第二節 革を読む
町から戻った翌日、ルリエナは工房の奥に置かれていた革を一枚、作業台の上へ広げた。
魔獣から採れた革だった。
大きさはそれほどでもないが、厚みがあり、表面には細かな傷がいくつも残っている。鞣しを終えた革は一見すると扱いやすそうに見えるものの、布とは違って、手に取っただけでは素直に形を変えてくれない。
ルリエナは革の端を両手で持ち、ゆっくりと曲げた。
ぐっと抵抗が返ってくる。
さらに力を加えると、革はようやく折れ始めた。
「・・・硬い」
「その革は、まだ柔らかくできるわよ」
向かいで別の革を扱っていたフィーネが言った。
「でも、柔らかくしすぎても駄目でしょう?」
「そうね」
フィーネは手を止めずに答える。
「何に使うかによって、残す硬さも違うから」
ルリエナはもう一度革を見る。
七歳の頃なら、ただ「硬い革」と考えていたかもしれない。
けれど今は、その硬さにも場所による違いがあることが分かる。
端の部分と中央では感触が違う。
傷のある場所は少し硬く、別の場所には柔らかくしなやかな部分がある。
同じ一枚の革でも、どこを取るかによって仕上がりは変わる。
ルリエナは指先で表面を撫でた。
ざらつき。
細かな凹凸。
そして、指を滑らせた方向によって変わる抵抗。
「・・・こっちのほうが、伸びる」
「分かる?」
「少しだけ」
ルリエナは革を裏返した。
裏側には、表面とは違う柔らかな感触がある。そこへ指を押し当てると、革がわずかに沈んだ。
ルリエナはそのまま革を引っ張る。
横方向にはほとんど伸びない。
ところが、少し向きを変えると、ほんのわずかに形が変わった。
「革って、布みたいにどこでも同じじゃないんだね」
「当たり前でしょう」
フィーネは笑った。
「動物の身体についていたものなんだから」
その言葉に、ルリエナは革を見つめ直した。
布は糸を織ったものだ。
だから織り方によって、ある程度の方向性が生まれる。
けれど革は違う。
生きていた身体の一部を、その形のまま素材として使っている。
どこにあった皮なのか。
どの方向へ身体が動いていたのか。
どれほど力がかかっていた場所なのか。
そうしたものが、一枚の革の中に残っている。
ルリエナは、以前よりも革を見る時間が長くなっていた。
そして最近は、革を見ていると自然に鑑定を使いたくなる。
「・・・《鑑定》」
意識を集中させる。
視界に浮かんだ情報は、以前より少しだけ増えていた。
革。
状態――良好。
硬度――中。
耐久性――高。
魔力親和性――低。
ルリエナはしばらく黙って、それを見つめた。
以前なら、それだけでも十分に驚いていた。
けれど今は、そこから先が気になる。
「硬度は分かるけど・・・」
「何か出たの?」
「うん。でも、どこが一番伸びるかまでは分からない」
フィーネは頷いた。
「だったら、自分で確かめればいいのよ」
その言葉に、ルリエナは少し笑った。
「うん」
鑑定は便利だ。
知らない素材を前にしたとき、最初の手掛かりを与えてくれる。
けれど、それだけで仕立てができるわけではない。
どこを切るか。
どの方向に縫うか。
どこを補強するか。
着た人間がどう動くのか。
それらを決めるのは、自分自身だ。
ルリエナは革を作業台に置き、革用の糸を一本取り出した。
「これ、何を作るの?」
「まだ決めてない」
「決めてないのに切るの?」
「だから、先に試すの」
ルリエナは革の端を小さく切り取った。
切った革を指で折り、丸め、引っ張る。
それから二枚を重ね、縫い合わせる位置を決めた。
革の上に細く線を引き、その線に沿って、等間隔に印をつけていく。
布なら針を入れながら調整することもできるが、革ではそうはいかない。
硬い革ほど、無理に針を押し込めば革を傷める。
ルリエナは印を確認すると、錐を手に取った。
先端を最初の印へ当て、革の厚みを確かめるようにゆっくり押し込む。
ぷつり、と革を貫く感触が指先へ伝わった。
次の穴へ移る。
間隔が揃っていなければ、縫い目も乱れる。
狭すぎれば革そのものが弱くなり、広すぎれば縫い合わせた部分に力が集中する。
ルリエナは一つずつ穴を開けながら、革の硬さと厚みを確かめていた。
「・・・なるほど」
穴を開け終えると、今度は革針に糸を通した。
先ほど作った穴へ針を通し、表と裏から交互に糸を引く。
革同士が少しずつ近づき、縫い目が形になっていく。
「針を通すだけでも、布とは違うね」
「そうでしょう」
フィーネは自分の作業を続けながら答えた。
「革は先に道を作ってあげないと、無理をさせることになるのよ」
「道を作る・・・」
「そう。革を縫うときは、針を動かすだけじゃなくて、革そのものを見なさい」
ルリエナはその言葉を頭の中で繰り返した。
革を布と同じように扱わない。
当たり前のことのようで、実際にやってみると難しい。
柔らかくしたいからといって、柔らかくしすぎれば耐久性を失うかもしれない。
厚いからといって、そのまま丈夫とは限らない。
傷の位置によっては、そこへ力が集中すれば裂けることもある。
素材の性質を知るだけでは足りない。
その性質を、仕立ての中でどう使うかを考えなければならない。
ルリエナは革の上に指を置いた。
「・・・面白い」
思わず声が漏れた。
「何が?」
「同じ革なのに、場所によって全然違う」
フィーネは娘の顔を見て、少しだけ笑った。
「だから職人は、素材を見るのよ」
ルリエナは頷いた。
そして、もう一度革へ目を落とす。
以前の自分なら、革を「魔獣から採れる素材」として見ていた。
今は違う。
この革には、この革にしかない性質がある。
それを見つけて、使えるところを探す。
弱いところには別の素材を合わせ、強いところには力のかかる場所を任せる。
革そのものを変えるのではなく、その性質を生かす。
それは仕立てというより、素材との相談に近いのかもしれない。
ルリエナは小さく切った革を何度も曲げ、最後に縫い目を指で確かめた。
先ほどよりも、ずっと素直に革同士が馴染んでいる。
「・・・分かってきた」
まだほんの少しだけ。
それでも、昨日までより一つだけ先へ進めた気がした。
ルリエナは縫い目を指先でなぞりながら、ふと祖母のことを思い出した。
「お母さん」
「なに?」
「今度、町に行ったとき、おばあちゃんのところにも寄っていい?」
「ミレイアのところ?」
「うん。もう少し革の扱い方を教えてもらいたいの」
フィーネは少し意外そうな顔をしたあと、すぐに微笑んだ。
「いいわよ。あの人も喜ぶと思うわ」
ミレイアは町で一人暮らしをしている。
仕立ての仕事を続けながら、必要なときには娘や孫の顔を見に村へ来ることもあるが、普段は町の小さな家で暮らしていた。
「じゃあ、次に町へ行くときに声をかけるわ」
「うん」
ルリエナは嬉しそうに頷いた。
祖母なら、母とはまた違うことを教えてくれるかもしれない。
そう思いながら、もう一度、作業台の上の革へ目を落とした。
まだ知らないことがある。
だからこそ、もっと知りたかった。




