1-⑯b
身構えていた”その時”が訪れることはなかった。
ぴと、とギルバートの拳が例の怪物の手のひらに触れた瞬間、双方の動きが止まったのだ。何が起こったのか、あまりの大きさの手の平によ確認することが出来ない。しかし、降りかかった幸運を無駄にはしない。今のうちに、這いずって安全圏へ避難する。
巨大な傘の下から逃れ、日の光が顔を出してきた。しかし、まだ辺りには大量の怪物が、
————いない。
「え?」
驚いた理由はもう1つある。
そしてその比重は圧倒的にこっちのほうが大きい。それは、
「お前の勝ちだ、ギルバート」
——体中を返り血で濡らし、そんな状況でも太陽のように破顔した、女がそこに立っていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「おめぇだよ。てか、立ててんじゃねぇか」
思わず、かの状のもとに駆け寄り、その小さい方を掴んで容体を確認する。しかし、逆に心配されてしまった上に、自分が立てていることにも気づいていなかった。
周りを見ると、先ほどの怪物の無残な肢体がゴロゴロと転がっている。
「あれは、ドルシラさんが?」
「あたりめぇだろ。あたし以外にだれがいんだよ」
もう生きているあの怪物がいないことに、足の力が抜けその場にへたり込んでしまった。しゃがみこんだギルバートと立っているドルシラの視線はあまり変わらない。互いの視線が交わっていることに変わりはないが、ただ一つドルシラの目の色が変わる。
「怖かったか?」
「…………」
こんな質問を、こんな顔で言われてしまったら、ギルバートは答えることが出来ない。いつもの鋭く猛々しい目元とは違い、目じりが柔らかく下がり、涙袋が際立つ、そんな母のような視線。
こんな女の前で泣き言も弱音も吐きたくない。恥とせめてもの矜持を守るためにギルバートは押し黙った。
しかし、ドルシラの目元はさらに緩み、
「怖かったな。」
「————」
胸の奥から、熱い何かが込み上げ、それが水滴となって目ににじんでくる。
絶対にそれを彼女に見せてはならない。絶対に彼女にそれを見せたくない。
強がれ。強がって、涼しい顔で楽勝だったと豪語しろ。
——そうでないと、俺は彼女に、
「ほんとに、泣き虫だなお前は」
「ドルシラさん、俺は——、」
その後の言葉が出ない。喉が言うことを聞いてくれない。心が動いてくれない。自分自身が許さない。
今はやめておこう。いずれ必ず、
「なんだよ。やっぱり変な奴だな。ほら立て。早く帰らないと、怒られるのはあたしなんだからな」
「あ、はい」
ドルシラの小さな手で立たされた。
そして、ドルシラはどこかに行ったかと思えば、巨大な熊の手を引きずって持ってきた。彼女が自分よりも数百倍も大きな生物を片手で運んでいる状況に顎が外れそうになる。
ギルバートのもとまで運んできたドルシラの姿がなんだかとてもかっこよく見えて、
「おい、ギルバート。お前は強い。このあたしがそれを保証する。『レヴェルト』所属のギルバート。リー・テイラーはこんなおっかねぇ怪物に勝ったんだ。もっと胸を張れ!」
まだ、二人の間にはすこし距離がある。
そんな距離で、ドルシラは怪物から手を離し、こちらに大声で叫んできた。
彼女は何を言っているのだ。あの怪物に勝ったのはドルシラで、俺は何もしていないに等しい。そんなギルバートに対する評価がそれなはずがない。買い被りにもほどがある。
しかし、あまりの迫力に、思わず言われた通り、胸を張ってかしこまってしまった。
「そうだ! お前はそんくらい威張ってもいい人間だ。 どうだ、まだ次の任務のことが怖いか?」
「……」
ギルバートは、また答えられない。
しかし、言葉を紡げなくなるということは、それが肯定の意であるということは明白。もちろん、ドルシラにもそのことは伝わる。
こんなに助けてもらっておいて、こんなに勇気づけられて、「いいえ」の三文字も堂々と言えないのか。
「俺は、」
「あたしが助けてやる!」
「へ?」
予想外の言葉に、ギルバートは戸惑ってしまう。
「お前に何かあったら、あたしが必ず助けてやる! お前がどこにいたって、あたしが飛んで行って助けてやる。あたしはお前の上司みたいなもんだからな、そんくらいはやって当然だ」
わからない。なぜ彼女がそこまで自分のことを思ってくれるのか、全く分からない。その分からなさが、ギルバートにとってはとても怖いもので、しかしそれは、
「まだ怖いか?」
世界で一番頼もしい人から送られてきた、世界で一番頼もしいその言葉はギルバートの心を解す。
その言葉を言い終わったドルシラは再び怪物の手を掴み、こちらに歩いてきた。
ギルバートはまだ、返事を返せていない。しかし、ドルシラの顔は安心している。
「帰るか」
目の前まで来たドルシラは、親指で城のある方向を指さし、歩き出した。
——————ギルバートは何も言えずに、その背中を追いかけるだけだった。




