第十七節 不倒(ふとう)
翌日、ルリエナはレオンの家を訪ねた。
昨日聞いた「不倒」という言葉が、頭から離れなかった。
倒れても起き上がる。
それが本当なら、レオンがよく転ぶことも、少しだけ納得できる気がする。
「レオン、いる?」
「いるぞー!」
家の奥から声が返ってきた。
ルリエナが中へ入ると、レオンは庭で木剣を振っていた。
何度か振るううちに、足がもつれる。身体が前へ流れた。
「あっ」
レオンは地面へ手をつく代わりに、身体を丸めて転がった。
そのまま勢いを逃がし、すぐに立ち上がる。
「・・・今の、マレナおばさんに教えてもらったやつ?」
「ああ。転ぶときは身体を丸めろって」
レオンは何事もなかったように木剣を構え直した。
その様子を、ルリエナは少し不思議な気持ちで見ていた。
転んだ。
けれど、そこで終わらない。
すぐに立って、また剣を構える。
「レオン」
「ん?」
「昨日の『不倒』って、やっぱりこういうことなのかな」
「そうだと思う」
レオンは少し得意そうに答えた。
「倒れても、また立つ。とうちゃんがそう言ってた」
「じゃあ、レオンも不倒?」
「もちろん!」
その声を聞いて、家の中からマレナが顔を出した。
「何の話をしてるんだい?」
「不倒の話!」
レオンが元気よく答える。
マレナは一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「そうかい」
「かあちゃんは?」
「ん?」
「かあちゃんも、そういう名前なの?」
マレナは少し考えるように首を傾けた。
「私かい? 私は『不退』だよ」
「不退?」
ルリエナとレオンの声が重なった。
「ああ」
マレナは穏やかに笑う。
「似たような言葉だけどね。少し違うんだ」
「どう違うの?」
ルリエナが尋ねる。
マレナは庭にいるレオンへ目を向けた。
「転ぶことはある。失敗することもある。立てなくなることだってあるさ」
片方しかない腕を、マレナはわずかに動かした。
「でも、自分から諦めることはしない。退かない。それが『不退』さ」
レオンは母の言葉を聞きながら、少しだけ考え込む。
「でも、かあちゃんだって転ぶじゃん」
「そりゃあ、転ぶこともあるよ」
「じゃあ、不倒じゃないの?」
「そうだね」
マレナは笑った。
「私は不倒じゃない。不退なんだ」
「・・・よく分かんない」
「今は分からなくてもいいさ」
マレナはレオンの頭を軽く撫でた。
「いつか、自分で分かる日が来るよ」
ルリエナは黙って二人を見ていた。
不倒。
不退。
似ているようで、少し違う。
倒れても立ち上がることと、どんなことがあっても自分から退かないこと。
どちらも、ただ強いというだけの言葉ではないのだろう。
そのとき、家の奥からレオニスが出てきた。
「お、ルリエナも来てたのか」
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
レオニスはレオンの木剣を見る。
「練習してたのか?」
「うん!」
「じゃあ、もう一度やってみろ」
レオンが木剣を構える。
レオニスは少し離れたところに立ち、黙って見ている。
レオンが踏み込んだ。
足を置き、腰を回し、木剣を振る。
けれど、力が入りすぎて身体が流れた。
レオンは一歩よろめいた。
「おっと」
それでも、今度は転ばなかった。
「さっきよりいいな」
レオニスが言う。
「ほんと?」
「ああ。身体が崩れそうになったときに、足を出せてる」
レオンは嬉しそうに笑った。
ルリエナは、その足元を見る。
剣を振る動きだけではない。
失敗したときに、どう立て直すか。
転びそうになったときに、どう身体を動かすか。
それもまた、身体を知るということなのだ。
「レオニスさん」
「ん?」
「不倒って、強い人の名前なの?」
レオニスは少し考えてから答えた。
「昔は、そういう意味で呼ばれてたこともあるかもしれんな」
「今は?」
「俺は、もっと別のものだと思ってる」
レオニスはレオンを見る。
「倒れないことが強さじゃない。倒れたときに、どうするかだ」
ルリエナは静かに頷いた。
それは、さっきマレナが言ったことと、どこか似ていた。
けれど、同じではない。
不倒。
不退。
その違いを、ルリエナはまだうまく言葉にはできなかった。
ただ、その二つの言葉が、それぞれの人の生き方を表していることだけは分かった。
ルリエナは家の中にいるマレナへ目を向けた。
片腕を失っても、レオンに身体の動かし方を教えている。
転び方を教え、立ち上がり方を教える。
その姿を見ていると、「不退」という言葉が少しだけ身近に感じられた。
そして、ふと自分のことを考える。
仕立ても、同じなのかもしれない。
作って、失敗する。
着せてみて、動きに合わない。
縫い直して、また試す。
それでも駄目なら、もう一度考える。
うまくいかなかったからといって、そこで終わる必要はない。
直せばいい。
やり直せばいい。
もっと良い方法を探せばいい。
ルリエナは、以前母に教えてもらったことを思い出した。
――動かなくするのではない。
動いても、邪魔にならないようにする。
服も、剣も、身体も。
きっと、知れば知るほどつながっていく。
「・・・不倒って、いい言葉だね」
ルリエナが呟くと、レオンが笑った。
「だろ?」
「でも、レオンはよく転ぶけどね」
「またそれかよ!」
レオンが抗議すると、マレナが声を上げて笑った。
レオニスも笑っている。
ルリエナも、つられて笑った。
庭に笑い声が広がる。
その中で、ルリエナはもう一度「不倒」という言葉を思い浮かべた。
倒れないことではない。
倒れても、また立つこと。
そして、不退は――倒れたとしても、自分から退かないこと。
それは、長い時間をかけて生きてきた人たちが、自分たちの生き方に重ねてきた名前なのかもしれない。
ルリエナは、少しだけ「通り名」というものが分かったような気がした。
名前には、その人が歩いてきた道が残ることがある。
ならば――。
父の「深森」にも、まだ自分の知らない道があるのだろう。
そう思った瞬間、ルリエナはまた、その先を知りたくなった。




