学校、5までしかないわ……」
……………5段階評価???
アレ?コイツ、体育とか音楽とか、5言わなんだ???
……………。
「――――……お前、嘘吐いてるやろ」
「え?何の?」
「……イヤ、何でもない」
人の家庭環境と自分の家庭環境。
比べてみてどうだああだと言えるはずもなく、それぞれの家庭の状況を比べ合うこと自体がセンスのない話なんだろう。
言葉や状況は、受け取る本人がどう飲み込むか、なのだから。
学校の成績は随分と良いのに、学校には行かないと言うコイツ。
あの頃、親元を離れた自分に、何で親と離れるのと聞かれても、お前に話しても分かんねぇだろと一択の返事しかなかっただろうな。
コイツに、この辺の話を聞いても無駄やろう。
……どうあれ、今後も俺はコイツをアホとして扱う。
この後、無言のまま直樹はコンビニで琢磨を降ろし、そのまま車でマンションへと向かった。
後ろに原付でついて来る琢磨を確認しながら。
マンションの駐車場で車から降りた際、
「明日の11時や」
そう琢磨に告げ、立ち去ろうと足を踏み出すと、琢磨が「ニイニイ」と声を掛けてきた。
「これって就職やんなぁ?俺、就職決まったんやんねぇ?」
……カクリと膝が折れそうになった。
「勝手にせェ!」
とだけ言い残し、直樹はマンションへと入って行く。
初めて入る自分の部屋は、直樹が頼んでいた通りの模様になっていた。
間取りもベッドの位置も、テレビもビデオも。
ポストには早速新聞も届いている。
この後、直樹は部屋を一歩も出ることなく、その日を過ごした。
―――― 正直、この状況は自分の頭の中で皆無であった。
近すぎる人間を作ってはいけないと、今でも自分の胸中に札を貼り付けている。
もし
例えば
万が一
あの小僧に卓越した能力があったとしても、ついては来れない世界に俺は居る。
今こう書いているのは、決してアイツの心配をする胸中のものではない。
自分を心配しているんだ。
ゴミやヘドロで口で言い表せないほどの色になった川を目前に、ここを泳いで渡れと言われた場合、小僧はそれをできないだろうし、する必要もない。
そして俺は、それを言うつもりもない。
更に言ってしまえば、小僧の両親に関して、「我慢しろ、それくらいのこと」
そんな風な、誰もが持ち合わす意見を言うつもりもない。権利もない。
釣り上げた覚えのないものを、これまたリリースするという言い回しも癪ではあるが、逃がしてやりたいと思う。
俺の居る場所は、海というには小さいが、川というには広い。
そして触ってはいけないウイルスが至るところに浮いて、浮遊している。
そのウイルスには感染してはいけないんだ。
俺のようになる恐れがあるのだから。 ――――
次の日の朝、直樹はまず穂積に電話をした。
まだあの琢磨という少年の面倒を見ろという命令を、聞き入れられずにいた。
「あのなぁ、あの破門になったヤツ、俺アイツのことよう知らんのやけど……もうほんまにクビは切られてしもうたん?間違いないん?」
『んー、まぁ間違いないな。その辺は揺るがないよ』
「……アンタ、昨日あのクソガキに敬語使え言うて怒りよったな」
『ああ、そやなー』
「アンタ、俺が敬語使わん分は何も言わへんやんけ」
『ハーア?当たり前やろ。あの子はまだ中学生や。敬語なんざこれから覚えるんじゃ。ワシがアンタと最初に会うたとき、アンタはもうボーボーの大人やったやないか。そんな子の行儀の世話なんか、ワシせェへんでー』
「……あ、そう」
そして、回りくどいようだが、もう一度言ってみる。
「あんなぁ……どうしても、あの子の面倒見なアカン?」
『おう、見なアカン!』
それが今朝の話。
もう何一つ撤回も変更もないらしい。
……今の状況では。
ピンポーン、ピンポーン
チャイムが鳴ったのは、直樹が琢磨に告げた時間の10分前。
覗いたモニターに映し出された琢磨の姿。
直樹は一つ大きな溜息を吐く。
そして思うのだ。
コイツとの付き合いが今日で終わりになりますように、と。
オートロックを解除すると、やがて部屋のインターフォンが鳴った。
ピンポーン、ピンポーン
……せやな、俺、部屋の番号も教えたもんな。
言うんじゃなかった……。
ガチャリとドアを開けながら、昨日の説教のこともあり、自分も挨拶をする穂積を真似てみた。
「おう、迎えか。ご苦労さん。……っていうか、何やその顔!?」
ドアの前に立った琢磨の顔は腫れ上がり、ところどころに傷が出来ている。
髪の毛はバサバサ、服装は昨日のままで汚れ、手の親指には汚らしい白い紐がぐるぐると巻かれていた。
コイツ、またケンカして来たんか!?
次に出た言葉は、『思わず』。
「……お前、シャワー浴びるか?」
「え、ほんま?」
そこでハッと我に返った。
「ウソ!ウソウソ!!……お前、もしかして結構ケンカ、弱いんか?」
「強いんか弱いんかは分からへん。一応公園の水道で血ィとか洗い流したんやけど、こんな顔じゃ仕事できんかなぁ?」
コイツはほんまに仕事をするつもりでおるみたいやな。
やっぱり急がなアカン。
しかし、それにしても……
「誰にヤラれたんや」
詳しく聞きたくなるほど、琢磨はヒドイ顔をしている。
「……ニイニイね、俺のせいで追い出されたヤツおるやん。アイツの居場所、教えて」
その言葉に溜息が出そうになった。
アイツがやったんか。
まったく、子ども相手に……
オッサンに報告するべきか?
報告したらどうなる?
……何やねん、この中間管理職のストレスみたいなんは!?
俺はこんなモンいらん!!
「どこに住んでんの」
「今度教えたるわ」
「今すぐ要るんや」
「今度な」
コレについては後や。
とにかく、仕事というものは、ではなく、コイツには現実を教えてやる。
今コイツが置かれている現実は、普通ならば自ら逃げ出したくなるものであると。
「それよりお前な、車の運転できるか?」
「やったことない」
「やってみぃ。エエか、これからお前はこう言え。『安田コージ 生年月日昭和○○年○月○日 今年二十歳』」
こういう世界には、実在する人物の生年月日・名前の並んだ『自由に使っていい』リストが存在する。
安田コージはその中の1人。
「え、何で?」
琢磨の問いに、直樹は応える。
「未成年やと困ることが仰山あるからな。ましてやお前、中学生やないか。車の免許なんか持ってるワケないやん。ポリに止められたらな、免許証不携帯で済ますために、その生年月日を提示せェ言うとるんや」
すると琢磨は涼しい顔そのままに、
「ふーん、じゃあこの人は実在するってことやね。分かった」
その応えに、直樹の内心は大きく仰け反った。
ぇええッ!分かったん!?
飲み込み早ッ!
っていうか、普通ビビるやろ!
アホすぎる…!!
「……オ、オートマやったらできるやろ。オートマなんざゴーカートと同じや。左走って、信号が赤になったら止まれ。横で俺が言うたるわ」
「分かった」
マンションの駐車場に2人で向かいながら、琢磨が話しかけて来る。
「実は俺、昨日ニイニイ運転するのずっと見ててん。アレやろ?あの車はあのレバーをDってトコに合わせたら前へ進むんやろ?Rがバックやろ?」
「え?あ、お、そうや」
「昨日覚えてん」
「………」
ここで頭を過ぎったのは、ノッキングを繰り返しながら2人を乗せ、バッティングセンターへ行ったときの、あの光景。
……こんなのは、全く別の話。
直樹はまず、琢磨に逃げ出すであろう試練として、車の運転をさせることにした。
「ア、アホ――――ッ!!止めッ!コッチやコッチ!!ボケェッ!!ドコ走っとんのや、このボケェッ!!」
「そんなん言われても初めてやから分からへんって!!コレ、車壊したら弁償なん!?」
「当たり前じゃッ!!お前、こんな運転しとったら検問しとらんポリまで集まってくるわッ!!あー!前!前前前ッ!!!」
雀荘に向かうのは今日の夜と決めていた。
夕方までに済ませておかなければならない仕事があったので、事務所へと向かわせている。
「そうそうそう!!右に切って!あ~~行き過ぎ行き過ぎ!!今度左ッ!そのままバックバックバック!!」
車はスリルとサスペンスを乗せ、何とか事務所へと辿り着く。
普段は何の問題も難題もないスムーズな道程が、果てしない茨道のようだった。
直樹は車を降り、項垂れる。
……自分でも理解してない未知の液体が体中から噴出しとる。
コレ、一体誰の試練やねん……。
琢磨の様子を窺うと、まるで何もなかったかのような涼しげな顔。
「まずは事務仕事じゃ!ついて来いッ!!」
いささかあたり気味に琢磨を呼びつけ、直樹は事務所へと入って行く。
琢磨をデスクに座らせ、
「夕方までにコレ全部済ますんや」
ドカッと目の前に置いたのは、書類の束。
「え、コレ何?」
「中学生やいうても算数くらいできるやろ。エエか、この数字を全部足して、ここの人数で割る。ほんでこっちの数字が昨日のヤツや。全体の%を出して、前日との比を比べてやな……」
簿記の類のデスクワークがかなりある。
投げ出すに決まっている。
「お前、これ終わらせな帰られへんぞ」
「分かった」
渡した量としてはそれほどではないが、やり方が分からず泣きついて来るだろう。
その時はああ言ってやって、こう言ってやって…
直樹は琢磨が質問もして来れないように、その部屋を出て行く。
そうして別の部屋で、自分も琢磨に渡したものと同じ仕事をし始めた。
琢磨に渡しているのはそのコピーなのだ。
1時間ほど経った頃、遠くの方から
「ニイニイー!ニイニイー!!直樹のニイニイー!!」
と叫び声が聞こえてきた。
ケッ!!もうヘバッたんか。
直樹は琢磨を無視して自分の仕事を進めていく。
すると部屋のドアがゆっくりと開き、そこから琢磨が顔を出した。
「何や、もうヘバッたんか」
「え、ヘバる?ヘバらへんよ。終わった」
琢磨はそう言って、先ほどの書類の束を直樹に差し出してきた。
「お前な、早すぎるやろ!適当やりくさって!お前、コレ間違うとったらな、エライことになるんやぞ!?」
「……電卓使ったから、多分間違ってないと思うけど」
直樹は自分のやった仕事と、琢磨の持ってきた書類を最初から見比べてみる。
「………」
全部合うとるがな…!
「次、何やったらエエ?」
のほほんとした琢磨のその問いに、黙り込んでいた直樹は思わず、
「次!?お前にそんなモンあるか!」
「え?もうないってこと?仕事終わり?」
「……え、あ、お、ぅうん……」
……どうやら琢磨は次から次へと自分を悩ませ続けるつもりらしい。
直樹は改めて琢磨の姿を見た。
痛々しく腫れ上がった頬、目、そして指の怪我。
「お前、病院行かんでエエんか」
すると琢磨は自分の指に目を遣り、
「大丈夫よ、もう引っ付いてきとるし」
それを聞き、また思い直す。
何で心配なんかせなアカンねん。
……あ、そうや、思い出した。
「おいお前」
「ん?」
「こないだ俺がお前に預けた金あるやろ」
「あ、あのビリビリってやったヤツのときのヤツ?」
「あの金、返せ」
「えー!?何でや!?」
「お前にやったのは1万だけや。他の札はあん時落としてしもうたんじゃ。拾ってくれたんやろ?返せ」
「………」
琢磨はポケットに手を突っ込み、そーっと札を取り出した。
直樹はそれを引っ手繰るようにして奪い取る。
「あのおいちゃんが給料くれるんやろ?一月ココにおったらな、俺は……」
そこまで言って、思い出した。
この世界に入る際、自分で稼いだあのお金。
それに連なる長短大小礫に岩石。
そして、結末。
言葉を切ったのは、鼻の奥が痛くなったから。
「何でや、エエやんけ!」
琢磨の文句は全て無視。聞こえないフリ。
あの時は情に絆されてこれをバラ撒いた。
今はコイツに情を被せるワケにはいかん。
琢磨は短い文句を言った後からずっと口を開くことなく、黙り込んでいる。
直樹はその様子さえ無視し、もう少し残っていた仕事を済ませ、再び琢磨と共にマンションへの道を戻った。
帰りの運転も琢磨にさせたが、彼は大分慣れた様子でハンドルを捌いている。
それは、多少余裕の見える琢磨の言動からも窺い知れた。
信号で車を止めた琢磨が話しかけて来る。
「車の中って禁煙?」
「いんや」
直樹が応えると琢磨はポケットの中からタバコを取り出し、ライターで火を点けた。
シュポッ!
……タバコは好きではない。
自分の意見はさて置き、穂積に吸わせるなと言われている。
きっとそう。俺はコイツがタバコを吸うことを認めなくていいハズ。
……自分がタバコ嫌いであることは、さて置き。
直樹は黙ったまま手を伸ばし、琢磨の銜えたタバコの火を手のひらでギュッと握り消した。
その行為に琢磨はちらりと直樹の顔を見たが、再びタバコを取り出しシュポッと火を付ける。
それを、また直樹は黙ったまま手でギュッと潰してやる。
「………」
「………」
「何してんの?」
そう言いながら琢磨が3本目に火を点けようとした、そこで直樹は口を開いた。
「オイ!こっちも熱いんじゃ!気づけッ!!」
「え?」
「俺らの前で、タバコを吸うな」
「意味分からへんわ」
「エエから吸うな」
「吸うてエエ言うたやんけ」
「エエから吸うな言うとんのや!」
琢磨は渋々とタバコをポケットに仕舞う。
マンションの駐車場で、夕方また迎えに来いと琢磨に言いつけ、部屋へと足を向けた。
アイツは昨夜どこに泊まったんや?
バラけたのはエエが、夕方までアイツはどこで何してるんや。
お金を取り上げた後黙りこくった琢磨を見て思うことはあったが、直樹の思考の中にある企みはそのスペースを譲らない。
しかし、
「……オイ、俺はこう見えても○○○を出とるんや。ま、途中で辞めとるけどな。分からんことがあったら何でも聞きに来い。エエな? 何でもや。ほら、電話番号教えたるから」
わざわざ足を止めて琢磨にそう声を掛けた自分の絡まりなど、そんな難しいことは自分でも分からないのだ。
「ふうん…」
琢磨は直樹の書いたメモを受け取り、ニコッと笑った。
「じゃあまた後でね」
そう言って、去って行く。




