第一節 万識(ばんしき)のアルヴェリス
朝靄の残る森の中を、二人の男が歩いていた。
先を行くのは、まだ二十代のアルヴェリス。その身体は細身ではあったが、長い探索の日々で鍛えられた筋肉が無駄なくついている。腰には剣を佩き、背には採取したものを入れる袋を背負っていた。
その少し後ろを、七歳になったばかりのガルドがついていく。
ガルドの母親は、すでにこの世にいない。
だからアルヴェリスが森へ入るとき、幼い息子を村に残していくことができず、自然と連れて歩くようになった。
最初の頃は、ただ父親の後ろを歩いているだけだった。
けれど、何度も森へ入るうちに、ガルドは少しずつ周囲を見るようになっていた。
その日も、頭上を見上げながら歩いていたガルドは、ふと足を止めた。
「父さん」
「なんだ?」
「・・・この森って、暗いね」
アルヴェリスも足を止め、息子の視線を追った。
森の上には、巨大な木々が幾重にも枝を広げている。葉と葉が重なり合い、
朝だというのに地面まで届く光はわずかだった。ところどころに細い光の筋が落ちているものの、
それも木々の間を抜けるうちに薄れている。
「そうだな」
「どうして?」
「何がだ?」
「どうして、こんなに木がいっぱいあるのに、下は暗いの?」
アルヴェリスはすぐには答えなかった。
ガルドが振り返って父を見ると、アルヴェリスは頭上の枝葉を眺めたまま、しばらく考えている。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「よく考えろ」
「・・・考える?」
「お前は今、何を見た?」
「木がいっぱいある」
「それだけか?」
ガルドはもう一度、周囲を見回した。
大きな木。太い幹。地面に積もった落ち葉。木の根元に生える草や苔。
少し離れたところには、細い沢も流れている。
けれど、確かに暗い。
「・・・お日さまが、あんまり入ってこない」
「そうだな」
「じゃあ、草とかも少ない?」
「村の近くの森と比べてみろ」
言われてみれば、違いが分かる。
普段歩いている森なら、木々の間にはもっと草が生え、低い木や花も見つけられる。
けれど、この森では地面を覆っているのは苔や落ち葉が多く、陽の光を必要とする草花は少なかった。
ガルドはしばらく黙って考えた。
「・・・食べるものが少ないから?」
「何の食べるものだ?」
「獣の」
アルヴェリスは小さく頷いた。
「では、獣を食べるものは?」
「もっと少なくなる?」
「そう考えることはできる」
それだけ言うと、アルヴェリスは再び歩き始めた。
ガルドも慌てて後を追う。
しばらく進むと、小さな沢に出た。澄んだ水の中には、小さな魚が何匹か泳いでいる。
ガルドはしゃがみ込み、魚を目で追った。
「魚はいる」
「ああ」
「魚がいるなら、それを食べる獣もいるんじゃない?」
「いるかもしれないな」
「じゃあ、どうして大きな獣はいないの?」
アルヴェリスは答えず、沢の向こう側へ視線を向けた。
確かに、この森には小さな生き物がいる。虫もいるし、小さな獣の足跡を見つけることもある。
鳥の声だって聞こえる。
それなのに、森を歩いていても、大型の獣にはほとんど出会わない。
それは、この森へ入るようになってからアルヴェリス自身が何度も感じていた疑問だった。
「俺にも、まだ分からない」
「父さんにも?」
「ああ」
ガルドは少し驚いた顔をした。
父は何でも知っていると思っていた。
森に入れば、見つけた植物の名前を教えてくれる。足跡を見れば、どんな生き物が歩いたのかを考え、
石や鉱物を見れば、どこから流れてきたものなのかまで調べようとする。
それでも、分からないことがある。
アルヴェリスはそんな息子の顔を見て、わずかに笑った。
「分からないことがあるのは、悪いことじゃない」
「そうなの?」
「分からないと気づけるなら、その先を調べられる。何も考えずに『そういうものだ』と決めてしまえば、そこで終わる」
アルヴェリスは沢の水を一度眺め、それから頭上を覆う木々へ目を向けた。
「この森に大きな獣がいない理由も、まだ分からない。だが、今日、お前は一つ見つけた」
「何を?」
「この森には、光が少ない」
ガルドは頭上を見上げた。
「光が少ないから、地面に生えるものも違う。生えるものが違えば、そこに暮らす生き物も変わる。そう考えることはできる」
「じゃあ、それが理由?」
「まだ分からない」
アルヴェリスはそこで言葉を切った。
「だから覚えておけ。分からないことを、分からないまま覚えておくんだ」
ガルドは父の言葉を頭の中で繰り返した。
分からないことを、覚えておく。
それは、子供のガルドには少し不思議な言葉だった。
分からないなら、答えを聞けばいい。
そう思っていたからだ。
けれど、アルヴェリスはすぐに答えを教えてくれない。
見て、考えさせて、それでも分からなければ、分からないというところまで連れていく。
そのやり方が、ガルドの中に少しずつ残っていった。
「父さん」
「なんだ?」
「明日も来る?」
「明日も来るつもりだ」
「じゃあ、明日はもっと見てみる」
アルヴェリスは息子を振り返り、その言葉に小さく頷いた。
「ああ。よく考えろ」
二人は再び森の奥へ向かって歩き始めた。
頭上では巨大な木々が枝を重ね、その隙間からわずかな光だけが落ちている。
その森には、まだ二人の知らないことがいくつも眠っていた。
そしてアルヴェリスは、それを一つずつ見つけるたびに、考え、調べ、確かめようとしていた。
それが後に、人々から彼を――「万識のアルヴェリス」と呼ばせることになる、長い探究の始まりだった。




