第二節 記されたこと
翌日も、アルヴェリスとガルドは森へ入った。
昨日と同じように、アルヴェリスが先を歩き、その後ろをガルドがついていく。
けれど、昨日とは少しだけ違っていた。
ガルドは歩きながら、周囲を意識して見るようになっていた。木の高さ、地面の湿り具合、苔の生え方、鳥の声。父に言われたからというだけではなく、自分で気になるものを探そうとしている。
しばらく進んだところで、ガルドが足を止めた。
「父さん」
「どうした?」
「あれ・・・」
前方の茂みが揺れていた。
葉の間から姿を現したのは、小さな魔獣だった。犬ほどの大きさで、灰色の毛に覆われている。
こちらに気づくと、足を止めて二人を見つめた。
ガルドの身体がわずかに強張る。
アルヴェリスは腰の剣に手をかけることもなく、ただ魔獣を見ていた。
「父さん、逃げないの?」
「まだ、その必要はない」
「でも、魔獣だよ」
「ああ」
魔獣は鼻を鳴らし、こちらを警戒するように頭を低くした。
それでも、近づいてはこない。
ガルドはアルヴェリスの横顔を見た。
「・・・来ないね」
「そうだな」
「どうして?」
アルヴェリスは魔獣から目を離さないまま答えた。
「この森の魔獣が、何でも見つけたものを襲うわけではないからだ」
「じゃあ、近づいたら?」
「それは分からない」
「分からないの?」
「どこまで近づけば襲ってくるのか、個体によっても違うだろう。だが、少なくとも今は、
こちらを警戒しているだけだ」
アルヴェリスはそう言って、地面に落ちていた小石を拾った。
そして魔獣との距離を測るように、しばらく周囲を見回した。
「ガルド。昨日の話を覚えているか?」
「分からないことを、分からないまま覚えておく」
「そうだ。なら、これも覚えておけ」
アルヴェリスは魔獣を指差した。
「魔獣には、それぞれ縄張りがある」
「縄張り?」
「ああ。自分が暮らしている場所だ。そこへ他の生き物が入ってくれば、警戒する。さらに近づけば、追い払おうとすることもある」
「じゃあ、ここはあの魔獣の縄張りなの?」
「おそらくな」
ガルドは周囲を見回した。
魔獣は二人を見ている。
逃げるわけでもなく、襲ってくるわけでもない。
ただ、一定の距離を保ったまま、こちらの動きをうかがっていた。
「・・・あいつ、僕たちがいることは分かってるよね」
「もちろんだ」
「なのに、来ない」
「ああ」
アルヴェリスはそこで初めて、腰の剣から手を離した。
「だから覚えておけ。魔獣に出会ったからといって、すぐに戦う必要があるとは限らない」
「じゃあ、逃げなくてもいい?」
「それも違う」
ガルドが首を傾げる。
「どうして?」
「相手がどこまで近づけば攻撃するのか、それを知らないからだ」
アルヴェリスは足元の土を見た。
そこには獣の足跡がいくつも残っている。魔獣が普段どの辺りを歩き、どこからこちらを見ていたのか、そうしたものを確かめるように、視線を動かしていく。
「古い記録に、似たことが書かれていた」
「古い記録?」
「ああ。開拓団がこの土地へ入った頃より、もっと古い記録だ」
アルヴェリスは背負っていた袋から、折り畳んだ紙片を取り出した。
何度も読み返した跡があり、端は擦り切れている。
「そこには、魔獣が人を見つけても、一定の距離を越えなければ攻撃しない、とある」
「本当なの?」
「記録が正しいならな」
アルヴェリスは紙片を閉じた。
「だが、書いてあるからといって、そのまま信じてはいけない」
「・・・父さんが書いたものじゃないのに?」
「だからこそだ」
ガルドには、その意味がまだよく分からなかった。
アルヴェリスはそんな息子を見て、少しだけ笑う。
「誰かが残した記録も、誰かが見つけたものも、まずは手掛かりだ。そこから自分で確かめていく。そうすれば、ただの知識が、自分の知っていることになる」
魔獣が茂みの向こうで身を翻した。
こちらを警戒しながらも、それ以上近づくことはなく、そのまま森の奥へ消えていく。
ガルドは、その姿をじっと目で追った。
「・・・父さん」
「なんだ?」
「明日、また同じ場所に来たら、あいつはいるかな?」
「分からない」
「じゃあ、確かめてみたい」
アルヴェリスは頷いた。
「それでいい」
ガルドはもう一度、魔獣が消えた茂みを見る。
昨日までなら、魔獣を見れば怖いと思うだけだった。
けれど今は違う。
どこまで近づけば警戒するのか。
どこから先へ入れば攻撃するのか。
そもそも、なぜその場所を縄張りにしているのか。
新しい疑問が、次々と浮かんでくる。
アルヴェリスはそんな息子の横顔を見ながら、何も言わなかった。
教えることは、答えを渡すことではない。
自分で問いを見つけられるようにすることだ。
そしてガルドは、この日もまた一つ、森の中で知らないものを見つけた。




