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咆哮

この人込みの中、直樹に立ち尽くす時間などない。

前方からパトランプがこちらに向かってくるのが見える。

直樹は傍で野次馬に乗じていたタクシーを見つけ、すぐさまそれに乗り込んだ。

タクシーの運転手が振り向き、不審そうに直樹の姿を覗き込む。

「……お、お客さん、ソレ……大、大丈夫かいな。血まみれちゃうん?!ちょっと勘弁してほしいんやけど……」

直樹の中で今、このタクシー運転手のための気遣いなど皆無に等しい。

運転席の背中を足でグッと押し、

「タクシー運転手やったら黙って走れ。感じるな。気づくな。アンタは俺に言われた通りに走れ」

その直樹のただならぬ形相と全身血まみれの様子を見て、運転手は慄き、車を発進させる。

直樹はパトカーと擦れ違うようにして、タケシがこの世を去った場所から走り去った。


マンションはすぐそこ。

しかし今、この格好でうろうろするのは致命的。

「次の角、右に曲がって、3つ目の信号で左に曲がったところで停まってや」

運転手にそう告げ、行きにタケシと2人で歩いたその道を眺める。


手のひらに付いたタケシの血が固まり始め、動かすたびにパキパキと割れるような感覚を覚えた。

もうタケシのものではないこの血が固体に変わり、指を擦るとぱらぱらと剥がれ落ちて行く。

……もったいない気がしていた。

「……ベートーヴェンの第九か」

ぼそりと、考え事が口を突く。

久しぶりに陥るこの感覚。

送り出すには相応しくないこの曲を、騒音のように頭の中で鳴らし続ける。


……タケシ、聞こえるか。

人として生まれたものならば、いつ、どのタイミングかは人それぞれであっても、少なくとも一度は死への恐怖を考えることがあるだろう。

実際体験してみて、どうだ?

そっちはやっぱり暗いのか?

黒いのか、暗いのか、

どっちなんだ?


タケシ。

俺にいい考えがあるんや。

だから、俺はまだそっちへは行けない。


思い返してみたら、俺は何不自由なく生きてきたんやな。

どんだけ幸せやったんやろ。


……天国やな。

天国だったわ、これまで。

もう十分に体感し、見、味わった。


……今、俺の目の前に黒いものがあるぞ。

お前の居る場所か?

敢えて闇と言おうか。

だったら、俺が行かんでどうする。

隣にも先にも後ろにも、その黒いもの。


……そう。

闇なんや。

俺が行かねぇで、誰が行くよ?


……任せとけ。

俺に、いい考えがある。


タクシーは目的地へ停まった。

直樹は1万円を運転手に渡し、お釣りを受け取らずに車から降りる。

まず向かうのは、美奈子の元。

今、この血まみれの姿を美奈子に見せるわけにはいかない。

直樹はチャイムを鳴らさず合鍵でドアを開け、真っ先に洗面所へと向かった。

手にこびりついたタケシの血を、水で洗い流す。

正面にある鏡で自分の顔を見てみると、首や頬にも固まってしまった血がついている。

それに水を少し付け、溶かすようにして落としていく。

……もう一度、もったいないような気がした。


直樹の今日のいでたちは黒の上着に、黒のジーンズ。

それが幸いした。

血まみれの服も、あまり目立ちはしない。

直樹は肌の血を洗い流すとリビングへ行き、自分のタンスの引き出しから通帳と印鑑を取り出した。

そしてゆっくりと、美奈子の部屋へと向かう。

静かにノックして、先ほどの惨状を声に表さないよう、いつものトーンであるように気をつけた。

「美奈子ちゃん?ちょっといいかな?」

「アレ!?もう帰っとったん!?」

美奈子は返事をして、自ら部屋のドアを開けた。

……タケシの血が染み込んだ靴下のことを忘れていたが、こちらも幸い色は黒。

直樹はドアが開くのと同時に美奈子の部屋へと入り込み、床の上に正座する。

「美奈子ちゃん、ちょっとここに座って」

「う……うん」

押し殺してはいたが、滲み出るものはある。

これ以上、直樹も自分ではどうすることもできないその雰囲気に、美奈子の戸惑う様子が透けて見えた。

「……秋月くん、どうしたん?」

その問いに、直樹は黙って自分の2冊の通帳と印鑑を差し出す。

美奈子のすぐ目の前に、有無を言わせない圧力でもって。

「美奈子ちゃんな……今日な、ちょっと1人でおって。俺ら用事できたんや。

ほんでな、明日必ずパクウが迎えに来るから。ほんでな、暗証番号は表紙の裏に書いてる。そのお金で手術、受けるんやで?」

「………」

勢いに押されるように、美奈子は直樹が差し出した通帳を手に取った。

「パクウの言うこと、ちゃんと聞いてな。頑張るんやで」

直樹の言葉に、美奈子は顔を上げ、

「……え?手術のとき、一緒におってくれるんちゃうん?秋月くん、言うとったやん」

やはり、いつもと違う自分がそこに居た。

「あ、そやったな。ごめんごめん。仕事休んででも行くから。でもね、明日は取り合えずパクウが付き添ってくれるから。その通帳、渡しといて」

「う……ん」

「明日、ちょっと出張でね、俺」

直樹の言葉に、美奈子は何も言わず、ゆっくりと肯く。

「じゃあもう遅いから。俺、もう一回ちょっと仕事行って来なアカンから。おやすみね」

美奈子は直樹の雰囲気に押されるように俯いたまま「おやすみ」と返した。

それを聞き、直樹はすぐに美奈子の部屋を出て、再びリビングへと戻る。

そして物音を立てぬよう、テレビの裏に腕を突っ込んだ。

取り出したのは、以前掃除の際に見つけた、あの拳銃。

タオルに包まれたままのそれを上着のポケットに突っ込み、そっとリビングを出る。


玄関に向かい、もう一度自分の靴を履こうとしたとき、直樹は見た。

靴の内側が、真っ赤に染まっているのを。

瞬間、全身の至る箇所の毛が逆立つ。

上りかけた血の気のまま、その靴に足を突っ込む。

そうしていざ外に出ようとしたとき、直樹はビクリと体を震わせた。

―――― 背中に、人の気配。

振り向くと、そこには俯いたままの美奈子が立っている。

その姿を見た途端、全身の毛から芯が抜ける思いがした。

「……あー、びっくりした!どうしたん、美奈子ちゃん?早く寝ないと」

「………」

「ごめんよ。今日は1人なんや。大丈夫やろ?鍵、ちゃんとかけといてな?」

そう言った直樹に対し、美奈子が口を開いた。

「……今晩、お兄ちゃんも帰って来んのん?」

「……、うん」

「秋月くんも仕事なん?」

「……うん」

美奈子は直樹の顔を見ないまま、この場で直樹を問い詰める。

「……何で?何でさっきみたいな言い方するん?秋月くん、東京帰るん?私、事情とかよく分からんけど、ちゃんとこっちへ帰って来るんやんねぇ?旅行行く約束、したやんねぇ?何であんな言い方するん?もう帰って来ぉへんみたいやんか」

美奈子のその言葉には間髪入れず返事をしなければならない。

しかしその嘘は喉元で大きな塊になり、直樹の発声を阻む。

それを無理やり胸まで下げたのと同時に、直樹は全身を振り向かせ、美奈子の前で大きく腕を広げた。

「何言うてんねん、美奈子ちゃん。何や、今日は1人やいうて寂しいのか?何も、……何にも心配せんでエエよ。怖かったら部屋の全部の電気、点けとってもエエんやで。

それとな……それでも心配なんやったら、ぎゅうしたるからこっちへおいで」

「………」

美奈子はゆっくりと直樹に歩み寄る。

直樹は広げた両手で、美奈子を包み込むようにその体を抱き締めた。


……血の匂いがするかもしれねぇな。

我慢してくれ。

君の兄貴のモンや。


直樹の腕の中で美奈子は呟く。

「……ほんまに、どこにも行かへんの?」

そのか細い声に、

「うん。だから、頑張れ」

直樹はそう応えた。


体を治せば社会に出て行ける。

ひょっとすると君が直面し、登ることすらできなかったその城壁以上の問題は、この世界にはないかもしれない。

せっかく、せっかく買える命なんだ。

ナメるほど容易くはないから、頑張ってくれ。

―――― 幸せになってくれ。


これ以上なく、後ろ髪を引かれる思いがした。

それを断ち切るようにドアを開け、部屋を出る。

居候のまま、見慣れ、住み慣れたこの部屋。

自分を受け入れてくれた、あたたかいその場所。


外に出て、直樹は一つ呟く。

「……ごめんよ。これくらいしか、でけん」


行き先はもう決まっているのだが、その場所に行く前にもう一つ、やらなければならないことがある。

直樹は公衆電話のボックスに入り、先ほど救急隊員から聞いた病院に電話をかけた。

電話に出た病院職員に、救急車に同乗したパクへ繋いでくれるように頼む。

しばらくして電話口に出たパクの声は、衰弱しきっていた。

あの場で、この世にもうタケシがいないことを確信していたのは、直樹だけ。

直樹はその辺りの確認をせず、パクに告げる。

「パクウ、明日な、美奈子ちゃん、ちゃんと迎えに来てくれよ?」

『………』

「通帳はね、彼女に預けてるから。暗証番号も通帳に書いてるから」

『………』

パクは黙り込んだまま。

しばらくして、ようやくパクが口を開いた。

『……直樹……、一体どうしたらエエんや。何があって、こうなったんや……。俺は……俺は、一体どないしたらエエんや……』

パクの、その憔悴した掠れ声を聞き、直樹はそれに歯向かうように答える。

「……パクウ!パクウ!!これまでありがとうな!俺、ちょっと行って来るよ。だからな、ここでパクウが頑丈じゃないと、皆が困ってしまうんや。美奈子ちゃんのこと、頼むで」

『……お前、行くってどこへ?』

直樹はその問いに対して返事をせず、話を続ける。

「考えたらな、変わった出会い方やったけど、2人にはほんまに助けてもろうたわ。ありがとう。

パクウ、俺のこと拾ってくれてありがとう。ちゃんと幸せになってくれな。それだけが今の俺の願いなんよ。

見つけてくれてありがとう。助けてくれて、ありがとう」


電話の向こうからパクの声が聞こえていたのは分かっていた。

しかし直樹はそれを聞かず、公衆電話の受話器を置く。

聞こうが聞くまいが、もう止まらない。

さっきから聞こえる第九。

こいつももう、止まる必要はない。


直樹はタクシーに乗り込み、行き先を告げ、そこへと向かう。


ヤツの居場所は分かっている。

昼間、俺が電話をしたんだからな。

……たかが紙キレに、タケシは散らされたんか?


     片桐、

        償ってもらうぞ…!!


直樹に外の景色を眺める余裕はない。

俯いたまま。


……人の正義なんてのは、十人十色。

そいつが持つモノで色・形を変える。

それは泣きたいくらいに知っている。

子どもの頃からな。

力のない正義は正義ではない。というよりは、俺から言わせれば、いらない。

だから、血を流すほど勉強した。

結果が出ないと、泣いて夜を明かした。

この命でな。

思いを噛み締め、それをモノとし、形容、形付けることができるのであれば、そこで俺の表する正義というのは完成するぞ。


―――― 片桐

お前は今日、この後死んどけ。


建前や何やかんやなんてのは、死んでから考えろ。

俺もそうする。

事由なんて山ほどあるんや。

もう俺は、お前に名乗る名前なんか持ち合わせていない。

愚の骨頂だろうと何だろうと、お前に名乗る名前はもうない。

お前はこの後、タケシを追いかけろ。


タクシーは直樹の告げた場所へと到着した。

そこは門構えからしていかにもな、立派な料亭。

昼間、直樹が片桐の指示で予約を取った料亭だ。

奥の店はすでに灯りが落ちており、門の看板だけを小さな電灯が照らしていた。

この店の営業時間など知らない。

まして、神経が時間を追い越している直樹にとって、現在の時刻など知ったことではない。


直樹は静かにタクシーを降りる。

その目に入ったのは、店の前に停まった1台の高級車。


     片桐


     片桐


     片桐!!!!


陶酔するかのごとく、直樹は上着の右ポケットに手を突っ込み、一歩一歩車へと近づく。

そこで、その高級車に向かって歩いてくる3つの人影を見つけた。

同時に、先ほど美奈子のお蔭で抑えることのできた、蓄えることのできた血の気が一気に直樹を逆立てる。

直後、全身の力を両の足に込め、走り寄った。

「片桐イイイィィィ――――――ッ!!!!」

その怒声に反応し、身構える人影。


……しかし、やはり頭に血が上ると注意力というものが散漫するのか。

そういう確率は、少し考えれば十分に、満々とあった筈。

その3つの人影は片桐を含むものではなく、全くの他人だったのだ。

「……ッ!!!」

彼らが片桐ではないと確認し、つんのめるようにして立ち止まり、二呼吸、三呼吸の間、直樹は呆然としてしまった。

その間を見計らい、車の陰に隠れるように伏せていた3つのうちの1つの影が直樹に飛びかかる。

直樹はあっという間にその場で後ろ手に捕らわれ、地面に引き倒された。

更にもう1人が直樹の足を押さえつける。


バ……バカか、俺は……ッ!

どんだけマヌケなんや!

何捕まってんねん!!

呟くにも至らない、直樹のその思考。


「何じゃオノレは!?ウチのオヤジに用か!?アァッ!?ウチの穂積狙うとってタダで済むと思うなよ!!おいコラァッ!ワレェ、どこのモンじゃ!?」

その恫喝は、直樹の脳に届く頃には意味を成さない騒音へと変わっていた。

今、直樹がしているのは、自分への侮辱。

それ以外のことが考えられない。

直樹は地面に押し付けられたまま、もう一つの影を見上げる。

「……アレ?君のこと、どっかで見たことあるなぁ。前に一度、会うたことあるよね」

それどころではない直樹だったが、更にその影を凝視する。


……その男、年の頃は40を過ぎたところか。

グレーのスーツに黒縁のメガネ、薄っすら白髪混じりのボサボサ頭。


男は続けて、

「この子はアレやぞ。片桐さんトコの若いモンや。石渡、手ェどかしてあげてくれるか」

その遣り取りは、十分に直樹の脳へと届いていた。

「せ、せやけど、オヤジ!このガキッ!」

「イヤイヤイヤ、さっき片桐~って吼えとったやないか。人違いやろ」

「せやけどなぁ!」

「エエから。足もどかしたって」

2人はその男の言う通り、拘束していた手をどけ、直樹を解放した。

「何の用事で来たんや?片桐さんに用事か」

まるで子どもをあやすように、その男は直樹に問う。

返事に詰まる直樹。

今、ここに置かれている滑稽な自分を許せずにいた。

「前に一回会うたことあるやろ。覚えてないのかな。ワシ、穂積いうんやけどな」

名乗られた人物の顔・名前は忘れないが、一度見かけた程度の顔・名前は覚えていない。

……コイツが穂積?

思考の端に過ぎったその言葉は、しかしすぐに外へと追い出された。

直樹はこの場で、9ある片桐への怒りと1ある自分への怒りに蓋をし、ギリギリと押さえつける。

「……片桐は?」

その問いに、穂積はん?と聞き返す。

「片桐、どこ行った?中?店の中?」

ぶっきら棒な直樹の言い方に、穂積以外の2人が怒声を上げた。

「ワレェ!この状況で誰にモノ言うとんじゃッ!?」

「本気でイテまうぞ!!」

その怒号を背中でビリビリと感じてはいるが、直樹は振り向かない。

「石渡!」

穂積は声のトーンを上げ、そう一喝した。

「少し黙っててくれないか。ワシは今、この彼と喋っとるんや。頼むわ、兄弟」

「……あ、はい。すいません」

一喝と一言でその2人を抑えた穂積。

また直樹に向き直る。

「片桐さんならな、少し前に帰ったで。ん――――…、何か電話かかってきてな。接待しますー言われてワシ、わざわざ来たんやけどね。

何や急用できたー言うて、先に帰ってしまったよ」

それを聞き、直樹は一気に煮えくり返る。

「ッ何でだッ!?クソオォォォ――――――ッ!!!」

両手を振り下ろすように、そう叫んだ。

「何でやッ!? 

何でやッ!!!

酒飲んどる間にタケシが!!

お前が酒飲んでる間にタケシが!!!

こっちも酒飲んどったいうねん!!

楽しかったんや!!

ずるい!!

ずるいじゃねえか!!

あいつと!! 

あいつらと俺!!

家族になるんやったんやぞ!?

そんなことも知らんと!!

お前のせいで!!

お前のせいで!!!

直でやったー何だーなんて、関係ないぞ!!

ブッ殺してやる!!!

片桐イイィッ!!

お前はブッ殺す!!!

お前の幸せって何や!?

奪うことか!?

それ見て笑うことかッ!!!

汚いやろ!!

やることが!!

やってることが!!!

俺を利用したんか!?

それともたまたまか!!!」

出せる限りの大声で、直樹は捩じ伏せていた言葉を開放する。

これまでの葛藤に次ぐ葛藤の末、ここで叫んでも意味のないその言葉を叫び続ける。


「片桐イイイィィィィ――――ッ!! 

片桐イイイィィィィ――――ッ!!!」

直樹の表情は、まるで狂ったようなそれ。

瞳孔の確認すらままならず、眼球が引っ繰り返るほどの絶叫。

尋常ならざるその直樹の姿を呆気に取られて見ている2人と、ただ冷静に見つめている穂積。


ここでこう叫び、吼えてみたところで、自分の中を流れる血液の速度が落ちることはない。

周りが見えていないわけではない。

自分を取り巻くこの状況を把握し、自分を囲むこの3人が同業者であることを、鮮明に理解はしている。

呆気に取られていた2人のうちの1人が、

「オヤジ……な、何やコイツ!危ないぞ、車に乗れ!」

そう言って、直樹を無視するように車のドアを開けた。

穂積は首を横に振り、その行為を制して直樹に歩み寄る。

「……君な、ワシャぁ穂積やって名乗ったよな。こういう時は自分の名前も言うもんなんや。分かるやろ?」

直樹はその言葉を右肩で聞いていた。

鼓動が治まることをしない。

自分の意識の中で治めようとしない、とも言う。

胸で、腹で、肩で呼吸をしている直樹に、穂積は続けて言った。

「君んトコの片桐さんがな、ケンカ売っといたくせに勘弁してくれー言うてお金持って来たよ、さっき。

ワシャぁ、ソレ見てね、お金やったら自分で稼ぐからよろしいわーって返事したんやわ。

ワシらの世界でこんなこと言うたら怒られるんかもしれんけどな、ケンカなんかアホらしいなぁ。仲良い方がエエに決まったある。

君もそう思うやろ?そう思うんやろ?」

直樹はその言葉を聞き、まだ自制を利かすことのできない今のこの体で穂積の顔を見る。

しかし穂積の視線は直樹の視線と合うことなく、何故か自分が今、握り締め、隠している上着の右ポケットを見つめていた。

息切れに近い、自分ではこれが何なのか理解できないところにある激しい動悸を纏いながら、直樹は穂積の視線を右ポケットからこちらに向けようと、じっと睨むようにその顔を見つめ続ける。


……お前も一緒や。

一緒やろ?

金!


金!


金!

金!

金!!


きっと世の中、金なんやろな。

アレがあれば、何でも叶うんやろな。


そして、直樹は続けて思う。

俺は、お前らに名乗る名前なんかない、と。

直樹のこの思考が終わると同時に、穂積の視線が直樹の右ポケットから視線へと移った。

「片桐っていうのは危なっかしいねぇ。ま、エエんやけどね……」

それから、穂積はじっと直樹を見つめて言った。

「そんな目ェで見んとってくれるかい?まったく、ライオンや虎にでもなったつもりかねぇ。捨て犬みたいな顔して」

「…ッ」

この際何にでも噛み付きたいと自分を抑えられないでいる直樹ではあるが、次に出そうとした言葉を咄嗟に飲み込む。

「ワシはね、人にはそれぞれ理由があると思ってるよ。だけどね、それを一々知ろうとは思わへん。これくらいなら分かるやろ?今の君でもね。

ワシはね、穂積。○○会の穂積いうんや。君がもし捨て犬なんやったらな、拾ってやることは可能やと思うよ?二度と忘れたらアカンのやで。ワシの顔と名前はな」

穂積は直樹にそう言い終えると、

「石渡、ワシ、お茶漬け食べたい。いつもの店、連れてってくれるか」

「おお、よろしいな」

石渡と呼ばれた男はそう応え、再び車のドアを開けて穂積を招き入れる。

それから、直樹に一言告げた。

「危なっかしいこと考えとらんで、お前も家へ帰れ」

車は3人を乗せ、その場から去って行く。


……向ける矛先のやり場がなかったとは言え、知りもしない人間の方に何%か行ってしまった。

穂積の言葉が、頭の中で螺旋状に繋がる。

―――― 捨て犬

父に、肉食で生きるものになれと命じられ、生きてきた。

捨て犬だって肉は食う。

その後、パクにキリンと表された。

安全に、健やかに育った高い部分にある緑を食す、そのための首の長い生き物。

自分で思いつく自分の短所を挙げていくとキリがないが、一つ通り越えたところにあるもので目立つものといえば、無知。

外装に対してぎりぎり許されたのが、内側から触れること。

外に出て、その外装を外側から触れることに許可は得られなかった。

そのように、育った。

だが、そんなものは中学までの話。

その後は、自由に生きたよ。


……今、この状況の中、何故俺が生きていられるかというと、

―――― タケシ。

目標があれば、生きて行けるんだ。

だから少しの間、1人で我慢してくれ。


俺はまだ、死ねない ――――。



片桐の住む家などの詳細は知らない。

片桐の息のかかった者に今、接触するのは賢明ではない。

今日までの経緯。

タケシが金銭を得るために狙えと命じられていたのは、片桐のことだったのだろうか。

今日、俺がタケシと飲んでいることを知って、俺はヤツらに後を尾けられていたのか。

今となっては、そんなことはどうでもいい。

片桐に対する嫌悪感は姿・形を変え、生死を含む憎悪へと変換された。

許す許さないを跨ぎ越え、生死の悶着を踏みつける。


―――― 片桐

お前の人生、俺が買うてやる。

1円も払えんが、俺が買う。


直樹は静かに、ただ静かに、道路の向こうに事務所を眺めながら待っている。

片桐が事務所にやってくるのを。


事務所の前は物々しい雰囲気になっていた。

タケシを撃った者が自首したのだろう。

抗争の前触れだと、警察官が事務所の前をウロウロしている。

直樹はその様子を道路越しに見つめていた。

自分の身体の労費をただ呼吸のみとし、集中し、留め、電柱の影に隠れながらじっと見つめている。


……小学校の……1年、2年だったかな…。

月と太陽が同じものだと言い張っている奴がいた。

同じ星が朝昼は太陽で、夜には月になると。

皆が笑っていたが、俺は笑えなかった。

何て発想をするんだろうと思った。

地球がまだ平面だと思われていた頃、その説を言い張った学者が何人かいた筈だろう。

……あの時のあの人と同じように、

柔らかく、すり抜けてみせる。

事の後に、元の欠陥だらけのボロい俺に戻っても構わない。

このときばかりは柔軟に、柔らかく ――――…


……アイツは、パッサパサのモジャモジャ頭だった。

破天荒で、どこまでも無邪気だった。

……あの頃の話だよ。

『だった』『だった』と、過去の話になってしもたな。


……大丈夫。

随分落ち着いたよ。

さっきはみっともなかったな。

許してくれよ。

『だった』『だった』じゃなくて、『だよな』 と、もう一度言うから。


―――― 待っててくれ。



これほどまでに時間の計算をしなかったのは、生まれてこの方なかっただろう。

知らぬ間に時が過ぎ、辺りが明るくなり始めていた。

その頃には、忘れてしまいたいあの光景が、頭の中で何度も何度もリプレイされる。

そして覚えておきたい、思い出したいにも関わらず、タケシが最後に自分に何と言ったのか、思い出せずにいた。

一言一句、間違うことのない形で思い出したいにも関わらず、思い出せずにいた。


やがて、直樹の視界に変化が現われ始める。

警官に警備されたその場に、見慣れた一台の車が横付けされた。

その中から降りてくる人物。


―――― 片桐。


直樹は隠れていた電柱の影から一歩、前へ出た。

そしてもう一歩。

怪しまれてはいけない。

走ることはしない。

赤信号の横断歩道で立ち止まり、青になるまでの間、考えた。


タケシ、行ってくるわ。


片桐を待ったこの数時間を、直樹は実に有効に使った。

もう叫び声は上げない。

思考の処理も、怒りの向こう側に運ぶことができた。

もうマヌケはしない。

ただあの時から変わっていないのは、目標のみ。

何秒経とうと何分経とうと何時間経とうと、ブレていないのは目的のみ。


直樹はポケットの中の堅い感触を握り締める。

銃弾の確認は済ませた。

撃ったことはないが、撃鉄はもう起こしている。


直樹はそうっととも言わず、いつもと変わらない歩幅と足取りで進み、事務所へと目掛ける。

途中、警察官に混じり事務所を取り囲んでいた組の人間が、何度か直樹に声を掛けてきた。

それを聞くつもりもなかったが、うまい具合に頭に入ってくることもない。

ただ都合が良かったのは、その声が自分をこの組の関係者だと警官に思わせてくれたこと。


直樹は歩く。

片桐から目を逸らすことなく。

そして、片桐から3メートルほど離れた後ろに立ち、この場所がいいと心に決めた。

直樹はその背に静かに声を掛ける。

「……片桐さん。

     ―――― 片桐」


その呟くような声に、片桐がふと肩を揺らした。

まだ振り向かない背中に向かって、直樹は続ける。

「タケシ殺したんお前やろ?じゃあお前もだろ。……俺も行くから」

そう言うのと同時に構えたのは、タケシが持っていた拳銃。

もし何かの間違いがあった時、タケシが片桐を撃つはずだった拳銃だ。


「危ないッ!!!」

誰かの声が遠くに聞こえた。


片桐が振り向くのを待つことなく、

ストップモーションに入ったかのように、ゆっくり見えた情景は何故なのか。

俺に向けられている時間が、ゆっくり流れるこの一瞬。

以前、二度ほど体験したことがある。

新幹線に乗ろうとした時、倒れて足を折ったあの時と、車に轢かれ、宙を舞ったときに見た夕日。


直樹は構わず、引き金を引く。

片桐が振り向くのを待つことなく。


―――― そして、その場に響いた音。


それは、カチャンという、直樹にとっては無情でしかない、鉄のぶつかり合う音だった。

弾は込められていた。

なのにこの拳銃からは、直樹の意志に逆らうように弾が出なかったのだ。


「―――― ッ!!!」


直樹の表情は、ここで一瞬にして崩れていく。

歯を食い縛り、水分越しに目に映る片桐の姿が陽炎のように揺れていた。


もう一度撃鉄を起こし、引き金を引く。

……繰り返されたのは、同じ音。


直樹はこの先のことなど、微塵も考えてはいなかったのだ。

というより、自分にこの先があるなんて思ってもいなかった。


「おいコラアアァァッ!!!」

「取り押さえろッ!!!」

怒号が飛び交う。

あちこちから発生している喧々囂々を、直樹は遠い耳鳴りの外で聞く。


警察官のいる中、発砲しなかったにしろ、その目の前で銃を出したことが許される筈もない。

その場にいるヤ○ザ、警官が入り乱れ、直樹を背後から押さえつけ、地面に引き倒す。

声が出ぬまま、アスファルトに頬を押し付けられる直樹。

辛うじて首が少し動かせるその視界に、歩み寄ってくる影が見えた。

直樹は無理やり首を起こし、それを見上げる。


     か  た  ぎ  り


……それを目にした瞬間、直樹は自分の動きの全てを止めた。

片桐は、笑っていた。

この世のものとは思えぬほどの笑顔で。

何も言わない片桐と、ただこの瞬間何も言えない直樹。


そして硬直した視線の端、下卑た笑顔の向こう側に、直樹が見たもの。

まだ蕾の 小さな 桜 

毎日この道を通っていたにも関わらず、今まで気づかなかった。


……ずっと、考えていた。

『桜の咲く少し前くらいには今の状況を乗り越え、タケシと2人で ――――……』


少年の、そして大人びたあの顔が、頭を過ぎった。

逃がしようのない絶叫が体中を駆け巡った。

泣き叫ばんばかりに、血を吐かんばかりにタケシの名を呼ぶ、声に出ない、―――― 声。

しかし猛り狂うその慟哭は、直樹の表情を僅かも変えることはない。


片桐から目を逸らし、顔を伏せ、直樹は呟く。

「……タケシ、ごめん。…―――― ありがとう」


先ほどまで何度も何度も繰り返した『俺にはこれくらいしかできねぇ。ごめんな』

それが、先ほど思い出した俺の最大の欠点、無知が邪魔をし、『俺にはこんなこともできないよ』に変わってしまったよ。


……タケシ。

もうちょっとじゃなく、しばらくの間、待っててくれ。

俺もな、1人が寂しいのは知ってるから。

もうちょっとじゃなく、もうしばらくでごめんやけど、……待っててくれ。


真っ白と真っ黒が、見える筈のない世界として直樹の目の前に現われては消え、現われては消えて行く。

よく晴れたこの日。

鮮やかな青い空に気づくこともなく、直樹はぼんやりと、しかしこれ以上なく鮮明に考える。


あと2週間もすれば、世の中は4月。

新しく始まる季節と表し、やって行けたのに ――――……



     ……アア、


           タ ケ シ ガ 死 ン デ シ マ ッ タ ――――……



直樹はここで現行犯として逮捕され、その後、法の裁きの下、実刑も加えた罰をその身に背負うことになる。



    

        

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