第十六節 通り名
村の中を歩いていると、ときどき不思議な呼ばれ方をする人がいる。
名前を呼んでいるのに、名前とは別の言葉が一緒についている。
ルリエナがそれに気づいたのは、七歳になってしばらく経った頃だった。
「深森の、今日は森かい?」
村の広場で、荷物を運んでいた男が声をかけた。
「ああ。昼までには戻る」
父はいつものように答えて、そのまま歩いていく。
ルリエナは、その背中を見ながら首を傾げた。
「・・・お父さん」
「ん?」
「『深森』って、なに?」
ガルドが振り返る。
「何って?」
「みんな、お父さんのことを『深森のガルド』って呼んでるよね」
「ああ」
「ガルドだけじゃ駄目なの?」
ガルドは少し考えてから笑った。
「そう呼びたい人がいるなら、別にいいんじゃないか?」
「でも、名前じゃないんでしょう?」
「名前とは違うな。通り名っていうんだ」
「通り名?」
「その人の仕事とか、やってきたこととか、特徴なんかからつく名前だ。人によっては、名前より通り名のほうが知られてることもある」
ルリエナは少し考えた。
「じゃあ、お父さんは森にいるから『深森』?」
「まあ、そんなところだ」
なんとなく納得しかけたところで、家に帰ってから、今度は母にも聞いてみた。
「お母さん」
「なに?」
「お父さんの『深森』って、どうしてついたの?」
フィーネは手を止め、少しだけ考えるような顔をした。
「そうねえ・・・」
それからガルドのほうを見て、口元を緩める。
「森の奥の方で迷ったからじゃない?」
「・・・」
ガルドの手が止まった。
「おい」
「だって、深い森まで行って帰ってこないことがあるじゃない」
「迷ってるんじゃない。仕事で行ってるんだ」
フィーネは楽しそうに笑う。
「そうだったわね」
ルリエナは二人の顔を交互に見た。
「・・・本当に迷ったことはないの?」
「ない」
ガルドが即答する。
「一度も?」
「一度もだ」
「本当に?」
「本当だ」
そこまで言い切ったところで、フィーネが吹き出した。
ガルドは困ったように頭を掻く。
「・・・まあ、昔は道を間違えたことくらいはある」
「ほら」
「迷ったんじゃない。道を間違えただけだ」
「それを迷ったっていうんじゃない?」
「違う」
ルリエナは思わず笑った。
父が森で道を間違えたことがあるというだけで、なんだか少し意外だった。
いつも森を歩いているときのガルドは、どこへ行けばいいのか迷う様子など少しも見せない。
木の形を見て、足元の土を見て、風の向きを感じながら歩いていく。
そんな父でも、最初から森を知っていたわけではないのだろう。
「じゃあ、本当はどうして『深森』なの?」
ルリエナが改めて尋ねると、ガルドは少しだけ黙った。
「それは・・・」
そして、いつものように笑った。
「もう少し大きくなったら教えてやる」
「また?」
「今のお前には、まだ早い」
「知りたいのに」
「知りたいなら、いろんなことを知ってからだ」
ルリエナは少し頬を膨らませた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
いつか分かることなら、そのときまで待てばいい。
そう思えるようになったのは、以前より少しだけ大人になったからかもしれない。
それから数日後。
今度はレオンと一緒に村を歩いていたとき、別の呼び方を耳にした。
「不倒のところの息子さんだろ?」
村の男がレオンに声をかけている。
「うん、そうだけど」
レオンが答える。
ルリエナはその言葉を聞いて、すぐに反応した。
「レオン」
「ん?」
「『不倒』ってなに?」
「え?」
「この前、お父さんに聞いたの。通り名なんだって」
「ああ、不倒か」
レオンは少し嬉しそうに胸を張った。
「俺の家のことだよ」
「家の?」
「うん。父さんも、じいちゃんも、ずっと『不倒』って呼ばれてる」
「どうして?」
レオンは一瞬考えた。
「倒れないから・・・かな?」
「それだけ?」
「たぶん」
ルリエナは首を傾げた。
「でも、レオンはよく転んでるじゃない」
「・・・」
レオンの顔が固まった。
「この前だって、走ってて転んだよね」
「・・・あれは転んだんじゃない」
「転んでたよ」
「転んだけど、すぐ起きた」
「うん」
「だから、不倒なんじゃないか?」
レオンは真剣な顔で言った。
ルリエナは少し考えてから、首を傾げる。
「転ばないんじゃなくて?」
「そう。倒れても起きる」
「それなら、レオンにぴったりかも」
「だろ?」
レオンは嬉しそうに胸を張った。
「父さんも言ってた。うちの『不倒』は、倒れても終わらないって」
「じゃあ、本当にそういう意味なのかな」
「たぶん」
「また、たぶんなんだ」
「だって、俺も詳しくは知らないし」
二人は顔を見合わせた。
レオンは少し考えてから、照れたように笑う。
「でも、俺は『不倒』って呼ばれるの、好きだぞ」
「どうして?」
「なんか、強そうだから」
「レオンらしいね」
「だろ?」
そう言って笑うレオンを見ながら、ルリエナは「不倒」という言葉を頭の中で繰り返した。
倒れない。
もしそれが本当なら、レオンがこれから剣を覚えていくうえでも、大切な名前になるのかもしれない。
けれど、その本当の意味は、まだ二人とも知らなかった。
――通り名。
それは、ただの別の名前ではないらしい。
その人が何をしてきたのか。
何を得意としているのか。
どんな家に生まれ、どんなものを受け継いできたのか。
そういうものが、名前の代わりに残ることがある。
そう考えると、「深森」も「不倒」も、ただの呼び方には思えなくなった。
父がなぜ「深森」と呼ばれるようになったのか。
レオンの家がなぜ「不倒」と呼ばれるのか。
まだ、ルリエナは知らない。
けれど、知らないなら知りたい。
その気持ちは、いつものことだった。




