第三節 残されたもの1
昼を過ぎても、ルリエナは作業台の前を離れなかった。
午前中に使っていた革を端へ寄せると、今度は自分の作業机の前へ移動する。工房の隅に置かれた小さな机は、ルリエナが成長するにつれて少しずつ使いやすい高さへ調整されてきたものだった。
大人が使う作業台に比べれば、ずっと小さい。
それでも、ここだけはルリエナの場所だった。
机の上には、使いかけの糸や針、裁ちばさみ、それから小さな布切れがいくつか並んでいる。作業の途中で置き忘れたものも多く、フィーネなら片づけなさいと言うところだが、ルリエナにとっては、どこに何があるのか分かっている状態だった。
ルリエナは机の下へ手を伸ばした。
指先が木箱の取っ手に触れる。
引き出すと、少しだけ埃が舞った。
「・・・これ、まだあったんだ」
蓋を開ける。
中には、さまざまなものが詰め込まれていた。
小さく切った革。
布の端切れ。
縫い合わせたままになっているもの。
一度ほどいて、糸が残っているもの。
使えるかどうか分からないまま放り込んだものまである。
どれも完成品ではない。
けれど、ルリエナにとっては捨てることのできないものだった。
その一つを手に取る。
柔らかな布に、薄い革を縫い付けたものだった。
「・・・これ、いつ作ったんだっけ」
指で縫い目をなぞる。
糸の間隔が揃っていない。
革の端も少し歪んでいる。
今なら、もっと綺麗に仕上げられる。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな恥ずかしさが込み上げてきた。
昔の自分が、そこに残っているような気がした。
上手く作れなかった。
思ったように動かなかった。
何度もやり直した。
それでも、捨てなかった。
ルリエナはしばらくその小さな試作品を見つめていた。
「・・・あの頃は、どうしてこれを作ったんだろう」
思い出そうとすると、ぼんやりと記憶が浮かんでくる。
革は丈夫だから。
布は柔らかいから。
二つを合わせたら、きっといいものになる。
そんな単純な考えだった。
けれど、実際に作ってみると、そう簡単にはいかなかった。
腕を曲げれば革が布の動きを止め、布を引っ張れば革の端に力が集まった。縫い目を変えてみても、今度は別の場所が突っ張る。
当時のルリエナには、その理由がよく分からなかった。
ただ、上手くいかないことだけが悔しかった。
だから、ほどいて、また縫った。
それでも駄目なら、別の布を試した。
革の厚さを変えた。
革を小さくした。
布を少し余らせた。
そうやって作ったものが、この箱の中にはいくつも残っている。
「・・・いっぱいあるな」
ルリエナは苦笑した。
失敗したものを捨てることができず、気がつけば箱の中はいっぱいになっていた。
けれど今になって見ると、不思議だった。
昔は全部が別々の失敗に見えていたのに、今はそれぞれに違う理由が見える。
この革は硬すぎた。
この布は伸びすぎた。
ここは縫い目を細かくしすぎている。
こっちは革の端に力が集中してしまっている。
少しずつではあるけれど、自分が知っていることが増えている。
ルリエナは箱の中から、もう一つ取り出した。
今度は革と革を縫い合わせたものだった。
厚さの違う二枚の革を重ねている。
「これは・・・」
手に取って曲げてみる。
厚い革だけなら動かしにくい。
薄い革だけなら、今度は頼りない。
けれど二枚を合わせると、思っていたよりも扱いやすい。
ルリエナは眉を寄せた。
「昔は、ただ厚くしたかったんだよね」
そう呟いてから、もう一度曲げる。
今なら分かる。
丈夫にしたいからといって、単純に厚くすればいいわけではない。
必要なのは、どこに強さが必要なのかを考えることだ。
腕を守るなら、肘の内側まで硬くする必要はない。
身体を擦る場所には耐久性が欲しい。
けれど、動く場所まで固めてしまえば、今度は身体の動きを邪魔する。
ルリエナは、革を見つめながら考えた。
素材には、それぞれ得意なことがある。
革は丈夫だ。
布は柔らかい。
厚い革には強さがある。
薄い革には動きやすさがある。
ならば、最初から一つの素材だけで全部を補おうとする必要はない。
必要な場所に、必要な素材を使えばいい。
その考えにたどり着いたとき、ルリエナの胸の奥で何かが静かにつながった。
今まで作ってきたものは、失敗だった。
けれど、ただの失敗ではなかったのかもしれない。
あのとき上手くいかなかったからこそ、今になって分かることがある。
そう思うと、箱の中に残された不格好な試作品たちが、少しだけ違って見えた。
「・・・捨てなくてよかった」
ルリエナは小さく笑った。
箱の中には、まだいくつもの組み合わせが残っている。
革と布。
革と革。
植物から取った繊維。
魔獣から採れた毛。
どれも、まだ完成したものではない。
だからこそ、もう一度試してみたいと思った。
昔の自分が試したものを、今の自分ならどう扱えるのか。
以前とは違う目で見れば、同じ素材から別の答えが見つかるかもしれない。
ルリエナは一つずつ試作品を机の上へ並べていった。
気がつけば、小さな机の上は素材でいっぱいになっていた。
「・・・どれからにしよう」
しばらく迷ったあと、ルリエナは最初に作った革と布の組み合わせへ手を伸ばした。
昨日までなら、失敗した試作品として片づけていただろう。
けれど今日は違う。
もう一度、最初から見てみたい。
今の自分なら、この失敗がなぜ失敗だったのか、その理由まで見つけられる気がした。
ルリエナは革と布を重ね、指先でその境目を確かめる。
そして、机の上に小さな紙を置いた。
そこへ、今日気づいたことを書き始める。
革の硬さ。
布の伸び。
縫い目の間隔。
力がかかる場所。
一つずつ書き留めていくうちに、ただの試作品だったものが、少しずつ「素材を知るための記録」に変わっていった。
それは、今までのルリエナにはなかったやり方だった。
作って、失敗して、直す。
それだけではなく、なぜ失敗したのかを考え、次に同じことを試すときの手掛かりとして残しておく。
ルリエナは紙の端へ小さく線を引いた。
「・・・次は、こっちを試してみよう」
工房の隅では、フィーネが黙々と針を動かしている。
母の針の音を聞きながら、ルリエナはまた一つ、箱の中から試作品を取り出した。
小さな箱には、まだたくさんの「分からない」が残っている。
それが、今は嬉しかった。




