病葉 5
「金で買えんモンなんか必要ない。俺が使うたゼニにはな、ちゃんと印を付けてあってな、子ども生んでちゃんと俺んトコに帰って来るんじゃ。お前の言うメンツやプライドは、子を生んで俺にゼニ儲けさせてくれるんか?アア!?
金持ちは成金が必要。成金は貧乏人が必要。貧乏人は何が必要?愛?友情?要するに、ソレしかないんやろ?ソレしかないから拾うんやろ?せやからソレを見つけるのが上手なだけやろ?」
今、俺のことを凝視してくれるのは、お前だけや。
―――― イサム
「松田、お前ドレや?俺はな、生まれた時から金持ちやねん。せやからな、1個飛び越えてしもうたら、気持ちが分からんのや。お前の言うてることの意味がよう分からんから、お前は要するに貧乏人やな」
「い、今そんな話、関係ないでしょうが!!」
「俺にはこれが大いに関係あんねんなぁ。今後のことを考えたらなぁ。まぁ、勝手に決めさせてもらうわ。俺はな、役に立たんヤツはいらんねん」
お前は安全な場所へ、いったん隠れろ!!
「俺が役に立たん印押したお前は、いらんねん。ボコられて、手ェ千切られそうになって帰って来ただけやろ?そんなヤツ、いらんねん」
「……それは……それは、俺のクビ、切るってことですか。俺はただ、秋月さんナメたアイツらが許せなかった。それだけだったんですけど……」
「言うとくがな、店メチャクチャにしたのは原とちゃうぞ」
「え!?」
「ホレ見てみぃ。お前は俺に恥かかして、怪我して帰って来ただけや。何の役にも立たん。松田、田舎へ帰れ」
……これ以上、俺とおるとマズイんや。
「お前好みの言い方で言うたろか。お前は破門や。イヤ、絶縁や。ヤ○ザ好みのお前なら、これがどういう意味か分かるやろ」
「――――……」
松田は呆然と直樹を見つめ、やがて右手で握り締めていた拳銃を床に落とした。
ゴト、という重い音と共に、下を向いてしまう。
「俺の車、乗ってってエエよ。これ以上俺に恥かかすな」
俯いてしまい、こちらを見ない松田の姿を歯を食い縛りながら見つめ、直樹はその部屋を出た。
くそぅ……つらいなぁ……
そして更に噛み締める。
こうでもせんと、アイツはいつまでも俺を慕ってくれる。
小者の俺は、お前のそのニーズに応えられない。
店にイタズラされただけで、しどろもどろやで。
静かな音を立てて閉まった分厚いドアの前に立ち、両の拳を握り締め、俯いたままそんなことを考える。
……犯人探しするか。
他に引き抜きが発覚するんか?
―――― 限界かもしれんな、俺……。
このまま、松田の隣に取っている自分の部屋で寝る気にはなれなかった。
肩の力が抜けたわけでも睡魔が襲って来たわけでもなかったが、今日の寝床を探しにまた事務所へと帰る。
事務所の片隅、社長室と銘した自分専用の小さな部屋の中で、直樹は横になっていた。
ソファの上は寝心地が悪い。
眠れねぇ…。
自分の遣り方が100%間違っていたとは思えない。
そうなると、何%の間違いが歪みを生んだのか。
それとも俺が正解と思っていることは、世間の間違いなのか。
明るいものに対し影というフィルターを通すようにして見る、という手段を取ったのは確か。
そして、ふと思い出す。
俺がこの間やってきた、ビジネスの方法。
これは、人の真似だということ。
かなぐり捨てることができず、夢にまで出てきたアイツの手法。
……そう、
気づかなんだ。
俺、知らん間に、片桐の真似、しとるんちゃうん…?
嘘やろ ――――。
ソファに面した背中から、自分の体が溶け出していくような、そんな感覚を覚えた。
ゲスの象徴だったアイツの真似をしている。
しかも、それには気づかず、長い間、俺は……。
嘔吐しそうなほどに、自分の振る舞いに嫌気が差した。
頭髪を掻き毟りそうになる、衝動。
直樹は1人、ソファの上で身悶えを繰り返す。
悶々と考え込んでいた時間がどれだけだったのかは分からない。
部屋に置いてある時計に目をやると、もう既に5時を回っていた。
息切れが止まらないのは、俺の自由。
こんな姿は誰にも見せられない。
俺が何に気づこうが、今後どういう風に振舞おうが、俺のやっていることは破棄できない。
もう、全力で走っている。
諦めるわけにもいかなけりゃ、泣くわけにもいかない。
俺は、そういう風にできている。
イサム
お前は田舎に帰れ。
そして所謂真っ当ってヤツで生きて行け。
ほとぼりが冷めたら、余りあるものを土産に会いに行くから。
久保さん
あなたには今日、渡す。
余りあるものを。
だから、この地を離れてくれ。
直樹の思考はとめどなく理想を駆け巡る。
それは、たった一つの歯車。
軸は自分の願望。
噛み合う対もなければ、もちろん動力の伝達さえ不可能。
皆無。
しかしそれすら思考の外 ――――。
そうやってずらずらと文字を並べ立てていた、そのときだった。
静寂の中、突然隣の部屋から聞こえてきたのは、ガチャッというドアの開く音。
その音に、直樹は飛び起きる。
……なるほど。
今日も来るか…!!
どこの人間かはっきりさせたろやないか。
直樹はソファから立ち上がると、足音を忍ばせ、物音のした部屋のドアを少しだけ開けてそっと中を覗きこんだ。
部屋の中は暗い。
窓ガラスから差し込む街灯の光が、デスクと棚の間でごそごそと動く人影を映し出す。
直樹はサッと自分の周りに目を走らせるが、武器になるようなものは何一つなかった。
…仕方ない。
丸腰のまま更にドアを開こうと体勢を入れ替えた、その時。
不用意にも、入口のすぐ隣にあった本棚に爪先が当たり、カツンと音を立てた。
その瞬間、人影が勢い良くこちらを振り返る。
髪の動き、長さから言って、それは明らかに、
―――― 女!?
「誰だ!!」
想定とは違う相手に、直樹は咄嗟に声を上げてしまった。
それに対して、人影はびっくりしたように応えを返す。
「あ、すみません。勝手に入ってしまって。誰もいないだろうと思って…。忘れ物を取って来いって言われたんで、鍵をお借りして来ました」
例のヤツらだろうと思っていたが、間違いなくそれは女性の声。
が、乗り込んで来る人間が男とは限らない。
直樹は相手の武器を警戒し、ドアを壁にした状態で再度問いかけた。
「答えになってねぇ。お前が誰だって聞いてんだ」
「あ、久保といいます。こちらでお世話になっている、○○○○○で働いてます、久保です」
「――――ッ!!!」
息が詰まった。
思いがけず、
どうして、
邂逅、
予期せぬ、
そんな分析の言葉は、空白の頭を過ぎりもしない。
「……ッ」
引っ張られるように、咄嗟に感情だけで足を踏み出しそうになる。
今自分が彼女の前に顔を出したらどうなるのかなど、考えるでもなくそんな想像に駆られる。
ふらりと、掴んだドアノブに力を込めたとき、しかし冷静な頭は打ちのめされたように自分を思い出した。
……這いずった沈黙は短く、不審ではなかった筈。
「―――― じゃあ、早く済ませて帰りなさい」
……君は、俺の声なんか覚えてないだろうね。
「あのぅ、オーナー(松田)から上着を取ってくるように言われたんです。どこに置いてあるのか分かんなくって」
……そうか。
イサムはこの街、出る気になったんやな。
……それがいい。
「そこのポールハンガーに掛かってる、深い緑のだよ」
東京弁に戻しておこう。
―――― この際、他に何か話すことはないか!?
……久保さん、……俺はね、
「……昨夜も遅かったんだろ?早く帰りなさい」
そして次の紀子の返事で、2人の会話は終わった。
「はい、ありがとうございます。黙って入って申し訳ありません」
その時点で、直樹はドアを完全に閉め、紀子とはドア越しに話をしていた。
遮りの向こうで、ハンガーのぶつかり合うカラカラという音。
自分が静まれば静まるほど、紀子の出す物音が耳に響いてくる。
それから間もなく、バタンというドアの閉まる音と、カチャリという施錠の音が聞こえてきた。
そこにはもう、紀子の姿はない。
……シビアで、とてもつらい。
俺は人のマネがうまくできないと思い悩んでいたが、上手にやってるやないか。
ゲスく、クズで、弱ったらしく。
彼女ともこれで本当の最後だと思ったら、……何だか安心したよ。
久保さん、後のことはコッチの人間に任せるから、君は早く今の仕事を辞めてください。
俺はこの街を出るから、だから君も安心していい。
もう、ちょっかいは出さない。
直樹はソファに腰を掛けながら、つらつらと反省を込めている。
……もう一仕事あるな。
久保さんを袋詰めにさせるワケにはいかねぇ。
膝の上に肘をつき、口元で両手を組んだ体勢で、直樹はじっと天井を睨む。
それくらい俺1人でやらねぇと。
それでなくても、死んじまった方がマシな人生。
反省もクソもない。
これくらい、1人でやらねぇと。
直樹は1人、ただじっと朝日が昇るのを待っている。
―――― 店が荒らされ、営業できる状態ではなく、
傍にいた人間を、突き放した。
そんな状態なのだが少し落ち着いた、そんな気でいる。
まだまだやらなければいけないことがたくさんあるのだが。
穂積に連絡すべきなんだろう。
そして確認をするべきなんだ。
俺がまたそっちに帰っても、これまでのように俺を甘やかしてくれるのかと、そう言うべきなんだろう。
今となっては何を熱望していたのかすら、何を見ていたのかすら。
あれほど金に執着し、ある程度自分の所で堰き止められているのに、俺は相変わらず根無し草のままプカプカと、相変わらずの様である。
自分に我、個性、カラーというものがないのは、人に言われるまでもなく重々承知している。
だから何だかんだと言いながら、他人に執着するんだよ。
自分が望んだのは、淀みなく信じられる者。
それに到着した頃には、不退転している様。
空っぽの俺にいくら容量が余っているといっても、自分のその容量にかっちりと嵌まるものなどこの世にはなく、いくらかスペースが余ってしまう。
そしてその残りのスペースを持て余し、ここに入る何かがないかと模索し、厚かましく、相手が拒絶反応していることも知らず、そこに嵌め込もうとする。
いい加減学習すべきだろう。
不即不離ならいざ知らず、3つも4つも。
何もしなくて良かったあの頃を懐かしんだ。
今現在こうなっている自分を知りながら、あの頃を懐かしみ、戻りたいとまで思っている。
カスだな。
今の自分の立場を知りながら、こう思っている段階でカスである。
俺に許されるわけがないのに。
許す人など、いる筈がないのに。
俺はあの頃を、懐かしんでしまっている。 ――――
店が営業できない状態で、今日も過ごすことになった。
朝9時を回った頃、修理の業者が店にやってきた。
その後の応対を他の人間に任せ、直樹は被害に遭っていないその他の店を回る。
店が壊れる分には修理で済むが、これ以上人が傷付くというのは……。
……今更厚かましいか。
自分のものとはいえ初めて顔を出す店もあり、この日会った従業員の多くは直樹の顔や名前などを知らなかった。
しかしもうそれに対して何かを思うことはない。
回った店が全て、昨日のようなことにはなっていないと知り、安心する。
そして全て回り終えた頃にはすでに辺りは暗く、日が沈みかけていた。
直樹はもう明日には穂積の元に帰ろうと考えている。
この日姿を見せなかった松田のことに思考を向け、
それから、あとは名義の変更だけか、と完全にこの地から手を引こうと考えた。
最後に挨拶といわないまでもその辺の説明をしようと、直樹は今度は事務所へと向かう。
事務所前の、いつもの駐車場に車を停めて降り、
久保さんのことは誰に任せようか。
……伊藤にするか。
そうして車から離れ歩き出した時、事務所のドアが大きく開いた。
中から飛び出してきたのは、今まさに頭を過ぎって行った伊藤。
「秋月さん!!」
その切羽詰った表情を見て、また何か起こったのかと思ったが、この時直樹はもう肩の力がすっかり抜けてしまっていた。
「秋月さん!書類関係って、どっかに持ち出しました!?」
「……書類?何の?」
問いかけると伊藤は直樹に近づき、小声で言った。
「ないんですよ!顧客のリストから、店の女たちのリストから、黒のリストまで!全部ないんですわ」
「あ、そう」
直樹に力は入らない。
「『あ、そう』じゃないですよ!どうすんですか!?同業者のところに回ったらイテコマされますよ!警察にでも流れたらどうすんですか!!」
直樹は足を早めることもなく、無言で事務所の中へ入って行く。
その後を、伊藤が大声を上げながら追いかける。
真っ直ぐにソファへと向かいそこへ腰掛けながら、直樹は何でもないことのように返事をした。
「ま、パクられるほどの疚しいことはしてへんけどな。まぁ限りなくクロに近い……そん時ゃ、俺がパクられたら済む話や。お前らには何も起こらん」
「イヤ、そうはいかないでしょう。ワシらはもちろん、店の子らも皆しょっぴかれますぜ、こりゃ。ていうか、ポリに渡るんならまだエエ方ですわ。同業者に回ってもうたら、どがいにするんですか!黒の客やら女やらはもちろん引っこ抜かれるし、松田は消されてしまうと違うんですか、コレ!」
松田の名前が出たところで、直樹はやっと反応を見せる。
「何で松田が?アイツはもうこの街にはおらんしな。何か言うてくるんやったら、俺にやろ」
それに対して、伊藤は怒りを隠さなかった。
「何を寝惚けとるんじゃアンタ!!あの辺の手筈は全部松田に!松田にやらせとったでしょうが!!
秋月さん、アンタちょっとヤ○ザの世界ナメとるんじゃないですか!あのリスト盗まれたんだとしたら、証拠消すために絶対松田は消されますぜ!!」
「………」
「暢気にしとる場合と違うんですぜ、コレ!!アンタ1人、火の粉被るだけじゃ済まん。ワシもポリにパクられるなんざゴメンじゃ!!
寝惚けるのもエエ加減にしんさい!」
そこまで言われ、事の重大さにようやく気づく。
気づくというより、思い出した。
女たちのリストには、他組織に知られてはいけないことばかりが記載されている。
風俗嬢の勤務時間など、風営法に基づいた場合違反していることが多々あり、警察にバレたりすると店潰しが始まったりする。
叩けばホコリの出る組織には違いないのだ。
同業者に回れば、間違いなくリスクの少ない稼ぎの良い女たちは引き抜かれる。
リストにはウチで働く女たちがどういう経緯で店に入り、いくら稼いでいるかも記されているのだから。
彼女たちは1円でも稼ぎの高い方へ行きたがるもの。
この時、組織力が小のものが大のものに引き抜かれても、何も言えない。
理由は明白。
ケンカしても負けるから。
ウチはこの場合、小である。
そして、この世界で黒と呼ばれる債務者リスト。
この黒たちは、金のためならある程度何でもする。
借金返済のためにまた借金をする、そんな生活が火の車になっている人たち。
彼らのリストが他組織に回った場合、甘い話で引っこ抜かれて、こちらの返済を済ませることなく姿を消す。
行く末は船に乗って二度と日本へ帰って来なかったり、闇医者の人身売買の裏ルートに乗ったり、新薬の実験に使われたり……
そういう末路を辿る。
それは決して他人事ではない話。
極めつけはそれらのリストに松田の名前が元締めとして、責任者として載っていること。
直樹は松田により多くの給料を支払うため、そしてそれに対して他から文句を出さないために彼を責任者にしていた。
そして形式上とはいえ、それらのリストに松田の名前を記していたのだ。
……盗んだヤツらが、実際には俺らにバックがいないということを知ったとしたら、証拠隠滅のためにまず狙うのが、松田。
全部俺の責任だと名乗り出たところで、証拠を押さえられている限り、実は俺でしたと言っても通用するはずがない。
そしてそのリストには間違いなく、紀子の名前も記されている。
コイツの言う通りだ。
まだ何も終わってない。
明日向こうに帰ろう?
冗談じゃない!
直樹は突然正気に返ったように、ソファから立ち上がった。
「なぁお前、昨日袋詰めにされてここへ捨てられた女のこと知っとるか」
「ああ、聞いてますよ」
「あの女、どういう経緯でウチへ来た?」
「今朝調べたところ、○○○からウチに来てるってのが分かりました
○○○というのは、前田の店。
誰かが引き抜いたんか。
「……あの女、病院か」
「ええ、○○○総合病院におるいうて聞いてますよ」
「分かった」
直樹は事務所を出ながら、伊藤に告げる。
「リストの件な、何人人使うても構わん。報酬もはずむ言うてな。お前はお前で人集めて必ず見つけ出せ。俺は心当たりを探すから」
「そりゃあ何ぼ使うてもエエっちゅーことですか」
「ああ、かめへん」
直樹はドアを閉め、勇んで外へと出て行く。
恐らくリストを盗んだのは前田だろう。
ウチの人間の前で前田の名前は出せない。
久保さんのところへ火の粉が飛んで行く。
今回の件が前田の仕業じゃないにしても、この世界証拠なんかいらねぇんだろ?
アイツとの件を潰せさえすれば、解決できれば、久保さんには何も起こらない。
そして久保さんを引き抜いた松田にも、何も起こらない。
直樹は再び車に乗り込み、夜道を走る。
恐らく、伊藤の言うようにはならない。
アイツらは知らねぇんだ。
俺の後ろに穂積がいるということを。
だが、あながち間違っちゃいない。
他の組事務所の者たちが穂積の名前にビビッたところで、実際のところは俺と穂積は関係ないのだから。
現に、もうすでに俺に対してイヤガラセをしてきているヤツがいるじゃないか。
ソイツらはきっと、俺と穂積の関係を知っている。
ウチの者全てが火の粉を被るということはないだろうが、確かにイサムがマズイ。
アイツはちゃんと逃げたんだろうか。
……消されるのは、俺1人で十分なんだよ。
俺に覚悟があろうがなかろうが、それで十分なんだよ。
車を走らせながら、先へ進めば進むほど、事の深刻さが身に染み渡る。
ほどなくして着いたその場所は、昨夜袋詰めにされ、事務所に送られてきた女が入院している病院。
薄暗いオレンジの光が灯った中央玄関は、開いているのか閉まっているのか分からない。
直樹はすぐ隣にある時間外出入口から中に入り、まずは1階の受付に向かった。
そこで事務の女性に彼女のことを問い合わせると、面会謝絶の状態だという応え。
しかし直樹には時間がない。
病室には行かないという約束をして彼女の部屋番号を聞き出すと、直樹はそのままズカズカと院内を歩き、その病室を目指す。
今回の件に関しては、ちゃんとした証拠が欲しかった。
彼女が誰にやられたのか。
それが、自分のした紀子の引き抜きに対する報復であれば、もう覚悟は決まっている。
壁に記されたナンバーを辿って見つけた病室は、ちょうどナースステーションからは見えない位置にあった。
ドアには、面会謝絶のプレート。
しかし直樹は構わず引き戸を開ける。
部屋の中は真っ暗で、そっとベッドの傍に寄ると廊下から漏れた細い光で彼女の顔が見えた。
包帯だらけの彼女。
居た堪れない、その姿。
直樹はまず、申し訳ないと頭を下げる。
包帯の隙間から唯一覗いている左目は腫れ上がり、果たして彼女が起きているのか眠っているのか分からないほど。
話をするのは無理か、そう思いつつも直樹は彼女に問うた。
「アンタをこんな目に遭わせたんは、前田か?」
「………」
「仕返しをな、……ん―……お釣り返さなアカンねん。前田でエエか?」
「………」
自分の覚悟のため、確実なものを拾い上げるためここに来たが、彼女からの返事は得られそうになかった。
直樹は傍らの小さな椅子に腰を掛け、彼女の顔をじっと見つめる。
「俺のエゴ、怠慢でな、今回アンタはこんな目に遭うたんや」
声量を抑え、話を続けた。
「俺が昔な、付き合ってた女性を、前田のトコから引き抜いてん。自分の懐に置いときたくてな。心配でな。……役に立ちたくてな。
アンタも前田のトコにおったんよな。
犯人探しはしとうないんよ。ウチのモンがアンタを引き抜いたっていうのをな、誰がやったか調べとうないんや。引き抜きを最初にやったんは、俺やしな。
本当に申し訳ないな。俺のせいでこんなことになって。
その俺が引き抜きした彼女にも、俺は嫌われてるのにな。ムチャしてしもうて……」
俯きながらそう話した後、顔を上げて彼女の顔を見ると、彼女の左目に廊下から漏れる蛍光灯の灯りが反射していることに気づいた。
彼女は起きている。
「……仕返しっていうワケにはいかんと思うねん。俺はヘボイから。だけど、これで終わりにせんとイカンのや。他のトコと揉めてる場合じゃないからな。
アンタをこんなにしたんは、前田でエエんか」
そこで彼女は、動かないだろう体を無理やり引き攣らせ、こくりと一つ肯いた。
直樹はその返事を見て、立ち上がる。
そうして内ポケットから財布を取り出し、彼女の枕元に持っている札束を全て置いた。
「ありがとう。それと、本当に申し訳ないです。ごめんなさい」
直樹はそう言うと、一礼して病室を出た。
……そうやったな。
ありがとう と ごめん
これを忘れたらアカンのやったな。
今回するべきは、今後を見据えない覚悟。
俺一つで事が済めば、用意できるものは限られているが、……俺一つで……
直樹はそのまま病院を後にした。
俺の所業で人がこんな目に遭うてるのに、俺は左足にギプスがはまっているだけ。
見事なまでの自己愛。
俺はこのままで済んだらダメだろう。
直樹は車に乗り込む前に、病院の前の道路に面した公衆電話へと向かった。
手帳を取り出し、記された番号を見ながら、次々と電話を掛けていく。
直樹が話をしたかったのは、穂積。
各地にある穂積の事務所の番号を押すが、松田が言ったようにまったく繋がらない。
自分の口座、店云々についてはもちろん、紀子のことを穂積に話しておきたかった。
しかし穂積は捕まらない。
この後自分がこうするであろう、こうなるであろう、それらを考えたとき、この辺りのことは済ませておくべきなのだが。
電話が繋がらない穂積を思い、一つ溜息を吐いてボックスから出る。
まぁ、何とかなるか。
そう思い顔を上げた瞬間、直樹は気づいた。
暗闇の中で蠢く、いくつかの人の気配。
すぐ横からスッと現れた人影に振り返るが、もうすでに遅い。
ガードレールを跨いで、何人かが歩道へ入ってくる。
ほぼ分かりきった誰何を思う前に、左脇腹に押し当てられた硬い感触がアバラ骨をゴリゴリと痛めつける。
……不思議と慌てはしなかった。
「何や。何の用事や?」
タオルに包まれた銃口を押し付けるその男は、黒のズボンに黒のジャケットを羽織り、胸元を大きく開けた青いシャツのいでたち。
首にはシルバーのネックレス。
顔がよく見えない。
「動いたらいけんでー。アンタが動いたら、一発で死んでもらわんといけんようになる。そがいなことしたら、ゼニ儲けにならんのんじゃ。動いたらいけんでー。手を頭の後ろに回しんさい」
直樹は暗いその顔をじっと見つめながら、言われた通り両手を後頭部で組んだ。
何人いる?
ま、この際何人でも俺には関係ねぇか。
昨夜、最後に久保さんと話せて良かった。
内容はどうあれ、話せたのが嬉しかった。
……もういい。
そう思ったのと同時に、ガキンッという音が自分の太股裏から聞こえてきた。
膝から先が千切れ飛ぶほどの勢いで、右足が宙を飛ぶ。
そして間髪入れず、今度は左肩に同じような衝撃が襲い掛かる。
空中で一回転するようにして、直樹の体はアスファルトに叩き付けられた。
何かを思う暇もない。
仰向けで倒れた体に、降り注ぐ暴力。
胸、頭、腹などに、何度も何度も揺るぎのない衝撃。
骨と肉を砕く鈍い音と、それに混じる当たりの外れた甲高い音。
どのくらいの時間繰り返されたのか、やがて男たちの手が止まった。
割れた頭から流れ出す血液の生温かい筋を感じながら、直樹は歩道に大の字に転がったまま大きく息を吐く。
「フゥ――――……ッイタタタタタッ…… イッター……ッ」
起き上がろうにも、自力で何とかなるレベルではい。
「右足までイッてしもうたやないか…」
仰向けで文句を言った直樹の視界に入ってきたのは、4人の影。
その手にはそれぞれバットのようなものが握られている。
「何べんも言うが、死んでもろうたら困るんで?せやから言うて逃げられても困るけぇのぅ。半殺しの状態でついて来てや」
自分の頭の上に向かって屈みこんで喋るその男に、直樹は声を掛けた。
「お前、前田か」
「……ほうよね。よう知っとるじゃん」
「あっそ。手間ァ省けて良かったよ」
「経緯は分かっとるよのぅ、アンタ。アンタがウチの人間引き抜きなんかせなんだらのぅ。知っとるじゃろ、こがいなことしたらどういう具合になるか、のぅ?」
「……ああ」
動かない重い体を男たちに抱え起こされ、その場で後ろ手に縛られ、目隠しをされて車に押し込められる。
すぐに走り出した車の中で、直樹は不思議なほどに落ち着いている自分を知った。
鼓動の数は変わってへんな。
覚悟は完璧。
やがて彼らは雑談をし始める。
「オヤッさん、コイツは何ぼくらいで売れるんですか?」
「さあのぅ?いくら用意するかのぅ」
売る……?
俺をか。
「ここのオヤジはようけぇ金持っとるから、うーん…そうじゃのぅ。まぁ先にケンカ売ってきたんはコイツの方なんじゃけぇ、ゼニで手打ちになるんなら向こうもバンバンザイじゃろうけぇのぅ」
……俺んトコの、また穂積の登場か。
アイツが俺を買うワケねぇだろ。
ここで直樹は会話に割って入った。
「おい、どういう計画立てとるんか知らんけど、穂積のこと言うとるんやったら、俺の買取なんかせぇへんぞ。
お前らが俺に文句あるんは、俺も心当たりあるからな。俺をどないしようが構わへんが、ちゃんとそれで終わりにしてくれよ」
前田の声は助手席辺りから聞こえてくる。
「ハァ?買い取らん?そんなワケなかろうが。お前、あちこちでワシャぁ穂積とは関係ない言うとるみたいじゃのぅ。ほいじゃが、そがいなモン世間は認めんのんよ。こっちゃぁちゃんと聞いとるんで。原さんトコへゼニ払うとるじゃろうが。お前んトコのオヤジがの。
ウチにもそれなりのことはしてもらわんと、ワシら世間に顔向けできんのじゃ。
まぁアンタがエエ感じの人質よ。どがいになるかは今晩中に分かるで」
「………」
どうやら本当に、世間は認めてくれないようだ。
だが今回は……俺側の考えが違う。
あれほど拘った自分の『生きる』という形のものに、無頓着になっている。
……そうか。
前回助けてもろうたことを、オッサンにお礼言うの忘れとったな。
しもうたな……。
額辺りから流れる血が顔面を伝い、口の中に入ってくる感覚。
この鉄の味が、口の中を切っているからなのか額の血なのか分かりはしないが、直樹は今、これもまた最後だろうと考えていた。
そのうち、それほどの時間をかけることなく車は停まり、ドアが開く音がした。
彼らの靴が弾き出す音が、カーン、カーンと反響している。
どうやら地下にいる様子。
「おい、早よ降りて来い」
そう言われ、降りようとするが体に力が入らず、車から零れ落ちるように頬で地面に着地した。
お誂え向きだと思う。
俺の最期。
あの世なるものを信じたことはないが……
直樹が思い出すのは、タケシの顔。
自分もそこに行けるんじゃないかと、密かに期待する。
恐怖に慄く代わりに、そんなことを夢見るように考えていた。
そのまま倒れ伏し、動かない直樹の体を、男達が抱え上げる。
「オヤッさん、コイツ、どこへ縛っときます?」
「部屋を血で汚されたらかなわんけぇのぅ、いつもの場所じゃ」
直樹が連行されたそこは、人の匂いのする部屋ではなく、無機質な冷気の漂う場所だった。
彼らは直樹を椅子に座らせると、目隠しを取ることなくそこに縛り付ける。
一体どんな建物に入っているのか分からないが、肌を覆う冷んやりとした少し湿気のあるこの空気。
地下にある倉庫にでも連れて来られたかと、直樹は推測する。
周囲でいくつか人の動く気配は感じられるが、声はなく物音しかしない。
こんな状況だというのに、緊張感のない不思議な自分の体を確認するように、直樹から話しかけてみた。
「なぁ、前田さんよぅ。アンタの望む通り、俺はここで死んだるからよぅ、ウチのモンには手ェ出さんといてくれるか。もうアンタんトコに迷惑掛けることはないと思うし」
その声の響き具合から、それほどだだっ広い部屋にいるとは思えなかった。
直樹の言葉に、足音が近づいてくる。
それが止んだ途端、左頬にパーンッと一発張り手を食らった。
「アンタ、何を言うとるんなら。アンタに死んでもろうても1円にもならんじゃろうが。もうすぐ、えっと金が入るんじゃ。邪魔せんとってくれるか」
「だから、穂積はもう俺のためにゼニは出さんって」
前回のことを踏まえ、二度目はない。
俺はアレ以後、穂積と話をできていない。
「こっちゃぁのぅ、お前んトコのせいで、原さんトコよりも被害が大きゅうなっとるんじゃ。これをゼニに換えんでヤ○ザじゃ言うとれんじゃろ」
「……じゃあ穂積やのうて俺から取りゃエエやろ。金なら俺んトコにもあるぞ」
それを聞き、前田は声を張り上げた。
「お前、何を言うとるんなら!ワシャぁお前を攫うとるんぞ!?こっちゃぁのぅ、お前んトコのオヤジに脅しをかけとるんじゃ。お前を攫うた段階でのぅ。そこで穂積にグスッとも言わせんのんが狙いなんよね!
この世界、ハクが付いて何ぼじゃろが。お前んトコのオヤジを負かした上でゼニを取り上げる。こうせんと意味がないじゃろうが!!」
そして、直樹の腹を蹴り上げる。
ドカッという音と共に、勢いで椅子ごと後ろに引っ繰り返った。
……また違うプライドやメンツを耳にした。
俺にとって、無駄なサガ。
ボンボンとし、夏にはそこそこ涼しく、冬には暖かい所で育った、俺のサガ。
飛び出した場所で、俺1人で、俺1人が、俺の力でと騒いだところで、必ず人を巻き込む。
俺の無駄なサガ。
同じゼニでも、俺の1万円と穂積の1万円では価値が違うらしい。
そんなことすら知らなかった。
その辺全部をひっくるめた、アホで無駄でゴミ同然の、俺のサガ。
「そこで寝っ転がって大人しゅう待っとれ!」
この前田の怒声を最後に、誰も話す者はいなくなった。
頬に当たる冷たい床の感触。
こんな状況になっても殺してさえもらえない、そんな自分に更に嫌気が差し、この世に存在する自分に一片の価値も見出せなくなる。
このまま引き摺るように、また生きるのか。
そうやって、自分を侮辱する。




