第二節 小さな目
ルリエナが生まれてから、季節がいくつか過ぎた。
春には窓から柔らかな風が入り、夏になると朝から蝉の声が聞こえる。秋には森から持ち帰られた木の実が食卓に並び、冬には家の中に小さな火が灯った。
その間、ルリエナは少しずつ身体を動かすようになっていった。
最初は、手を握ったり開いたりするだけだった。
目の前にあるものへ手を伸ばしても、思うようには届かない。自分の指をじっと見つめ、それからまた手を動かす。
フィーネは、そんな娘の様子をよく笑って見ていた。
「それ、面白い?」
返事の代わりに、ルリエナが指を動かす。
「そう。面白いのね」
フィーネはそう言って、また針仕事へ戻る。
ルリエナの視線は、母親の手元へ向かった。
布を押さえる左手。
右手に持った針が布を抜ける。
糸を引く。
布を少し動かす。
また針を入れる。
同じ動作を何度も繰り返しているのに、手の動きは少しずつ違っていた。
布の端を縫うときと、曲がった部分を縫うときでは、針の向きが変わる。
厚い革を扱うときには、フィーネの指に力が入る。
柔らかな布を扱うときには、手の動きも軽くなる。
ルリエナは、それを黙って見ていた。
「ルリエナ、そんなに見ても、まだお仕事はできないわよ」
フィーネが笑う。
ルリエナは母の顔を見上げ、それからまた手元を見る。
「ふふ。そんなに気になるの?」
フィーネは針を止めなかった。
家の中では、いつも何かが動いている。
母の手
糸
布
火に掛けられた鍋
風で揺れるカーテン
そして、時折帰ってくる父の手にあるもの。
「今日はこれだけ採れたよ」
ガルドが帰ってきた日、フィーネは採ってきた素材を受け取る。
「まあ、綺麗ね」
薬草やキノコに混じって、木の皮や細い蔓が置かれている。
ガルドは一つずつ取り出し、状態を確かめていく。
ルリエナは、その様子を揺り籠から眺めていた。
ガルドが革を取り出したこともあった。
まだ加工されていない革だった。
フィーネが手に取って、指先で表面を撫でる。
「少し硬いわね」
「乾きすぎた」
「これなら?」
「裏を使えばいい」
「なるほど」
二人の会話を聞きながら、ルリエナは革を見ていた。
フィーネがそれを折る。
革が曲がる。
戻る。
今度は別の場所を曲げる。
こちらは、先ほどよりも柔らかい。
指先で触れ、引っ張り、確かめる。
布とは違う。
けれど、フィーネの手は同じように素材の様子を見ていた。
ある日のことだった。
ルリエナは初めて寝返りを打った。
「あっ」
フィーネが声を上げる。
それまで仰向けだった小さな身体が、ゆっくりと横を向く。
肩が動き、腰が続く。
最後に足がついてきて、身体が転がった。
「ルリエナ!」
フィーネが慌てて駆け寄る。
抱き上げると、ルリエナはきょとんとした顔で母を見た。
「びっくりしたわ。もう、そんなことできるの?」
嬉しそうに頬を寄せる。
その後も、ルリエナは少しずつ動けるようになった。
寝返りを打ち、手を伸ばし、身体を起こす。
うまくいかずに倒れることもある。
それでも、しばらくするとまた手を伸ばした。
やがて床を這うようになり、家具につかまって身体を起こすようになった。
立ち上がったとき、フィーネは思わず声を上げた。
「立った・・・!」
ルリエナは両手で机を掴みながら、ふらふらと立っている。
足元はまだ頼りない。
一歩出そうとして、身体が傾く。
「危ない!」
フィーネが抱き止めた。
ルリエナは驚いたように目を丸くしたあと、母の腕の中からもう一度、机を見る。
「もう一回は駄目よ」
フィーネは笑いながら言った。
「まだ早いわ」
けれど、ルリエナは机から目を離さなかった。
その小さな目は、いつも何かを追っていた。
母の針。
父の手。
動く布。
曲がる革。
自分の身体。
家の中で起こる、ささやかな動き。
それらを一つずつ見つめながら、ルリエナは少しずつ、自分の身体の動かし方を覚えていった。




