茫洋 1
―――― 生きてしまったよ。
例えば俺がそう表したとき、お前ならどう答える?
ミクロな俺は「冗談じゃない」と返事をしてしまうかもしれない。
「あ、そう」
お前はそう返事をするか?
マクロとミクロ。
後者の俺は想像する部分で、そこまでしか至らないんだ。
……拳銃を持って、片桐のところへ行くつもりだったんか?
今となっては真相も分からない。
知ろうとも思わない。
ただ一つ、間違いのないことは、お前が死んでしまったということ。
一度来てみたいと思っていた、この地。
できればお前と、この地で生活をしたいと思っていた。
まさかこういう形で訪れ、観光も自由な食事もできないなんてな。
頭を刈られて、後頭部に大きな傷があることを知ったよ。
あの場所は、何もしなければ褒められる、そんな場所だった。
無事故証なるものがあり、何もしなければそれを受け取る形になる。
そしてそれを繰り返せば、階級のようなものが発生し、身にこびり付く。
あんなものはどっちでも良かったが、俺の素行は良かったらしい。
決して幸いとは言わないが、俺は正式な組員でなかったということ。
あの銃は俺のものではなかったことなどを含め、思ったより短い刑期だった。
だがこんな所、居ても何の意味もない。
学ぶことなんか一つもなかった。
ただただ昏々と時間が流れて行き、陽気と雰囲気のみで、そうか、正月になったのかと知るような日々とでも言おうか。
俺の癖だった、この記すという行為も、気ままに思い通りには行かない。
何年ぶりだ?と思うと同時に、漢字を忘れている。字が下手になった。
紙とペン、それと以前俺が持っていたであろう権利が備わってさえいれば、忘れもしなかっただろうし、下手にもならなかっただろうし。
……敢えて言うなら、忘れてしまいたいことはたくさんあるというのに。
純粋なものと不純なもの。
これを、何を使ったっていい。掻き混ぜると、いったんは濁るのだろう。
時間の経過と共にそれらはまた分かれ、2層になる。
そんな、綺麗に真っ二つになったものにジェラシーを感じないか。
石を投げてみたくはないか。
底に沈殿しているのは、恐らく不純。
石を投げることでその不純が舞い上がり、散々遊んだ後、また棒状のもので掻き混ぜてやる。
不純が舞い上がり、純粋を濁らせて行く。
その様を見て、思い出し笑いのようなものを口に含むんだ。
……お願いだから、お前だけは知っていてくれ。
あの時俺は自分に訊いた。
何か困ることはあるか。
障害は?
その自問に俺は「そんなものはない」と自答した。
そして、お前の隣で眠る俺を鮮明に想像したんだ。
なのに、生きているんだよ ……俺は。
何もせずに拘束され、果たすことなく刑期の終了を待った。
お前にだけは話しておかなきゃならないんだ。
「何故生きた?」の自問に俺は、「怖いから」と自答するんだ。
本当の悔しいを知る前に俺は、俺と自答に幻滅した。
お前に言い訳もしようと思う。
この間、俺は何度もアイツの夢を見た。
桜の花びらの舞う中、アイツの顔は屈託のない笑顔だ。
俺はその笑顔に銃を押し付ける。
……だけどな、発砲できない。
しないのではなく、できないんだ。
ここまで話すと間違いなく、お前も俺に幻滅しただろう。
生きている俺に
そう感じている俺に
久しぶりにこうやって記しているが、お前がこれを読むことはないだろう。
読んでいるのは俺だけ。
だからわざわざ知っておいてくれと、言い訳でしかないんだよ。
悪いが、もう少し続けさせてもらうよ。
中にいると、恐らく外にいるより情報が早い。
アイツはあの後、すぐにこの世を去ったんだ。
お前に切欠を与えた梶さんだ。
司法の裁きを受けることなく、アイツはこの世から消えた。
梶さんが、消した。
お前がこの世を去った時生まれた罪は、いろんな所を回り回って今、梶さんがどこかでその罰を受けている。
俺じゃないんだ。
この期に及んだ俺がこうやって書いてるんだから、間違いない。
俺が受けた罰は、ついででしかなかったよ。
今後、俺はどうすればいい?
お前はどう思う?
親からは確実な絶縁を受けたぞ。
俺にはもう、手放してしまうものがない。
売るものがない。
買う力もない。
今のこの俺に「じゃあ心を売れるかい?」と言う奴が現われたら、「売る心がありません」と答えるしかない。
……タケシ
俺はもう、『特別』になってしまった。
もう、戻れないようだ ――――
浮き足立っているような、そんな気分でいた。
久しぶりの外の世界というのももちろんなのだが、ここに向かおうという目標がなく、ただふわふわとしているような、そんな足取りと気持ち。
月々何百円という給料で貯めたお金は、この地に来るまでに大分減ってしまっていた。
ここに来たのは、ただ何となく。
以前、自分が所有していた私物を回収するために、今はただ何となくこの地にいる。
『直樹、元気か?病気とかしてへんやろな?
俺の方は、まぁちょっと変わったことがあるって言えばあるし、そんなん人に話さなアカンようなことかって言われたらそうでもないし。
まぁ、そんな感じや。
美奈子の方は無事に手術が済んだ。
もう一回、軽めの手術っていうか、何やそんなんがあるらしいけど、それはほんまに検査みたいなもんで、大したもんやないらしい。
お前のお蔭で、アイツも順調やぞ。』
直樹はこの手紙に記された住所へと向かっていた。
パクのおばさんに当たる人、その人が自分の荷物を預かってくれているらしい。
その家を訪れると、年の頃50過ぎくらいの女性が出迎えてくれた。
彼女は直樹を家の中へと招き入れ、何かと励ますような言葉を語りかけてくれるが、初対面の人の言葉ということもあってか、それほど直樹の気持ちには触れることはない。
直樹はその言葉に声を出すわけでもなく、ただ頷く。
そして目の前に出された冷たいお茶を一気に飲み干し、荷物を受け取ると逃げるようにその家を後にした。
『手紙なんてもんはチビさんの頃に書いた年賀状以来やから、ヘタクソやけど勘弁してくれよ。
お前の荷物やけどな、俺のおばちゃんのところへ預けとる。っていうのもな、今度俺ら、オヤジの国へ行くことになったんや。
まぁ難しいことはアレなんやけどな、会社が生きて行けんでな。
荷物は俺が預かっとくのがエエんやろうけど。
おばちゃんの住所は下へ書いとくから。』
今、季節は夏。
受け取ったカバンを開けると、この時期には必要のない厚手のジャンパーやスーツなどが入っていた。
そして底の方を手で弄ると、キーホルダーとタイガーマスク。
……これについて今、それほど何かを感じることはない。
それから更にその奥に、あの時渡した通帳が2冊、隠れるように入っていた。
あの時自分が願った通り、貯めてあったお金は引き出され、なくなっている。
数字を辿ると、最後に記帳があったのは引き出された日付から約2年後。
パクの名義で12万円振り込まれていた。
カバンの口を閉め、焼け付いた舗装道路の照り返しに目を細めながら、直樹はただ歩く。
……セミの声がうるさい。
中で聞く声と外で聞く声では、また違っているように思えた。
『直樹が今どんな生活をしてるかって考えると、多分俺の想像を絶するもんなんやろうな。
説教臭うなったらアカンから、ちょろっとだけ書いとくよ。
お前が正しいって思うてもな、それはほんまに正しいこととは限らへん。せやけどな、俺は多分文句しか言うてへんと思うねん。決めるのはお前やからな。
お前が頭がエエのはよう知っとるから。
俺はお前の行動を最終的に決めることなんかできへん。
ただ文句を言うだけや。だから言えることがあんねん。
必要ならちゃんと「ゴメン」って言えよ。
何か感じたら「ありがとう」言えよ。
この2つ、間違わんとできて人はようやく普通やねん。
何や、回りくどいかもしれんけど、お前んトコの父ちゃん、お前がほんまに必要とすれば応えてくれるような気がすんねん。
何もお前に、お父ちゃんに謝罪しろ言うてんちゃうねん。
せやけど、生きるために真実と嘘を使い分けていかなアカン。
俺は、お前が父ちゃんに謝らなアカンことがあるなんて思うてへんぞ。
ただ、非力でショボイもんやが、俺は俺でお前のことを考えよる。』
直樹はついでを装うわけでもなく、以前パクが住んでいた家のあった場所へ来ていた。
そこにはパクのお母さんがやっていた店もなく、自分が足繁く通っていたあの家もない。
辺り一面すっかり姿を変え、アスファルトが敷き詰められた駐車場になっていた。
パクが勤めていたパクのお父さんの工場も、小奇麗な白塗りのビルへと様変わりしている。
……よく聞く話だが、あの期間は浦島太郎を育てる期間に思える。
何か感想を持つわけでもなく、その白いビルをただ見上げてみた。
『それと、俺から言うこっちゃないんやろうけど、お前の母さんが亡くなったらしい。
今回書いた手紙は、これをお前に伝えときたくてな。まぁ、俺がせんでもエエんやろうけどな。
人が亡くなるってのは大きなことやな。近ければ、近いほど。
ご冥福をお祈りします、って言えばエエんよな?
ごめんな、アホで。こういうきちっとした挨拶みたいなもんがよう分からへんねん。』
……そんなもの……どれだけ遠く、どれだけ近くのことだったのか。
永くて短くて、永遠で一瞬。
全てを経た今、ここに立っているのは、空。
そして、埃。
『それとな、まぁついでにっちゅーか書いとくけど、俺なぁ、美奈子と結婚した。
今更アイツと結婚ちゅーのはな、ちょっとこっ恥ずかしかったんやが、1人にするわけにいかんやろ。
アイツのことは俺が一生かけて、不自由のないように何とかしよう思うてる。
まぁでも、何やかんやで面倒見てもらってるのは俺のような気もするんやけどな。
……直樹。
俺らはもうその国に住んでないけど、生きとったらまた会えるよ。
俺はそう思うてる。
お前が帰ってくるのを待つべきなのは分かっとるんやけど、状況がな…。ごめんな。
言うだけやなくて本心で、お前の健康と活躍を心から願ってる。
大林健』
今の直樹にとって、彼らと過ごしたこの地にもう用はない。
パクからもらったお金を使い、ここから去ることにした。
先を見据え、割算を繰り返し、急ぐことでもないと判断してできるだけ安値の移動方法を取る。
知っていたことではあった。
分かってはいたのだが、目の前に来てようやく目の当たりにしたとでも言おうか。
今、俺には住所がない。
今の自分の立場で、部屋などを借りられるかどうか。
そう思い、試しに不動産屋に聞いてみたのだが、今の自分ではやはり部屋を借りられないということを知り、結果住所のない者に職を与えるようなお気楽な会社も存在しないと思われた。
生きるに当たって、戸籍やら源泉徴収やら住民票やら、自分のそういうものを今まで詳しく見つめたことがなかった。
こんな人間であるというのに、気にしたこともなかった。
考えてみると、俺は1人で何かをやってのけたことなんか一度もなかったんじゃないか。
皆そうなのか?
でも最低限は自分の力で何とかするもんだろう。
俺は手続きの仕方は知っていても、実際に自分で部屋を借りたことすらない。
このハードル、俺の運動神経で何とかなるものなのか?
更に言えば、この先俺の腕力などでは到底破壊できないような屈強な囲いが待ち構えているだろうことを思うと、
……嫌になっていた。
あの期間、たくさん読んだ本の中で敢えて選んで読んでいたものは、命について書かれた書。
命について書かれている内容であるのに、何故か漠然としてではなく直球で『死』というものが自分の体に覆い被さってくる。
『命』について、『生きる』について書かれているにも関わらず。
何十年後か、はたまた明日なのか。
言ってしまえば、今日なのか。
その恐怖に向かい合う腕力も、運動神経も、勇気もない俺だから、
……今日も、生きている。
忘れるために、生きている。
そうまで考え、口をついて出た言葉が『嫌になっていた』
俺は一体何をしたいのだろう。
……きっと、何もしたくないのだろう。
長時間の移動を繰り返して到着したのは、以前直樹が父・母・弟と暮らしていた街。
この地に来たからといって、何かができるという確信も考えもなかった。
行く場所がないから、つい。
駅を出て、とある方角へ向かって歩く。
……行く場所がないから、つい。
何を思うわけでもない足取りは、しかしまるで直樹の進む先々に粘着質の何かが敷き詰められているのではないかと思えるほど、重い。
やがて着いたのは、以前に自分も住んでいたあの家の前。
外観は変わっていない。
ガレージも変わらない。
ただ外から見ただけでは、この家に今誰が住んでいるのかまでは分からない。
知らないのだから当然だとは自分の中で処理できず、以前自分の部屋であった窓を見上げた。
その眼差しは、自分の中でどの角度から見ても物乞いのように思えた。
背筋だけは伸ばしておけとピンと胸を張ってみるが、自分が送る視線の形というのは、紛れもなく乞う形。
一体今、何時頃なんだろう。
時計がない。
朝、あの地を出て、ここに着いたのが夜……。
もう寝る時間なのか。
部屋の灯りが点いて、消えて、……また点いて。
その回数と同じように、何度も思い出される母の姿。
自分の状況を考慮する前に現われるその姿に一つ、また一つと噛み締めるものが滲み出てくる。
目前の点滅と脳裏の面影、その繰り返される様を数え切れぬほど確認したから、ここに来てもう何時間も経ってしまっているんだろう。
直樹はただ当然だと、今から自分のする行為に対し、感想を洩らす。
そして、以前自分が住んでいたその家に背を向け、この街を後にした。
……あの期間、何百回も見たアイツらの夢は、確実に以前のものだった。
アイツは変わらず逞しく、とても大きな声で会話をする。
アイツはとにかく時には大きく、時には小さく、俺に対して説教をする。
知らなければ良かったとは思わないが、知ってさえいなければ、とも思う。
これまで散々甘えてきたのでこれ以上自分を甘やかすつもりはないのだが、やはりこう辿り着いた以上は今の自分の未熟と、あまりの小ささに当然だと思い、
……嫌になったと考える。
有り金が限られていた。
自分のことでありながら全てが億劫になっているような気分ではあるが、その部分は考えていかなければならない。
しかしこの夜、直樹は自分を慰めるように、それなりのホテルに宿泊した。
あれほど求めた自由な時間・生活を、たった2日で持て余している。
何もすることのない直樹は部屋に入るとすぐに就寝したが、次の日目が覚めたのはすでにチェックアウトの時間間近。
寝すぎてしまった。
頭が痛ェ…。
何年もした規則正しい生活を、俺は忘れようとしているだけなんだ。
……きっとそう。
そう言い聞かせ、正午を過ぎた時間に、直樹は自分を癒してくれたであろうそのホテルを出た。
顔も洗ったし歯も磨いたが、髪に櫛を通すのを忘れた。
直樹はそんな姿で人通りの多い道を歩く。
途中コンビニでおにぎりを買い、道端の植え込みのレンガに腰掛けてそれを口に入れる。
今の自分の姿を思いながら、おにぎりはやっぱり人が握ったものの方がおいしい、そんな感想しか出て来ない。
やがて、もさもさとただ義務のように食事をしている直樹の目の前に、1台の車が停まった。
黒塗りの4WD。
以前直樹が借りていた車と同じ車種だったので、ひとまず注目する。
直樹の視線の先でその車のエンジンが止まり、ドアが開いて5人の男が次々と降りてきた。
おにぎりを頬張りながら、直樹はその様子を何となく、当然のように他人事として眺めている。
そこそこ人の往来がある中、その男たちが
「いたいた。コイツだろ?」
「間違いねぇ」
そう話したのが耳に入った。
そして彼らがニヤニヤしながらこちらに向かって歩いてくるのを確認しながらも、直樹はまだその状況を他人事のように、ただ口を動かしながら眺めているだけだった。
「ちょっとお兄さん、いいかなぁ?」
そう言い、男たちのうちの1人が直樹の肩を組んで隣に座る。
……この俺の状況で更にこんなことが起こるなんて、などというのは俺しか知らない俺の都合。
この状況を『出くわした』と表しながらも、直樹の頭はまだ呆けている。
敢えて『培った』と表する、以前の感覚は戻っていない。
「お兄さん、今いくら持ってる?正直に言ってよ。俺たち全員金がなくってさぁ。頼むよー」
「………」
その男は右腕で直樹の肩を抱きながら、左手で左胸をぐっと押してきた。
「何シカトしてんだ?オオッ!?コラ!!」
あとの4人は直樹を囲むように、目の前に立ち塞がっている。
……敢えて視線は逸らしていた。
これだけ人がいる中で、何で俺なんだ?
そう思うのと同時に、
関東弁のこういった威嚇の言葉を初めて聞いたような気がする。
怒気のある言葉というのは、関西弁の方が勢いがあって聞こえるな。
直樹は俯いたまま自分の爪先をじっと見つめ、そんなことを考えていた。
「オラ、立てよ!」
直樹は無理やり引き起こされ、5人に連行される。
強引に引っ張られながらも、持っていたカバンだけはしっかりと握り締めていた。
通りを抜け、引きずり込まれた路地裏。
そこはいかにも夜の街といった店がたくさん並んでいる通り。
人通りも少ない。
「おいおい、デケェ図体して無抵抗主義か?アーとかウーとか言ったらどうだ?エェッ?!」
突き飛ばされ、閉まったシャッターに衝突して大きな音が響いたが、人通りどころか人の気配すら感じられない。
怒鳴り散らすその男たちの声が、必要以上に大きく聞こえる。
……殴られるなんてのは何年ぶりなのだろう。
あの時以来か。
眠くもなければ腹も減っていない。
それなのに、力が入らない。
直樹はされるがままに、5人がかりで殴打され続けている。
痛みはそこそこ。
大したことない。
アスファルトに寝転がっては引っ張り上げられ、殴られてまた倒れ込む。
この状況に遭遇したのは、きっと俺が持っている何かが原因だろう。
だから、何で俺ばっかり、とは決して言わない。
俺ばっかりではないことは、十分知ってるからな。
男たちの声が次第に音へと変わって行く。
そして、フッと頭を過ぎった。
―――― このまま終わるのもいいのかもしれない。
どこから流れているのか分からない自分の血液を肌で感じながら、そんなことを思ってみた。
「へぇ。荷物ってこれだけか」
1人の男が道端に放られていた直樹のカバンに目を付けた。
「惨めなモンだなぁ。こんな小さいカバンで済んでしまう量ってか」
そう言いながらその場でカバンの口を開け、引っ繰り返して中身を地面にばら撒く。
もちろん直樹はその様子を横たわりながら見ていたが、返す言葉が思いつかない。
抵抗するための力が出て来ない。
男は散乱した荷物を足で掻き分け、その中から直樹の通帳を見つけ出した。
それを手に取り、
「ハハッ!更にゼニもこんだけしか持ってねぇよ。ご丁寧に暗証番号も書いてるしさぁ」
嘲るように言いながら広がった荷物を踏みつけ、こちらに歩み寄って来る男。
彼は直樹の髪の毛を引っ掴み、顔を引っ張り起こして面白そうに告げる。
「また来るからな。アンタが生きてるうちはな」
その言葉を残し、男たちはその場からゾロゾロと立ち去って行った。
黒い塊が遠ざかっていくのをぼんやりと見つめ、頬でアスファルトを感じている直樹はその体勢のまま。
……やる気が出なかった。
アイツら、ヤ○ザなんだろうな。ケンカ慣れしてる。
生きてるうちはって、俺を殺さないように殴ってたな……。
そんなことを考えつつ、散乱した自分の荷物に目を遣る。
と、そこにはいつの間にか1人の女が立っていた。
「大丈夫ですか?」
酒焼けとでも言うんだろうか。少し掠れたような声の、その女。
直樹を見下ろすように見つめ、こちらに近づいてくる。
「………」
更に言葉が出ないでいた直樹。
言うべき言葉が思いつかない。
その女は倒れている直樹をそのままに、あちこちにばら撒かれた荷物を集め、カバンに詰め込み始めた。
多い量ではない。すぐにその作業を終えると、直樹の傍のシャッターの前にカバンを置いて話しかけてくる。
「救急車呼んだ方がいいですよね?何か触ったら痛そうだし、私はヘタに触らない方がいいですよね。……ごめんなさいね。殴られてるの分かってたんだけど、怖くて何もできなくて……」
この場で聞くその女の言葉は、直樹の中で雑音にはならなかった。
「イヤ……いいッスよ。こういう場合、近づかない方がいい。警察呼ばれても困るし、病院ももっと困る」
そこまで言って、直樹は通帳を奪られたことを思い出す。
ポケットの中に入っているお金が、確か2000円ほど。
「…うん。金もないし、病院は困る」
直樹はゆっくりと自分で起き上がると、シャッターに凭れるようにして座り込んだ。
その直樹の姿を見て、女は、
「うわー…!お兄さん何!?スッゴイ男前!ビックリ!!」
感嘆したように声を上げる。
……この状況の俺に対して、何言ってんだコイツは。
そう思って女を見たが、直樹の内心など知る由もない彼女は更に続ける。
「私、男前には弱くてねぇ。ケガの度合いとか分かんないけど、病院行きたくないんでしょ?ウチで手当てしようか。…アソコ。アソコ、私の店」
女の指差した先に、一軒の飲み屋。
声質から年齢の予想ができなかったが、よく見るとまだ随分と若い。
20代後半…?
自分で店をやってんのか。
良し悪しのない感想を思いつつ、直樹は自分の体を確認してみる。
どこが痛いのか、どこが平気か。
……足首が相当痛い。
折れてはいないが捻挫したようだ。
左手中指の第二関節がかなり深く切れて血が溢れ出している。
あとは、耐えられる程度。
直樹は立ち上がり、その女に向かって、
「イヤ、結構ッスよ。……関わらない方がいい」
そう一言言ってカバンを持ち、足を引き摺りながらその場から立ち去る。
どんな小さな形でも、俺は良しと思う形で人と接さない方がいい。
思えば思うほど、後で後悔する。
……いい加減、学習した。
「ちょっとー、お兄さん!私、この店にいるからね!いつでもおいでよ!」
背中でその声を聞きながら、考え事をしている。
しかし、先ほど聞こえてきたはずの男たちの会話。
これについては考えられずにいた。




