第十八節 森の奥へ
数日後。
朝早く、ルリエナはガルドの背中を追って森へ向かっていた。
いつもの採取ではない。
今日は、いつもより少しだけ森の奥へ入る。
「お父さん」
「ん?」
「今日は、どこまで行くの?」
「いつもの場所より、少し先だ」
ガルドは振り返らずに答えた。
「少し先?」
「ああ。お前も、もう七歳だからな」
その言葉に、ルリエナは足取りを速めた。
これまでにも、何度も父と森へ入ってきた。
薬草を探したこともある。木の実を拾ったこともある。革の材料になるものを見つけたこともあった。
けれど、いつも決まった場所までだった。
その先には、まだ行ったことがない。
森は、知っている場所と知らない場所の境目が分かりにくい。
同じような木が並び、同じような草が生えている。
けれど、ガルドは迷わなかった。
足を止めることもなく、木の根を避け、斜面を選び、倒れた枝をまたいで進んでいく。
ルリエナはその後ろを歩きながら、周囲を見回した。
いつもの森と、何かが違う。
木々が少し高い。
地面の湿り気も違う。
鳥の声が遠くなり、代わりに葉の擦れる音が大きく聞こえる。
「・・・お父さん」
「なんだ?」
「ここ、いつもの森と同じ?」
ガルドは足を止めた。
周囲を見渡し、それから小さく笑う。
「同じ森だ」
「でも、違う感じがする」
「よく気づいたな」
ガルドはしゃがみ込み、地面に手を触れた。
「土が少し湿ってる。こっちは水が集まりやすいんだ」
「だから?」
「植物が変わる。植物が変われば、そこにいる生き物も変わる」
ルリエナは周囲を見た。
言われてみれば、足元の草も、いつもの場所で見るものとは少し違っている。
「鑑定してみてもいい?」
「ああ」
ルリエナは近くの草に目を向けた。
意識を集中させる。
「・・・鑑定」
頭の中に、いくつかの情報が浮かんだ。
植物の名前。
簡単な性質。
けれど、それだけだった。
ルリエナは草から目を離した。
「分かった」
「何が?」
「名前と、少しだけ性質。でも・・・これが、ここで採っていいものなのかは分からない」
ガルドが笑った。
「それでいい」
「いいの?」
「ああ。前にも言っただろ。鑑定は最初の一歩だ」
ルリエナは草をもう一度見る。
名前が分かる。
性質も少し分かる。
けれど、それだけでは、この森で何をすべきかまでは分からない。
ガルドは立ち上がった。
「森は、名前だけで歩けるほど簡単じゃない」
そう言って、再び歩き始める。
ルリエナも続いた。
しばらく進むと、木々の間に細い流れが見えてきた。
水は浅い。
けれど、流れの向こうには今まで見たことのない植物がいくつも生えていた。
葉の形も違う。
茎の色も違う。
その中には、見たことのない花もあった。
「・・・知らない」
ルリエナの口から、自然に言葉がこぼれた。
ガルドは何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑っている。
ルリエナは花の前にしゃがみ込んだ。
鑑定を使おうとして、手を止める。
「・・・先に見たほうがいい?」
「そうだな」
ルリエナは花をよく見る。
葉の形。
茎の太さ。
花びらの色。
周囲の土。
水との距離。
風が当たる場所なのか、それとも木々に守られているのか。
今まで父に教わったことを、一つずつ思い出していく。
それから、ゆっくりと鑑定を使った。
「・・・分かった」
「何だった?」
「名前は分かった。でも、どう使うものなのかは分からない」
「なら、覚えておけ」
「覚える?」
「ああ。今日見た場所と一緒にな」
ガルドは花には触れなかった。
「森では、名前だけ覚えても役に立たないことがある。どこに生えていたか。いつ咲いていたか。周りに何があったか。そういうことを一緒に覚えておけば、次に見つけたときに意味が変わる」
ルリエナは花を見る。
名前だけではなく。
この場所で。
この季節に。
この土の上で。
この花が咲いている。
それら全部を覚える。
「・・・お父さんは、こういうのを全部覚えてるの?」
「全部じゃない」
「え?」
「忘れることもあるさ」
ガルドは笑った。
「だから、また見るんだ」
ルリエナはその言葉を聞いて、少しだけ嬉しくなった。
父でも、知らないことがある。
忘れることもある。
それでも、また見て、また覚える。
知るということは、一度分かったら終わりではないのかもしれない。
そのとき、森の奥から低い音が聞こえた。
枝が折れる音だった。
ルリエナの身体がこわばる。
ガルドがすぐに手を上げた。
足を止める。
森の音が戻ってくる。
風。
葉。
遠くの鳥。
そして、しばらくしてから、何かが離れていく気配がした。
「・・・今の、何?」
「分からん」
ガルドは音のした方向を見た。
「分からないの?」
「ああ」
ルリエナは少し驚いた。
父なら、何でも知っていると思っていた。
けれど、ガルドはしばらく森を見つめたあと、静かに言った。
「分からないものを、分からないままにしておくこともある」
「怖くない?」
「怖いさ」
その答えが意外で、ルリエナは父を見上げた。
「だから、無理に近づかない」
ガルドはそう言って、来た道を少し戻った。
「知ることと、確かめに行くことは同じじゃない。知らないなら、知らないなりに距離を取る。それも森を歩くってことだ」
ルリエナは頷いた。
帰り道、ルリエナは何度も後ろを振り返った。
木々の向こうには、何も見えない。
それでも、その奥に自分の知らない場所が続いていることだけは分かる。
「お父さん」
「なんだ?」
「いつか、もっと奥まで行ける?」
ガルドは少しだけ考えた。
「お前が、もっと森を知ったらな」
「じゃあ、知る」
ルリエナは迷わず答えた。
「もっと知って、もっと上手になったら、一緒に行ってくれる?」
ガルドは振り返り、娘を見る。
そして、いつものように大きな手をルリエナの頭に置いた。
「ああ。そのときにな」
ルリエナは笑った。
村へ戻る道を歩きながら、今日見たものを一つずつ思い返していく。
名前を知った草。
初めて見た花。
湿った土。
水の流れ。
森の奥から聞こえた、知らない音。
どれも、昨日までのルリエナなら気づかなかったものだった。
けれど、知ったからといって、すべてが分かったわけではない。
むしろ、少し分かるようになったからこそ、その先にまだ知らないものがあることが見えてくる。
素材を知れば、その違いが見えてくる。
人を知れば、その人に必要なものが見えてくる。
魔法を知れば、できることと、できないことが見えてくる。
そして森を知れば、その奥にまだ知らない場所があることが分かる。
ルリエナは、これまで父や母から教わってきたことを思い返した。
見て、触れて、考えて、作る。
失敗したら、また考える。
分からなければ、もう一度見る。
そうして少しずつ分かるようになったと思ったとき、また新しい「分からない」が現れる。
それは、終わりではなかった。
むしろ、その先へ進むための道しるべのように思えた。
ルリエナは前を歩くガルドの背中を見つめた。
父は、自分よりずっと多くのものを知っている。
けれど、父にも知らないものがある。
だからこそ、また森を見るのだろう。
「・・・知るって、終わらないんだね」
小さく呟いた言葉は、森の風に紛れて消えた。
ガルドは振り返らなかった。
ただ、歩く速度をほんの少しだけ緩めた。
ルリエナはその背中に追いつき、並んで歩いた。
七歳になってから、たくさんのことを知った。
魔法。
鑑定。
素材。
人の身体。
仕立て。
そして、通り名に込められた、人の生き方。
けれど、知ったものより、まだ知らないもののほうがずっと多い。
それでも、もう怖くはなかった。
知らないからこそ、見てみたい。
分からないからこそ、知りたい。
その気持ちは、いつの間にかルリエナの中に根を張り始めていた。
森の木々の間から、村の屋根が見えてくる。
いつもの景色だった。
けれど、今日のルリエナには、少しだけ違って見えた。
世界は、知れば知るほど広くなる。
そのことを知っただけでも、七歳のルリエナにとっては大きな一歩だった。
ルリエナは、もう一度だけ森を振り返った。
木々の向こうには、まだ知らない場所がある。
いつか、そこへ行く日が来るのだろう。
そのとき、自分は何を知るのだろう。
そんなことを考えながら、ルリエナは父とともに村へ帰っていった。
その背中を、深い森は何も言わずに見送っていた。




