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病葉 6

床に這い蹲ったまま、時間が経過していく。

静かだった。

流血は止まったようだな、そう一度気にしてはみたが、すぐにやめた。

流れ出ていくものに未練がないのではなく、それらを含めた自分にもう興味がない。

今が何時で、どのくらいの秒・分・時間が行ってしまったのか。

時を数えることなど、はなから頭を掠めもしない。


そんな静かでどうでもいい空気が破られたのは、突然だった。

バンッと激しく扉の開く音。

「オヤッさん!来ましたよ!!」

その声と同時に、周囲で物々しく人の動く気配。

何かを引き摺るような音。

目隠しされていても感じる、張り詰めた空気。

何が起こる?

直後、少し離れたところから、ゆっくりと話す聞き慣れた声がした。

「ハイ、こんばんは~。えらいカビ臭いトコやなー」

「―――― !!!」

ヒュッと、僅かな空気が粘膜を乾かした。

その声は聞き間違うこともない、善し悪しは別として自分に染み付いてしまっているもの。

穂積 ―――― !?

直樹は首だけを起こし、声のする方へ顔を向ける。

何が起こった!?

次に聞こえてきたのは、前田の声。

「まー、遠いところご足労いただいて、ほんま恐縮ですわ」

それが号令のように、他の連中の「ご苦労様です!!」という声が室内に響き渡る。

「……ありゃー、ワシ聞いてないよ?コイツがこんなことになったあるっちゅーのはなぁ」

靴底が硬い床を叩く音が直樹に向かってどんどん近づいて来る。

それが止むと空気が揺れて、ゆるりと髪をひと撫でされた。

「ありゃー…いっぱい血ィ出とるやないか」

更にわしゃわしゃと、髪を掻き分けるように2つの手が頭をまさぐる。

撫でるような、その仕草。

今まで味わったことのない、どこかこそばゆいその感触。

こんな状況だというのに、奇妙なことに褒められているような、そんな錯覚をした。

「アンタ、こりゃ痛いやろう。まぁ内出血してる感じはないな。もう血も固まってきとるし。まぁいっぺん病院で診てもらおっか。

……よっこらしょ」

耳元で、穂積のものであろう関節のペキペキッという音がした。

「前田さん言うたな。目隠しいらんやろ。ワシが引き取りに来たんやから。もうエエわな」

少しの間を置き、前田が返答する。

「好きにしんさいや。ワシの用事はそがいなところにはない」

「そうか、スマンのぅ」

再び耳のすぐ傍で聞こえたその声。

直後に、自分に掛けられていた目隠しが解かれた。

眩しいほどの蛍光灯の光と共に目の前にあったのは、紛れもない、

―――― 穂積

……何でこんなところにいるんだ、アンタ……

その姿を見た途端、半開きの直樹の口からは今にも言い訳が零れ落ちそうになる。

アンタにはちゃんと、説明しよう思うて……

さっき電話したんやけど、繋がらんで……

俺が悪さしたもんやから、それが火種で話が大きゅうなって……

悲愴で溢れそうになる自分の顔を誤魔化すために、強張らせれば強張らせるほどしかめっ面になっていく。

その変化を、穂積の目はじっと見ていた。

謝ろうと唇を震わせた直樹に、穂積は自分の言葉を続ける。

「さっき電話くれたらしいな。スマンのう。昨日は東京へ行っとってなぁ。帰ってきたら、この前田さんにコッチへ来てくれんかー言われたんや。スマンかったなぁ」

自分を見下ろす穂積を見返しながら、

何でアンタが謝る?

何でここに来た?

そんな言葉が頭を回る。


穂積は再び立ち上がると直樹に背を向け、今度は前田と話を始めた。

「さて、っとー。こっから前田さんの出番やな。申し訳ないんやが、ワシはアンタのことを知らんでな。

随分若いんやなぁ。ここで横になっとるコイツよりもちょっと上って感じか。大したモンやな」

「褒めてもろうて嬉しいんじゃけどの、ワシャぁそがいな話したいワケじゃないんや。

アンタんトコのそのハナクソのせいでの、エライ損害出とるんじゃわ。コレ、どがいにしてくれますんや」

穂積に対する前田の声色には、余裕が感じられた。

「……うーん、損害かぁ。そらアカンなぁ」

その会話を聞きながら、直樹は思う。

こんなヤツらに金なんか払う必要はねぇ!

これ以上アンタの世話にはなれねぇ!

しかし直樹の心境とは裏腹に、穂積は話を進めて行く。

「そうかぁ。ほんで損害いうて、何ぼくらい出てますんや」

それに前田は嬉々として、

「ほうじゃのぅ、20億くらいですかいのぅ」

そこまで聞き、直樹は後ろ手のまま肘をつき、懸命に体を起こした。

心の中で「やめろ!」と叫ぶが、声に出ない。

自分の小ささを考えたとき、「やめてくれ」という言葉すらおこがましく感じてしまう。

かといって、静かに見届けることなどできない。

這いずれば這いずるほどに、何を言えばいいのか、どうすればいいのか。

「20億かぁ。そらぁゴッツイなー」

そう言いながら、穂積は内ポケットに手を突っ込み、ゴソゴソし始めた。

「クソ――――ッ!!」

直樹の口から出た言葉は、ようやくその一言。

その叫び声に穂積はちらりと直樹を振り返りはするが、内ポケットを弄る行為を止めることはなく、すぐに前田に視線を戻して口を開いた。

「20億やな?20億ねぇ。ほんまにそれでエエんやな?」

ニヤけた前田の表情が、直樹の目にも入った。

「20億でエエんじゃなー言うたら、損害はまだまだ大きいような気がするのぅ。ま、穂積さんトコのギリギリの誠意、見してもろうたら納得するんですけどのぅ」

それに対し、穂積は満面の笑みを返す。

「アンタ、何を勘違いしとるんや?さっきワシはアンタ褒めたんちゃうで。それと今言うたんもなぁ、ほんまにウチから20億取ってもエエんかー言うとるんよ」

「ハア?」

前田はニヤけたまま。

ここでもまだ、穂積の答えとする部分は理解できていないようだった。

「しかしアンタら、こがいなことするワリにゃぁ暢気に構えとるのぅ。まー、こがいな所へ1人で乗り込んでくるワシもワシなんやけどなぁ。こりゃぁワシの趣味なんやよ。格好つけたいからのぅ。

親はどこまで行っても、子ぉにイチビッて見せとかなアカン。ワシはそう思うねん」

内ポケットに入れていた右手が、いったん下りる。

その手が握っていたのは、拳銃。

静かな室内に、ガチャリという撃鉄を起こす音がやけに大きく響いた。

直樹は何が起こったのか理解できないまま、ただ見つめている。

いくつもの視線の先で穂積がおもむろにそれを構え、前田に向けた。

直樹の角度からも確認できる、前田の表情と態度。

周りにいた連中からも、穂積の意表をつくその行動に声に出ないざわめきが起こる。

「アンタらも随分ワシをナメてくれとるみたいやなぁ。ボディチェックもせんと、こがいな所まで通してしもうて。

ワシが人差し指も動かせんような、ヨボヨボのジジイや思うとったんか?いっちょカマしといたろかー。

ワシ、アンタに払う金なんざ1円たりとも持ってないで」

そうして穂積は2歩、前へ出た。

「前田とか何とか言うたな、アンタ。これでアンタとの距離は大体1m半や。こりゃぁ、ワシがアル中でも絶対外さん距離やわのぅ」

クッと前田が顎を引く。

慌てたように自らもズボンのポケットから銃を取り出し、穂積に向けて構えた。

「ア、アンタ…ッ穂積さん、どういうつもりなら!?アンタ、こがいなこと…ッ」

前田の、先ほどとは一変した声色を堰き止めるように、穂積が覆い被さる。

「ワレェ、勘違いしたらアカンのやでェ。何でワシが、ワレみたいなしょうもないモンにゼニ払わなイカンのじゃ」

「そ、そやけどアンタ…ッ、原んトコにはゼニ払うてコト済ませとるじゃないか!」

「アレとコレとは話が違うな。ワリャァうちの子攫うてボコッとるやないか。

20億の損害か何か知らんけどな、こっちゃぁコレで釣り返してもらわなアカンくらいなんじゃ」

お互いが銃を向け合い、せめぎ合う。

「今回何があったか、ワシャぁ全部聞いとるよ。経緯っちゅーのはな、理解するためにあるんや。その辺を熟知した上でや、揉み消すためにワシは来たんやないか。分からんのか」

その穂積の姿を後ろから見ている直樹。

ジョウロで花に水を遣り、野良仕事をして泥まみれになっている彼の姿しか印象に残っていなかった。

だが今、目の前で穂積が背中から出す覇気に、釘付けになって見入っている。

「おいアンタ、ワシの名前知っとるよのぅ。穂積っちゅーんじゃ。このワシに堂々とチャカ突きつけといて、大丈夫なんか。

言うとくけどワシ、この人差し指簡単に動かせるでェ」

銃口を穂積に向けながら、震えだす前田。

それに対し、穂積はもう一歩前へ出る。

「知らんのやったら教えたろかー。アンタの命とワシの命、明らかに違うんやでェ。これは人それぞれに1つの命とかいうネムタイ話と違うんや。

ワシがアンタを殺ったところで、世の中何も変わらんと明日が来る。ワシには無害。何も起こらへん。そんな明日が来るんや。

これが逆の場合、どうなるか知っとるやろ?」

穂積は更に一歩前へ。

至近距離から前田の顎に、直接銃口を突きつけた。

「ワシとアンタの命の間にゃぁの、登山家でも登られへんような山が5つほど聳え立っとる。知っとかなアカンで。

ワレが死んでも、ワシには何も起こらんし、ワシは何も感じん。世間にも何も起こらん」

穂積の言葉が終わったとき、前田のぎりぎり持ち上げていた左手はだらりと下に落ちる。

それを確認し、穂積はニコッと笑った。

「賢明やないか。エエと思うぞ」

そう言い置くと穂積は後ろを振り返り、こちらにゆっくりと近づいてきた。

しゃがみ込み、直樹の体を拘束する紐を解きながら、

「アンタ、どうせ痛い痛い言うとったんやろー。女の子はな、顔や体に傷付いたらアカンから痛い痛い言うて主張して、すぐに治療してもらわなアカンのやけどなぁ。男の子はな、多少の切り傷は我慢せなアカンのやでー。痛い痛いっていつまでも泣いとったら、アカンのやぞ?」

笑顔でそう話す穂積の顔をじっと見つめながら、またどういうわけか褒めてもらったような気がしていた。

今、自分が抱いたその感情の真意は分からない。

お門違いも甚だしいが、直樹は穂積の言葉を頭の中でそう処理した。

「よっこらしょ」という声と共に、穂積の肩を借りて立ち上がる。

「イタタタタタタッ!アンタ重たいなぁ。ワシ、腰痛いんや」

そんなことを言われつつ、直樹は穂積に連れられて、前田の正面に立たされた。

穂積はゆらゆら揺れる直樹の体から、数歩離れる。

「ほら、自分で立たな。

さっきも言うたけどな、ウチの人間がこがいなことになっとるんや。20億?やったっけ?

アンタらのトコにそのマイナスが出たとしてもな、こっちゃぁお釣り返してもらわなアカンのや。どうするんや」

歯軋りしながらグッと前へ出る前田を、周りにいた連中が押さえ込むようにして制した。

その中から1人の男が素早くはみ出し、膝をつく。

続いて両手をつき、頭を床に擦りつけ、絞るようにして出したその声音。

「今回の件……私らの方に……行きすぎる部分があったようで……ご足労頂いた上に、とんだ非礼………申し訳ございません」

男の行動を皮切りに、皆が次々と土下座を始める。

輪の中心で突っ立ったまま、俯いている前田。

穂積は最初に土下座を始めた男の前にしゃがんで、話し出した。

「悔しいやろー。悔しいなぁ。せやけどな、ワシらの世界、子どものケンカに親が首突っ込むんが因果なんや。エエか悪いか、そんなん度外視してそう決まったある。

アンタらがワシのことナメようがどうしようが勝手やけどな、格好ついた方が勝ちなんや。

お釣りについてやがな、後日また改めて電話さしてもらうわ。エエ話やったらエエなー。そやろー?」

それから穂積は立ち上がり様、前田に視線を合わせた。

「ところでアンタ、名前何て言うんやったっけ?ワシ、忘れてしもうたがな。

ワシは穂積言いますんや。押し付けがましいけど、覚えとった方がエエでー」

そうして背を向け、1人で歩き出す。

カツーン、カツーンという穂積の足音に、皆半ば呆然とその後姿を見送っていた。

直樹も同様、呆けたようにその姿を見ている。

やがて、その背中はドアに差し掛かったところで振り返り、直樹を見た。

「何しとるんや、直樹。一緒に帰ろうや」

その声にハッと気づき、返事をせぬまま足を引き摺って穂積の後を追う。

この時、久しぶりに自分の下の名前を人から呼ばれた。

ただ、それだけを思った。


先々と歩いていく穂積の後を、よちよちとついて行く。

……こうまでして、俺は生きるべきか?

自分の中で、いろんな場所に最後の挨拶をしちまったじゃないか…。

俺の小さい姿といったら……。

人差し指と親指じゃ掴み上げるのすら難しいほど、小さい一粒の俺。

苦肉の策として、爪の間に挟むようにして摘み上げられた、それほど小さい俺の姿。

穂積は車の前で足を止め、直樹を振り返った。

「何や、えらい足痛そうなんやな。行けるか?」

直樹は小さく呟くように返事をする。

「……行けるよ」

「そうか。後ろで横になっとってもエエでー」

その車は直樹が見たあの小さな軽ではなく、黒塗りの大きなベンツ。

そういえば、今日の穂積はいつものようなラフな格好ではなく、きっちりスーツを着ている。

穂積は後部座席のドアを自ら開けて、直樹に乗るよう促した。

至れり尽くせりのこの状況。

苛立ちがあったわけではない。

しかし自分の小ささを加味し、理解した上で、この場で穂積に聞きたいことというのはどうしても大きな声になってしまう。

「なぁオッサンよう!アンタ、何で来たんや!?俺のことなんか関係ないやろ、アンタには!しかも1人でよう!アイツらがケツ捲くったらどうするつもりやったんや!?俺はそんな、アンタがどうこうなった責任なんか取られへんぞ!?」

すると穂積はドアを開けた体勢のまま車に凭れ掛かり、顔つきを笑顔に変えた。

「ハハァ……ケツ捲くりよったらかぁ。っちゅーか、今のアンタの言い分やったら、俺は責任取れへん言うて、その状況でも自分は助かるつもりでおったんか」

「!!イ、イヤ、そういう意味じゃなくて!」

「ハハッ、分かっとるよ。せやなぁ、アイツらがケツ捲くったら、ワシら2人とも終わりやったんや。紙一重やったっちゅーてな。それだけのこっちゃ」

「……ッ」

「ほら、早よ乗らんかい」

「……紙一重って……自分の立場考えろや。……ほんまに1人で来とるし……」

直樹はブツブツ呟きながら、後部座席に身を突っ込む。

体中が痛かったが、横になることはせず姿勢だけは保ち、座る。

穂積も運転席に乗り込み、無言のままエンジンをかけ、車を走らせた。

その沈黙の中、直樹は考える。

先ほどの大声のついでに、何故俺なんかのためにあの紙一重の状況に飛び込んでくれたのか、聞くべきだったんだ。

聞くべき……いや、

違う。

聞きたかった。

次に穂積が口を開いたのは、地下駐車場を抜け、道路に出てすぐだった。

「どうや、この車。エエやろー。ヨソ様んトコ行くからなぁ、行儀良うせなアカン思うて、久々に走らせたんや。見てみぃ、電話も付いとるんやぞー?エエやろー」

「………」

そこからまた穂積はしばらく黙り、車内にはたまにウインカーの点滅する音が聞こえるだけ。

しばらくして直樹が、このままどこに行く?そんなことを考え出した頃、穂積もまた口を開いた。

「アンタ……ワシ、さっき一緒に帰ろう言うたけどな、アンタはどこへ帰るんや」

「………」

帰るところ……

もう帰れんと思うてたから、決めてない。

「長いことこの世界におるとな、見たないモンとなぁ、見て嬉しいモンの比率っちゅーのがな、おかしゅうなるっていうかな…」

そこでいったん言葉を切ると、穂積は直樹の聞きたかったことを自ら話し始めた。

「むかーしな、アンタはワシに会うたことあるんやで。覚えてへんか。

あのー、アンタの友達が、えーっと、……岡崎くんか。あの子が死んだ、あの夜の話とちゃうで」

「………」

コイツはやはり、タケシのことまで知っている。

名前まで覚えている……。

「アンタがまだアレ、3歳か4歳ちゃうかー。建設業界のパーティーがあってな。ワシ、そこへ行っとって、アンタの親父さんとアンタに会うとるんや。あの頃ちょこちょこっとな、アンタの親父さんに厄介になっとって。

アンタが遅れてパーティー会場に入って来たから、よう覚えとるんや。

東京から1人で来たんか?って聞いたらアンタ、『ハイ、○時○分の新幹線で来ました』言うてな」

「………」

「ワシはなぁ、一回会うた、一回関わった人間の顔と名前は忘れんのや。1個1個がワシの財産や思うとるからな」

覚えてねぇよ、俺は。

……あったな、俺にも。

3、4歳の頃が。

穂積は、ワシもエラッそうなことを言えるガラやないんやけどな、と言い加え、話を続ける。

「さっき、経緯は理解するためにある、ワシ、そう言うたな?大人のやることにはな、その経緯の中に必ず人がおる。経緯を理解し、利用する。それもまた一つやが、覚えて理解する、これもまた一つや。

組織っちゅーのはな、組織や会社いうのはな、建物や物を創り出すところの前に人間なんや。人そのものなんよ。

そこに弁当屋があっても、その建物の中に弁当作る人間がおらなんだら、店行っても弁当は出てこん。

この世はな、全て人で形成されとるんや」

直樹はここでようやく口を開いた。

「……俺は、何か間違っとったか?」

「……いいや。せやけどな、ワシ、今回お前が死んどったら、その『人』が作っとる列にな、ぽっかり穴が開くんや。

この世に粗末にしてエエもんなんかあらへんぞ。ワシャぁな、犬の糞でも、一回握ってもうたモンは離したりせぇへんのや。たとえそれがな、ワシのキライな大金持ちでもな」

……俺の親。

おそらく4人いたであろう、俺の親。

彼・彼女らは、2回俺をリリースしている。

アンタは、人の捨てたモンでも離さんってか。

犬の糞でも離さんっちゅーことは、俺みたいなモンでも離さんってか……?

直樹はここで、一つ大きく溜息を吐いた。

大層な意を決したわけではない。

再び息を吸い込み、吐くのと同時に話し始めたのは、これまでの出来事・経緯。

それはまるで以前練習していたかのように、躓くことがない。


窓の外の大人しい街並みは、もう数え切れないほどにリピートする景色。

行き先の決まっていない2人を乗せた車は、穂積の匙加減で同じルートをぐるぐると何度も回る。


「……俺は、彼女を救いたかってん。ほんでな、アイツらも今、外国におるけど、帰ってきたらな、俺がな……アイツにはな、もっと立派な墓石を……それら全部やろう思うたら、金はいくらあってもエエやろ。アンタもそう思うやろ」

長い時間話していた直樹の言葉を、穂積は肯くこともなくただじっと聞いていた。

直樹は体を起こし、運転席と助手席の間に顔を突っ込む。

「なぁそうやろ?金要るやろ?なぁって!」

その直樹の問いに穂積が用意した答えは、残酷でもあり、巧妙でもあった。

「墓かぁ……飾りやな。ワシはそんなモン、いらんで」

「!?」

「海外へ2人で行ったか…。直樹、その2人はな、もうアンタの前には現れん。2人の人生はな、アンタの知らんところでアンタの知らん色・形で出来上がっていっとるんや。それらは全部、大人の事情よ。アンタもまた、その事情を持っとる大人なんや」

「………」

言われるまでもなく、……いや、言われて初めて気づいたのか。

それとも随分前から知っていたのか。

そんな気がしていた。

パクウたちにはもう二度と会えない、と。

俺が死んだところで、俺はタケシのところへは行けない、……と。

「直樹。墓の下にはな、人が埋まっとる。その人は、誰か分からんくらいの骨だけになっとるんや。

……生きな、アカンぞ。

鳴らへん鈴に価値はないかもしらん。せやけどな、壊れてもうたからいうて、捨てなアカンっちゅー決まりはない。

見た目が気に入っとりゃ飾りにもなるし、手に入れたその時を思い出すために必要なものになるかもしれん。それも含めた自分になる可能性もある。その鈴を気に入ってるからって持ってるのもアリ、捨てるんもアリ。

直樹、アンタは壊れた鈴か。正常な鈴か。それとも、壊れた鈴はいらんタイプか。大事に持っとるタイプか」

「………」

「ワシはな、ワシは壊れた鈴やけど、自分の持っとる壊れた鈴は捨てへんタイプや。せやけどな、人に何かを言わなアカンときは、答え考えて、選んで言うで。

アンタが引き抜いた、その昔の彼女。アンタから受け取ったモンはな、アンタの見てないところでビリビリに破き捨てるハズや。

せやけどな、たとえ壊れとってもな、クズでな、ガキでもな、それを愛しむ人もいるんよ。

直樹、……諦めェ。自分のことを、考えェ。

世の中は、人で成り立っとる。アンタの知らんところで、ちゃんとアンタを大事に思うとる人間がおる。

諦めて出来たアンタのスペースにな、また何か新しいモン仕舞えばエエ」

一言一句、食い入るように逃さず聞いた。

そうするか、と、

そう思えた。

直樹は一つ「ああ」と返事をする。

「ワシに諦めェ言われたら、諦められるんかいな。どうするんや?」

簡単に返事をしているつもりはない。

直樹はまた「ああ」と答えを返す。

「そうか。それもまた一つやな」

……初めて穂積とゆっくり話せた気がする。

親にされたことのないような、そんな説教。

それを直樹は噛み締める。

「なぁオッサン」

直樹のそれに対して、今度はちゃんと穂積が肯いた。

「組織は縦に繋がらなアカンよな?俺は絶対そうじゃないとうまくいかんと思うとる。

上におればおるほど、下におる人間の顔が見えん。名前も覚えられん。

下におる、顔も見たことのない・名前も知らん、そんな人間のことを、人は人として扱うもんなんか」

それに対し、穂積は即答する。

「当たり前やないか。アンタが顔知らん人らにも、横へ人が繋がってっとるんや。家族やったり、ツレやったりな。

上におるモンがソイツらの広がりにまで気ィ遣う必要はない。せやけどな、アンタの言う、下の方にも人がおるんやー思うたら、何とかなるでー。ワシ、これ理解するのに何十年もかかったんやで。

アンタの周りで起こることで、アンタに関係ないことなんかない。アンタ、その若さでこんなこと知れたっちゅーのは、随分得したで」

「………」

久保さんのこと

イサムのこと

パクウのこと

タケシのこと

指折り数えるだけで事足りる人数ですら、俺の中はパンパンになってしまう。

破裂寸前だ。

皆はそうやって生きているのか?

両手で足りないほどの人間のことを考え、生きてってるっていうのか?

俺の会社の社員たち、ヤツら全員家族がいるとして……

―――― 俺のできること

ウチの社員を守れば、その社員の家族が助かる。

俺が何かをするのではなく、それぞれが自分の家族を守る。


まだあてのない帰路。

ぽつりぽつりと続く街灯に照らされた街並を、直樹の視線はとめどなく見送る。

やがて、穂積の操るベンツの足が何度目かの周回に入ろうとカーブを曲がった時だった。

備え付けの電話のコールが突然響いた。

「おー、電話鳴ったで。ワシ、車で電話出るの初めてやわ」

そう言って受話器を取る穂積。

直樹は流れていく外の景色をじっと見つめていた。

「おー、ワシワシ。……しんどかったよ。こんな時間までかかるし。ワシも大分グズッてきたわ。眠たぁてしゃあない」

直樹は穂積の声を片耳で、自分とは関係ないものとして聞いていた。

しかし、

「……え~、ココにおるで。何や、代わったらエエんか?」

穂積がそう言いながら車を路肩に停め、後ろを振り返り受話器を差し出す。

「アンタに用事みたいや」

「俺に用事?誰よ?」

「何や慌てとるぞ。コッチのお前の会社の人間から伝言らしいで」

「………」

直樹は何かを疑るように、その受話器を受け取った。

電話の向こうの男が直樹の事務所から預かっていたのは、盗まれたリストの件。

リストを盗んだのは前田のところの人間だとそう思っていたので、もう全て落着したと考えていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。

男は自分が聞いている大まかな情報を直樹に渡すと、詳細は自分の事務所に聞けと話を括った。

直樹はすぐさま事務所の番号を押す。

リストを盗んだのが前田でないのならば……

俺の創り上げた城……たくさんの人が住むあの場所は、先陣を切って俺が守らねばならない。

まだ終わっていない。

数コールの後、電話に出たのは伊藤だった。

『秋月さん、捕まえましたよ!リストを盗んだのは2人組です!』

もう捕まえているのならば、あとはその2人の処分のみ。

そうタカを括ったが、その内容は直樹にとってそんなに安易なものではなかった。

「で?リストパクッたんはどこのどいつよ?前田のトコのモンじゃないんか?」

『実は……』

伊藤は神妙に話し出す。

2人組の犯人のうち、伊藤たちが捕まえたのは1人だけ。

もう1人には逃げられたと言う。

拘束したその犯人から聞き出したところ、2人は前田の店のリストをも盗み出し、利用しようとしていたらしい。

そこまで聞いて、直樹は得心した。

引き抜きの件だけで、前田が今回のような無謀な行動に出るのは不自然と言えた。

彼もまた、自分の店のリストを盗んだのは直樹たちだと考えていたのだ。

「……で、その2人の名前は?」

直樹の問いに、伊藤が答える。

『――――――………』

―――― そこで出た意外な名前は、直樹を驚愕どころではない衝撃の渦へ突き落とした。

『どうしますか?』

指示を求めた伊藤に対する直樹の声に、しかし衝撃ははみ出さない。

「今から俺が行くよ。場所は?」

犯人の2人は待ち合わせをして、渡船で他県に逃げるつもりだったようだ。

今まさに、という現場を捕まえたと言う。

その港は、直樹が今いる場所から車で10分ほどのところ。

「こっから近い。俺がそこへ行くよ」

直樹はそう言って受話器を置いた。


「………」

……電話の向こうには伝わらなかったはず。

冷静で沈着な声と言葉しか、伝わっていないはず。

しかし電話を切ったと同時に溢れ出る感情は、到底抑えることができなかった。

穂積の前で恥も外聞もなく、目から涙が溢れ出す。

「あ――――……ッ!!つらい……ッ!」

右の手のひらで両目を何度も拭いながら、声を大にして押し出した。


その名前。

その事実。

疑問じゃない。

理由じゃない。

増大しようとする自分の一箇所と、もう一箇所。

これに関して悩むことは何一つない。

既に答えはある、普通のこと。


拭いきれぬ涙を手で払った、その何度目かの後。

黙ってルームミラーで直樹を見ていた穂積と、目が合った。

「まぁ、誰にも言わんから安心せェ」

そう言った穂積に、直樹は話しかける。

「……あんな、眠たいかもしれんけど、もうちょっと付き合うてくれんかな……」

それから、今回自分の店のリストが盗難に遭った詳細を説明し、たった今発覚したその犯人について話をした。

「こっから10分くらいなんや。乗せてってよ」

「……いいよ。で?アンタはどうするんや?」

どうするんや、という穂積の問いに対して、また軸がブレそうになる。

振れる幅などなく、こうするしかないはずなのに。

「……決まってるやん。……ちゃんとするよ」


直樹のナビで車は進む。

その後は目的地へ着くまで、車内には何の会話もなかった。

ほどなくして着いたのは、船もまばらな小さな港。

灯りも少なく、真っ暗な夜の波止場。

「悪いけど、ちょっと待っといて……」

そして直樹は、ここへ来てその言葉をようやく穂積に言えた。

「オッサン、今回ありがとうね」

穂積は笑顔を見せながら、

「おぉ、何やコイツ、ようやく言いよったな。

ワシはなぁ、嬉しかっただけなんよ。アンタがな、ワシんトコに訪ねて来てくれたんがなぁ。嬉しかっただけなんや」

「………」

直樹はそれを聞き終えると車を降り、歩いて行く。

急ぐでもなく、時間を誤魔化すでもなく。

50mほど先の方で暗闇の中、辛うじて見える、人影。


―――― 俺はな、利発な君に、釘付けなんだ

       これまでも、きっとこれからも ――――


直樹は一歩一歩、その場に近づいて行く。

1人が地に押さえつけられ、膝をつくようにして座っている。

それを5人の人間が取り囲んでいる様。

俯くように捕まっている者の籠った呻き以外に聞こえる声はなく、円を描いている者は皆、直樹の姿を目で確認した。

そこへ直樹はゆっくりと、犯人の目の前に立つ。

1人の男が声を潜めて直樹に問うた。

「コイツ、どうしますか」

「………」

その声を聞いてか、蹲る人間が顔を上げた。

鼻だけを出すように、顔面をガムテープでぐるぐる巻きにされている。

後ろ手に拘束されている、その姿。

「……取り合えずこのガムテープ、外してくれるか。こんな時間にこんな場所に人なんかおらんやろ」

直樹の指示で、2人がそのガムテープをビリビリと剥がし始めた。

この数秒の間、思うことがありすぎて何を思えばいいのやら。

直樹はそんなことを考えている。

やがてガムテープが全て剥ぎ取られ、その顔が直樹を見上げた。

……今回リストを盗んだのは、男女の2人組。

男の方はまだ捕まっていない。

暗くて顔も確認できないそんな中、直樹はシルエットのみでその女性を間違えることなく見分けることができる。

「ちょっと!!どうする気なんよ!?何よコレ!!私は言われるままに動いただけなんやから!」

奇声に近い大声を上げ、直樹の前に跪いているその女性は間違いなく、―――― 久保紀子。

思うことは多々ある。

だけど、俺にできることは他にはない。

息を吸い、吐く。

普段から何の気なくしているその行動、それと同じようにただ粛々と。

直樹は冷え切った目で、紀子を見下ろした。

「アンタがリスト盗んだ泥棒か。相方どうした」

直樹が言った相方というのは、イサム。

……松田イサム。

この真っ暗な中で自分を見上げる紀子は、今こうやって話しかけているのが一体誰なのか理解できているのか。

……まぁ、そんなことはどうでもいい。

「泥棒!?ちょ、ちょっと待ってくださいよ!私、身内ですよ!?このリストも、何か役に立てるかなぁと思って……」

紀子とイサムは親密な関係になっていた。

そう考えるべき。

それに関して思うことはあれど、考えなければならないことはないと理解した。

あの晩のうちにイサムが決断し、事務所のリストを紀子に盗ませた。

……俺、盗んでる現場見たのにな。

まったく俺は、……誰に似たんやら。

直樹は変わらず凍りつくような目で見下ろし、淡々と言葉を吐く。

「ホラ吹く前に、コトの大きさくらい分かってただろ」

ここで紀子のテンションは明らかに変わった。

「イサムく…ッ、オーナーが責任持つって言ったから!話せば分かるはずです!彼が来るまで待ってください!!」

悲痛も兼ね備えた紀子の叫び声が、辺りに響く。

それに応えたのは、静かな直樹の声。

「……アイツは逃げたよ。テメェを置いてな。アイツは来ねぇ」

「じゃ、じゃあ私はどうなるんですか!?」


聞いた傍、言った傍から忘れてしまいたい ――――…


「テメェで考えろ。せやけどな、テメェの希望は通らねぇ」

「1時間だけ!1時間だけ待ってください!!」

「何で」

「絶対ちゃんと来ますから!待ってよ!!」

「誰が。誰を」


紀子の乞いは続く。


「オーナーはきっと来ますから!!私を見捨てるわけない!!」

「……来ねぇし、待たねぇ」

「あと、あと30分だけでも!!」

「待たねぇ」

「30分!!お願いします!!」

「……待たねぇ」


直樹はそれ以上、紀子との距離を縮めない。

近づくことをせず、目の色も変えず、心拍をも乱さず。


「テメェは終わりだ。観念しろ。奇跡は起きへんよ」

「ちょ…ちょっとやめてよ!メチャメチャやんか!話聞いてよ!!」

「……聞かねぇ」


ここで、紀子との会話は全て済ませることになる。

このまま続けても、俺のジレンマが終わることはない。

直樹は1人の男に目を向け、告げる。

「責任は取らせろ。骨の髄まで絞っていい。全てアンタに一任する」

紀子を横目に、そう言い放った。


大きく抱いたアレやコレは、奇しくも自分の手で崩壊させることになった。

不細工で滑稽な、そんな話は芯まで脆い。

そんな俺は、これからも続く。

また生きることにしたのだから ――――


「松田はどうしますか?」

男の問いに直樹は、

「どんな手使うてでも探し出せ。その処分もアンタに一任する」

そう言葉を向けた、男の後ろ。

連行される紀子は立ち上がる際も項垂れ、肩を落としていた。

その姿を最後に、直樹は紀子に背を向ける。

ゆっくりとその場を離れ、穂積の車の方へ向かって歩を進めて行く。




―――― これからも、俺は君に釘付けか……?


これから死ぬまで

これから先

どれだけたくさんのことを覚えてられるんだろう。

あと何個、覚えなきゃいけねぇんだろう。


人の成績?

貰い物のネックレス?

人の顔?

花火?

人の表情?

旅行?


3、4個くらいは忘れてもいいよな。

困らないと思う。

……俺としては。


俺は君を上手に忘れるから

君は俺を、許さないでくれ。


見慣れた君

あの時の君

あの頃の   君


久保さん

この名前を噛むのも、これで最後なんだ。 ――――




穂積の待つ車に、静かに乗り込んだ。

……生きると決めたからには、抜け殻になるわけにはいかない。

その直樹の姿を、振り返りながらじっと見つめる穂積。

「……事情っていうのは安易やったり、理解し難かったり、人それぞれやなぁ。100を守るために1犠牲にするか。1守るために100犠牲にするか。そんなモン、決められへんよ。目の前で……5センチ先の目の前で直面してもな」

穂積はそう言って、車を走らせる。

自分の行動について……これからは全てじゃないにしても、責任は取れるようにしよう。

俺は他の人たちよりも小さく、細腕なのだから。

そんな俺は、巨万に太刀打ちできない。

自分に見合った、そんな生き方をしよう。


「……あのな、オッサン」

直樹はここで、「俺が言えたガラやないんやが、」と前置きをして話し始めた。

それは、直樹がこの地でしている風俗関係の商売、これらを全て引き取ってくれないかという相談。

以前、風俗関係はやりたくないと言っていたがどうだろう、と付け足して。

それに対し、穂積は理由を聞くこともなく二つ返事で「別にエエよ」と引き受けた。

更に直樹は、自分に穂積の拠点で穂積の手伝いをさせてくれという願いも申し出てみた。

それに対しても、彼の答えは意外なほど簡単で「エエよ」というものだった。

前田との件。

原との件。

これらを牛耳るには俺ではなく、もう穂積の名前でないと乗り越えることができない。

真実を見据え、自分の中で作り出した偽りを払拭したことで、少し楽になった。

こんな俺が楽になる必要があるのかという、我に対する問いかけはさておき……。


しばらくの沈黙の後、直樹はもう一度穂積に話しかける。

「アンタな、……俺ってどんなヤツなんやろな。ツレみたいなモンがあんまりできたことがないから、お前はこんなヤツやってあんまり表されたことがないんや。自分のことが、自分がどんなヤツなんか、よう分からへんのよ。今後俺はどういうヤツになればエエんやろな。目的が1個もないねん」

そう問うた直樹に、穂積が応えた。

「アンタがどんなヤツかー?そんなんワシは知らん。……まー、難しい考えすぎやろ。我がないのが俺の我やーくらいに思うとけ」

「………」

我がないのが、我……

都合が良すぎるような気もしたが、それを聞いてもう半歩楽になったように思えた。


次の目的地は、直樹の宿泊するホテル。

2人は明日の朝、この地を離れ、帰ることに決めた。

今夜はいったんそれぞれのホテルに戻ることにして、朝、直樹の用意が出来次第、車の電話に連絡するという約束をした。

暗い夜道を車はひた走る。

ほどなくして着いた、直樹が住処としている見慣れたホテルの門の前。

穂積はそこで直樹を降ろすと、別れ際に一言、

「帰りはアンタ、運転してくれよー?頼むでー」

そう言って、走り去った。

どんどん小さくなっていくベンツの後姿を見送り、ホテルの玄関へと足を向ける。

逆巻く夜がようやく終わり、ほっとしたのかまた全身の痛みを思い出した。

直樹はポケットに手を突っ込み、

こんな体で運転できるかな……。

そんなことを考えながら足を引き摺り、玄関に向かって歩く。


もうかなり遅い時間。

さすがに辺りに人影はない。

直樹が向かう方向にある光は、エントランスの灯りとぽつんぽつんと続く薄暗い街灯のみ。

ホテルの門から玄関まではロータリーになっており、その中心には植木の並ぶ小さな円形の庭が設えてある。

直樹はそれを左手に、車道に沿ってゆっくりと歩いて行く。

そしてそれは、ちょうど庭を通り過ぎた時だった。

後方から聞こえた、ガサッという音。

直樹は何気なく、左後ろを振り返る。

その瞬間、右側からドンッ!と強い衝撃が体を襲った。

同時に、腰骨の辺りでゴリッという、髄にまで響く低い音。

「んん!?アレ…ッ」

取り合えず、痛みを感じない衝撃だった。

思わず腰に手をやるとぬるりと滑る、真っ赤に染まった手のひら。

視線の方向を変えたその先に、息を荒くした1人の男が立っている。

その手が持つのは、小さなナイフ。

「お―――……、刺された!………ッ」

不意に右の膝が力を失い、カクリと角度を変える。

上体が折れる際、街灯の僅かな光で相手の顔がちらりと見えた。

それは、目を見開き鬼のような形相で、自分の行動に自分が一番驚いている、そんな顔。


―――― イサム


……そうやんなぁ。

やっぱり終わってへんよなぁ。


倒れそうな体を踏ん張り、直樹は彼に話しかける。

「イサム……ッ……お前、まだおったんかよ……ッ」

体が崩れる。

力が抜けそうになる足腰を懸命に支え、驚愕の表情のままこちらを凝視する松田を見上げた。

「田舎へ……うぅ……ッ!田舎へ、帰れっつった・だろ、お前、……」

松田の、ナイフを持つ手が小刻みに揺れていた。

直樹はその震えに気を遣い、何とか地面に這い蹲るのを堪える。

「ア、…アンタが、アンタが…ッ!アンタがいつまでも俺をコドモ扱いするからいけねぇんだ…ッ!!」

喘ぐように、松田は続ける。

「紀子と一緒に…ッ…アイツと一緒に、あのリスト使って2人でやってこうって決めたんだよ……!なのにまたアンタは……ッ……最後の最後で……!!」

右腰を押さえる。

そろそろ耐えられなくなってきた。

指の間から血液がドクドクと伝い、滴り落ちて行く。

「イサム……ッこんなトコにおったら、お前……お・お、……おおぉぉ――――……ッ」

堪えきれず、とうとう前のめりに倒れ込んだ。

直樹はうつ伏せる体を自力で引っ繰り返し、仰向けに寝転がる。

まるで喘鳴するような息遣いの松田は、そこで声を張り上げた。

「俺は!俺はさぁ!アンタを殺せねぇけどさ、……ッ殺せねぇよ!!!」

ナイフがアスファルトに落ちるカチャンという音が、すぐ傍で聞こえた。

直樹は首だけを松田に向け、

「……イサム、何回も言わすな……田舎へ帰れ……な。取り合えず、俺の言うこと、聞いとけ……な?」

そう話しかけた。

が、そこで松田の息の音や声は聞こえて来なくなり、代わりに遠ざかって行く足音が耳を打つ。

「おう……そうそう、……早く田舎へ帰れ……」

懐かしさをも感じるその後姿を思い浮かべ、小さく呟いた。

やがて、微かだった高い足音も完全に聞こえなくなる。


と、直樹はここで一つ、思い出したことがあった。

「イタタタタタタッ!」

悲鳴を押さえ、やっとのことで体を起こす。

アスファルトの上に自分が作った水溜りのようなものに手をつき、何とか立ち上がる。

それから地面に視線を走らせ、松田の落としたナイフを拾い上げてポケットに仕舞いこんだ。

顔を上げたその先に、公衆電話の光が見える。

全身を引き摺りながら、直樹はそれに向かって歩いて行く。

……刺されたらこんなことになるんか。

知らなんだな。

熱いし、冷たい……。

「……こりゃぁ、次座ったらもう立てんな……」

そう呟き、受話器を取り上げて押した番号は、穂積の車。

たったのワンコールで、穂積は出た。

「あー……俺、秋月やけど」

『お、何や。何か忘れもんしたか?何やー?ワシの泊まるホテルの方が高級やから一緒に泊めてくれってか?

ハハア……お前やっぱりコッチやな!?アカンでェ、ワシにその気はないでェ』

暢気な応答に、救われた。

「……違うよ。一つ、言い忘れとった」

『何や』

「コッチにな、小さい洋食屋も作っとるんや、俺。儲からへんけど……多分儲からへんと思うけど、その店も続けてくれるかな。

風俗と違う商売って、それしかやってへんねん」

『………』

「なぁ、それも面倒見たってや」

『そらぁ別に構へんが。明日でもエエやろ。朝早いんやから、アンタも早よ寝ェや』

「……おう、分かった」

そろそろ自分の体の重さに耐えきれなくなっていたところだった。

直樹は穂積の返事を聞き、受話器を置く。

立ちながらも這いずるようにしてボックスを出、夜空を見上げてフ――――ッと大きく息を吐く。

「……死なへんよ、俺は……死なへん、死なへん……一発刺されただけや。

……死なへんよ」

ブツブツと独り言を呟きながら、ホテルの入口とは真逆の方向へと歩き出す。

……忘れてた。

事務所にいろいろ置いてあるわ。

俺もコッチの人間から逃げる立場なんやから、二度と会わんようにせんと。

残ってる仕事もあるしな……。

直樹はホテル前の道路でタクシーを捕まえて乗り込み、事務所へと向かう。


もちろん事務所には誰もいない。

鍵を開けて中に入り、電気を点ける。

そこで目についた業務用のホッチキスで、傷口を5箇所留めた。

「イタタタタッ!!ウウウゥゥッ!!ウゥ――――ッ!!」

バチン!バチン!と音がするたび、歯の間から呻きが漏れる。


……朝には、

朝には、帰らないといけない。

全部済ませておかないと。

なるべくこの街に、忘れ物をしないように……。


ホッチキスで留めた傷口の上にバスタオルを巻き、直樹はそのまま穂積と待ち合わせるまで仕事を続けていた。

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