第四節 精霊の住む森
その古文書を、アルヴェリスは何度も読み返していた。
開拓団に加わる前、街で古い資料を調べていたときに見つけたもので、紙は黄ばんで端もところどころ欠けている。
文字も今使われているものとは違い、読める部分は決して多くなかった。
それでも、アルヴェリスは捨てなかった。
読めるところを一つずつ拾い、分からない文字は別の記録と照らし合わせ、意味の通りそうな部分を紙の余白に書き足していく。
ガルドは、そんな父の姿を隣で眺めていた。
「父さん、それ、何の本?」
「本というより、記録だな」
「何が書いてあるの?」
「この土地について書かれたものらしい」
「この森のこと?」
「ああ」
ガルドは興味を引かれ、父の横へ身体を寄せた。
アルヴェリスはしばらく黙って紙をめくっていたが、やがて一つの箇所で指を止めた。
「ここだ」
「読める?」
「一部だけならな」
アルヴェリスは古い文字を目で追い、その意味を確かめるように何度か読み直した。
「・・・『木を傷つけるな』」
「木を?」
「ああ」
「どうして?」
「それが分からない」
ガルドは古文書を覗き込んだ。
そこには、確かに木に関する記述が残されている。しかし、その理由までは書かれていない。
「この森の木?」
「おそらくな」
「じゃあ、切っちゃ駄目なの?」
「少なくとも、この記録を書いた者はそう考えていたらしい」
ガルドは少し考えた。
「・・・精霊がいるからじゃない?」
アルヴェリスが顔を上げた。
「どうしてそう思う?」
「木を傷つけちゃいけないなら、そこに大事なものがいるんじゃないかな」
「なるほど」
アルヴェリスは否定しなかった。
「それは一つの考え方だ」
「やっぱり精霊?」
「さあな」
父がいつものように答えを濁したので、ガルドは少し不満そうな顔をした。
「でも、みんな精霊の森って呼んでるよ」
「そうだな」
アルヴェリスは古文書を閉じた。
「だが、それは『精霊がいるから精霊の森』と決まったわけではない」
「違うの?」
「たぶん、順番が逆だ」
アルヴェリスは窓の外へ目を向けた。
村から見える森は、昼間でも木々に覆われて薄暗い。長い年月を生きてきた木々が枝を重ね、その奥には人の足があまり入らない場所も多い。
「昔の人が、木を傷つけてはいけないという記録を見つけた。それがなぜなのか分からなかった。だから、そこには何か神聖なものがいるのではないかと考えたのかもしれない」
「神聖なものって?」
「人には見えないものや、普通の生き物とは違うものだな」
「それが精霊?」
「そう考えた人がいたのだろう」
ガルドは古文書を見る。
「じゃあ、本当に精霊がいるかは分からない?」
「ああ」
「父さんも見たことない?」
「ない」
「じゃあ、いないの?」
「それも分からない」
アルヴェリスは笑った。
「見たことがないことと、存在しないことは同じじゃない。ただ、見たことがないものを『いる』と決めることもできない」
ガルドは黙り込んだ。
父が何を言いたいのか、少しずつ分かってきた。
村の人々が「精霊の森」と呼んでいる。
古文書には「木を傷つけるな」と書かれている。
そこから「神聖なものがいるのではないか」と考えられ、さらに「精霊が住んでいるのではないか」と考えられた。
けれど、それは一つの考えであって、確かめられた事実ではない。
「じゃあ・・・精霊の森っていう名前も、誰かが考えたの?」
「そういうことだ」
「誰が最初に呼んだの?」
「それも、まだ分からない」
アルヴェリスは古文書を大切そうに畳んだ。
「だから調べている」
「森のことだけじゃなくて?」
「ああ。この記録を書いた人が何を見ていたのか、この森で何が起きていたのか、それを知りたい」
ガルドは父の顔を見た。
アルヴェリスは、精霊がいることを証明しようとしているわけではない。
精霊がいないことを証明しようとしているわけでもない。
ただ、分からないから調べている。
「父さんは、知りたいんだね」
「ああ」
「どうして?」
「知らないからだ」
それは、これまで何度も聞いた父の言葉と同じだった。
知らない。
だから見る。
考える。
記録を探す。
そして、自分で確かめる。
ガルドは古文書の端に残った文字を、もう一度眺めた。
たった一行の記述だった。
けれど、その一行からでも、知らないことがいくつも生まれてくる。
なぜ木を傷つけてはいけないのか。
誰がそう決めたのか。
この森には、何があるのか。
そして――本当に、精霊はいるのか。
「父さん」
「なんだ?」
「僕も調べていい?」
アルヴェリスは少しだけ目を細めた。
「もちろんだ」
そう答えてから、古文書をガルドの前へ置く。
「ただし、最初から答えを決めるな」
ガルドは頷いた。
「うん」
その日からガルドは、村の人々が何気なく口にする「精霊の森」という言葉にも、少しだけ違ったものを感じるようになった。
それは昔からそこにあった名前ではない。
誰かが見つけた記録をもとに、誰かが考え、誰かが語り、それが長い時間をかけて名前になったものだ。
名前の向こう側には、まだ知られていない理由がある。
そしてアルヴェリスは、その理由を探していた。




