1-⑮b
熊型の怪物が後ろに倒れこんだ。
轟音と土埃が辺りを囲む。
ギルバートは並外れた安堵と、強力な魔法を使ったことによる消耗によって地面に落下してしまった。何とか受け身はとれたが、もう体は動かない。
正直、ギルバートが一発であの怪物を仕留められたのは奇跡だと言っていいだろう。
完璧な位置に、完璧なタイミングで、完璧な状況で、渾身の一撃を入れることが出来たのだ。いくらなんでも再現性がなさすぎる一発だった。現に、もう体を動かすことは出来ないし、あの一撃を耐えられてしまったらと考えると、身震いをしてしまう。
「なんだったんだ、あの化け物」
ギルバートは大の字で仰向けになりながら、そうつぶやく。あんな大きさの生き物をギルバートは生きてきて見たことも聞いたこともない。同じような見た目の生物は知っているが、あんなにも大きくはなかった。突然変異でもしたのだろうか、とそんなことを考えていると、一番大切なことを思い出した。
「ドルシラさん!?」
あまりの達成感と安堵に完全に忘れてしまっていた。
「まだ、あいつの右手の中にいるはず。早く助けに、」
行こうとしたが、次は体が動かないのを忘れていた。何とか寝返りを打ってうつ伏せになったが、地面に着いた手は力が入らず、顔面が地面に激突してしまった。鼻から血がぽたぽたと垂れてきているが、今は気にしてられない。
「早く、行かないと」
芋虫のように肩で地面を押しながら這って進む。スピードは言うまでもなく遅いので、とてつもない時間がかかりそうだが、止まってはいられない。早く生きたドルシラの顔が見たい。その一心で、惨めに彼女のもとへ向かう。
「待っていてください、俺が必ず、」
ドルシラの言う方向に手を伸ばしたその時だった。
「今度は、なんだ?」
どこか聞き覚えのある音と振動がギルバートの体を震わせた。いやな予感がする。でも、だからと言って体が急に動くようになるわけでもない。ぎりぎり動かすことのできる首を回して周囲を見渡す。そこには、
「どうなっているんだ」
先ほどの怪獣が数匹、いや数十匹、地面から這い上がってきているのが見えた。やっと晴れた土埃がまた、周囲を曇らせる。
それに、ギルバートと一匹の死体を囲むように現れたのだ。それはまるで意図してギルバートを狙っているかのようで、謎の気持ち悪さを覚える。あの個体を見た感じ、仲間が死んだ瞬間に現れるような知能があるには見えなかった。それも、こんなにもピンポイントでギルバート太刀を襲ってくるのにも違和感を感じずにはいられない。
戦わないといけない。でも、体はもう動かない。
死にたくない。でも、この状況は変えられない。
死なせたくない。でも、助ける力はすでにない。
もう終わりだ。
こんなにもあっけなく自分の人生は終わるのか、と思わず嘲笑がこぼれた。結局何を成し遂げることも出来なかった。『レヴェルト』のみんなには迷惑をかけ、最期には恩人を救うことも出来ずに、終了だ。笑いがこぼれるのも無理はない。
早く殺してくれ、この恩知らずを。
早く殺してくれ、この弱虫を。
早く殺してくれ、この腰抜けを。
早く殺してくれ、このろくでなしを。
こんな絶望的な状況に陥ると、死ぬことさえも怖くなくなるのだな。まだ、何もされていないのに気が遠くなってくる。
『おいギルバート。敵と戦うときに一っ番大事なことはな、メンタルだ。別に腕っぷしが強くなくていい。強力な魔法もつかえなくていい。どんだけぼろぼろになっても、どんだけ負けそうになっても、ぶっ殺されちまっても、心が負けてなかったら、ぜってーに負けねぇ』
頭の中で、聞こえてくるはずのない声が聞こえてきた。いつかのドルシラとの会話だ。
『いや、殺されたら負けじゃ、』
『そんな気持ちでいるから、お前はまだ甘ぇんだよ。動けなくなっても、腕がなくなっても、最期のその時まで拳を振れ。もし、死んじまっても、あたしはそれを負けとは呼ばねぇし、呼ばせねぇ』
改めて聞いてみても、意味が分からない。しかし、今考えてみると、これまでのドルシラの話で理解が出来る話なんて、ほとんどなかったような気もする。腕がなくなっても拳を振れってなんだよ。それが出来ないから死にかけてるんじゃないのか。
「俺の負けか」
巨大な掌がギルバートに向かって振ってくるのが見えた。世界がスローモーションになる。
あと数秒立つと、俺はぺしゃんこになって、
「あれ?」
頬を涙が伝った感触に、思わず目を見開いた。
すでに、恐怖心とか寂しさとかは、ないはずだ。それなのになぜ涙がこんなにもあふれてくるのか、わからない。
大切な人に恩返しも出来なかった、どうしようもない男がまだ生きたいと思っているのか。
死ぬべき人間がまだ、死にたくないといった傲慢で甘ったれた考えを持っているのか。
「違う」
何かに抗うように出たその声は震えている。
こんな死ぬ間際になって、このような感情が生まれてくるとは思わなかった。その劇場の正体は、
「負けたくない」
もう空は見えない。巨大な灰色の掌底しか見えないほど、死が近い。
『最期のその時まで拳を振れ。もし、死んじまっても、あたしはそれを負けとは呼ばねぇし、呼ばせねぇ』
ギルバートにとって、最も頼りになる声が再度聞こえてきた。その声を聞くだけですべての負の感情を吹き飛ばしてくれるようなそんな声が聞こえた。
もう立つことは出来ない。だからせめて、仰向けになって、その掌底に向き合う。
もう生きることは諦めている。ドルシラのことも、つらいが諦めなきゃいけない。
——でも、負けたくはない。
肘を地面につき、腕を立たせる。相手の手は指紋がはっきりと見えるほど迫っている。
腕に力を籠める。もう魔法は使えないし、籠める力も残っていない。それでも、力を籠める。
巨大な手は鼻先の距離。腕を伸ばせば届く距離。
当たるかどうか、効くかどうかは重要じゃない。
ギルバートは弱弱しい力で、蚊も殺せないような脆い力で、
————確かな意思をもって拳を突き出した。




