第三節 小さな足
ルリエナが立ち上がるようになってからも、すぐに歩けるようになったわけではなかった。
何かにつかまって身体を起こす。
そこまではできる。
けれど、手を離せば身体は途端に不安定になる。
足の裏で床を捉えようとしても、まだ力の入れ方が分からない。膝は伸びきらず、身体は前へ傾く。
そして・・・倒れる。
「きゃっ」
尻もちをついたルリエナを、少し離れたところにいたフィーネが抱き上げる。
「大丈夫?」
泣くかと思ったが、ルリエナは泣かなかった。
母の顔を見て、それから自分がさっきまで掴んでいた机を見る。
「・・・もう一回?」
フィーネには、そう言っているように見えた。
「まだやるの?」
笑いながら、ルリエナを床へ戻す。
今度はすぐには立ち上がらない。
両手を床につき、膝をつく。
身体を前へ動かし、机まで這っていく。
机の脚に手を掛ける。
まず片方の足を床につける。
もう片方。
腰を上げる。
身体が揺れる。
それでも、両手でしっかりと机を掴んで立ち上がった。
「上手になったわね」
フィーネが声を掛ける。
ルリエナは振り返った。
母親は少し離れたところにいる。
手を伸ばせば届きそうな距離だった。
ルリエナは母を見る。
それから、自分の足を見る。
もう一度、母を見る。
「おいで」
フィーネが両手を広げた。
ルリエナは机を掴んだまま、しばらく動かなかった。
やがて、小さな手が机から離れる。
身体が揺れた。
慌てて足を動かす。
一歩。
足を着いた瞬間、身体が前へ倒れそうになる。
もう一歩。
「そう、そのまま――」
フィーネが身を低くする。
ルリエナは必死に手を伸ばした。
あと少し。
けれど、足がもつれた。
「わっ」
フィーネが受け止める。
「・・・ふふ」
抱き上げた娘を見て、フィーネは嬉しそうに笑った。
「歩けたわね」
ルリエナは母の腕の中で、何が起きたのか分からないような顔をしている。
けれど、しばらくすると、また床へ降りたがった。
「もう一回?」
ルリエナは答えない。
ただ、母の手を掴んだ。
フィーネはその小さな手を握り返す。
「じゃあ、ゆっくりね」
二人で歩く。
一歩。
また一歩。
ルリエナの足取りは、まだ頼りない。
母の手に身体を預けながら、それでも自分の足で床を踏んでいく。
その頃には、ガルドが帰ってきていた。
戸口から二人の姿を見て、足を止める。
「・・・歩いてる」
「そうなの。今日、初めて一人で二歩も歩いたのよ」
フィーネが嬉しそうに報告する。
「そうか」
ガルドは短く答えた。
それから、ルリエナの元にしゃがみこんで同じ目線で目を見る。
「もう一度、見せてくれるか?」
ルリエナは父を見る。
フィーネを見る。
それから、二人の間を見比べた。
フィーネが手を離す。
ルリエナの身体が揺れた。
右足が出る。
左足。
今度は倒れなかった。
「おお・・・」
フィーネが小さく声を漏らす。
ガルドも目を細めた。
三歩目を出そうとしたところで、ルリエナは尻もちをついた。
「・・・三歩目は駄目だったな」
「もう、あなたはそういう言い方するんだから」
フィーネが笑いながら娘を抱き上げる。
ルリエナは泣かなかった。
父の顔を見て、それから自分の足元を見る。
小さな足が、膝の上で動いている。
指が開く。
閉じる。
また開く。
その様子を、ルリエナはじっと眺めていた。
歩くことは、まだ上手くできない。
けれど、昨日までとは違う。
身体を起こすことができる。
足を踏み出すことができる。
倒れても、また立ち上がることができる。
そんな小さな変化を重ねながら、ルリエナは少しずつ、自分の身体を思い通りに動かす感覚を覚えていった。
やがて、一人で歩けるようになった頃には、家の中を自由に動き回るようになっていた。
フィーネが針仕事をしていれば、その膝元まで歩いてくる。
ガルドが素材を整理していれば、その横にしゃがみ込む。
何かを見つければ手を伸ばし、触れて、確かめる。
まだ言葉は少ない。
それでも、目に映るものは増えていった。
そしてルリエナは、少しずつ家の外へも歩いていくようになった。




