1-⑭b
こんなにも肝が冷えたのは初めてのことだった。
息が出来ない。左右両方の肺が機能を停止し、気管が誰かにぎゅっと握られているようなそんな感覚。汗がサーっと引き、頭の中から熱が逃げない。
思考が停止する。思考が加速する。思考が停止する。思考が加速する。減速する。停止する。
加速する。
手元に刃物があったなら、今すぐにでも自らの喉仏をめった刺しにしたい。喉元から脳天まで刃を入れ、力いっぱい手首を捻りたい。刃物もないなら、足元の硬い地面にある土を口いっぱいに含んで、鼻にもいっぱいに含んで息を止めたい。目にも土をじゃりじゃりと塗りたくって何も見えないようにしたい。土すらないのなら、ショック死でもいい。片方の手でもう片方の手の五指についている爪を一気に、缶を開けるように剥がす。それでもだめなら、歯を殴り折る。そして痛みだけで頭を埋めた後、そのままこの世からいなくなりたい。『レヴェルト』の誰からも気にされることもなく、消えたい。自分を知っている人間すべてに忘れられたい。今の自分を見てほしくない。
「……」
ドルシラの顔を見れない。彼女は目を瞑っているのに、その顔を視界に入れることもできない。映っているのは地面の土だけ。少しずつ視線を前に動かしていくが、ドルシラの輪郭で止まってしまう。まだ、土しか見えない。
目をぎゅっと閉じる。開けたらドルシラが目に映るかもしれない。そう思って目を開け、
「ぇ?」
さっきまで見つめていた地面が山のように隆起する。そこから巨大な手が現れ、小さなドルシラを鷲掴みにしてしまった。
消えていた聴覚が覚醒し、地が割れる轟音と、空気がぶれて見えるほどの咆哮が鼓膜を刺激する。
巨大な穴は徐々に拡大していき、その姿が露になる。熊のような見た目をしたその怪物は二本足で立つとざっと100mを超えそうな大きさだ。特徴的な長い爪はギルバートの身長よりも長く、口から垂れてきている唾液は湯船を満たせそうだ。
って、そんなこと考えている暇はない。数秒、あまりに衝撃的な状況と、怪物の威圧感によって時間が止まっていた。
ドルシラがまずい。クマの怪物に掴まれたドルシラはギルバートの目からも姿を確認できない。
早く助けないと彼女が死んでしまう。彼女だけは死なせてはいけない。彼女が死ぬくらいなら俺が2回死ぬ。
足は簡単に動いた。否、簡単ではない。簡単なわけがない。しかし、確かにギルハートは走り出していた。
「ドルシラさん!聞こえますか!」
大声で叫んだが、返事はない。
頭の中で状況を整理する。
ここは拠点からかなりの距離があるところなので、増援は期待できない。
ドルシラは、巨大な手の中に包まれており、生死は不明。
相手はギルハートよりも数十倍の体躯がある。
ギルハートの戦闘経験は乏しい。
つまるところ、絶望的な状況だ。
しかし、そんな絶望的な状況でも
ギルハートは足を止めない。理由はただ一つ、ドルシラを助けるため。
ギルバートの戦闘スタイルは、ドルシラ同様得物は使わない。初めは短刀を使っていたのだが、ドルシラから「そんなちびっこい刀使うくらいなら拳の方がましだ」と言われて以来、武器を捨て生身で戦うようになった。ほかのメンバーには止められたが、それでよかった。
ドルシラと違う点は、完全に拳だけではないという点だ。ギルバートは魔法も使う。物理攻撃と魔法を織り交ぜて戦うのがギルバートの戦闘スタイルだ。
それに比べてドルシラは完全なる肉弾戦。ギルバートのように距離を取りながら戦うのではなく、真正面からの殴り合いだ。はたから見れば、とち狂ってるとしか言えないようなそのスタイルは、彼女の常人離れした肉体と、異常な精神でしか成り立たないだろう。
ギルバートは地を蹴り、怪物に向かって走り出す。本来なら様子見をしたいが、そんなことをしている暇はない。
「危ねぇ」
巨大な、天井が降ってきたかと思ったら、それは手の平だった。なんとか寸前で避けることが出来たが、後ろの地面が破裂したのが見える。それを見てギルバートは頭の中で、一発ももらえない、と意識を一新させる。
「あんなの喰らったら、死体も残らないぞ」
しかし攻撃が一発で終わるはずもない。二発目三発目が無慈悲に襲ってくる。まるで、人間が子虫をはたくような感覚でバンバンと地面にその手のひらをたたきつけてきている。
ギルバートは避けるのに必死で、反撃なんて考える余裕はない。
いや、考えろ。
このまま避け続けたとしても、こちらの体力が先に尽きるのは目に見えている。現にギルバートが息を切らしているのに対し、怪獣は遊び感覚だ。
しかし、こちらから攻撃しようにも、対格差がありすぎる。
ギルバートが地上から攻撃しても、せいぜい爪先くらいにしか傷をつけられないだろう。どうにかして、少なくても上半身に近づかなくては勝ちはない。
ドルシラなら、飛び上がって胸に一撃を入れると風穴があくだろうが、残念ながらギルバートには胸の高さまで飛び上がる脚力はないし、仮にそこまで行けたとしても穴なんて開けられない。
飛べないのなら、登るしかない。
そう考えたギルバートは降りかかってきた掌に飛び乗った。
「うおらぁーー!」
叫びながら坂という名の怪物の腕を駆けあがる。傾斜が激しいが、滑りそうになっても全身に生えている毛に掴んで這い上がった。
「ヴォォォォォ!!!」
熊がこちらを向いて咆哮する。虫を払うように腕をぶんぶんと振ったり、ドルシラを掴んでいるもう片方の腕で、落とそうとしているが、それも気合でしがみついて耐えた。
「やっとたどり着いたぞ、ここまで」
上空約80m、その巨大な右肩に立つのはもちろんギルバートだ。
この高度まで来たら、地上にいるより風が強い。しかし、今のギルバートに落下してしまうかも、という恐怖心存在はしない。
右腕に風魔法を纏わせる。
袖が旋風で破け、腕が露になった。妥協なんてできない。この一発にすべてを込める。
熊は自らの肩をはたいた。人間一人に命中したかなど、この巨大な怪物にとっては知覚することさえできないので、自分の手のひらを目で確認する必要がある。
肩から手を離し、その手のひらを見てみると大量の血がついて、
——いなかった。
怪獣は周囲をきょろきょろと見まわした後、もう一度掌を確認した。しかし、どこにも人間の姿はなく、。その眉間には深いしわが寄った。
そして、視線を正面に戻す。そこには右腕を振りかぶった人間が顔の正面にいて、
怪物の記憶はそこまで。
————————眉間に走った衝撃を最後に、意識がブラックアウトした。




