第十五節 深森(ふかもり)のガルド
ルリエナが七歳になってから、父の仕事についていく機会は少しずつ増えていた。
とはいっても、まだ森の奥へ入ることはない。
ガルドが向かうのは、村からそれほど離れていない森の入口や、その周辺にある採取場所だった。
ルリエナは、父が歩く後ろをついていく。
以前なら、ただ父の背中を追っていただろう。
けれど今は、その歩き方そのものが気になっていた。
ガルドは急がない。
かといって、周囲を警戒して立ち止まることもほとんどない。
歩きながら、道の端に生えている草を見て、少しだけ顔を向ける。
木の根元を通るときには、足元へ視線を落とす。
風が吹けば、木々の葉の揺れ方を見る。
それらを一つひとつ確認しているように見えるのに、歩みそのものは途切れない。
「お父さん」
「ん?」
「何を見てるの?」
ガルドは少し笑った。
「いろいろだな」
「いろいろ?」
「草、木、土、風。それから足跡とか、折れた枝とか」
ルリエナは周囲を見回した。
草は草にしか見えない。
木の枝も、どれが折れたものなのか、すぐには分からない。
「そんなに見えるの?」
「慣れればな」
「私には、全部同じに見える」
「最初はそんなもんだ」
ガルドはそう言って、道端の草の前で足を止めた。
「これは?」
ルリエナもしゃがみ込む。
緑色の細い葉が何本も伸びている。
「ケタールの薬草?」
「そうだ」
ルリエナは初級鑑定を使った。
頭の中に情報が浮かぶ。
薬草。
「やっぱり薬草だ」
「じゃあ、採るか?」
「・・・採っていいの?」
ガルドは笑った。
「そこだ」
「え?」
「鑑定で薬草だと分かっても、それだけで採っていいわけじゃない」
ガルドは草の根元を指で示した。
「まだ若い。今採るより、もう少し育ってからのほうがいい」
ルリエナは草を見つめた。
確かに、葉は小さい。
「同じ薬草でも?」
「ああ。同じ名前でも、育ち方や状態は違う。使う側が何を必要としてるかによっても変わる」
以前にも聞いた話だった。
けれど、実際に森の中で聞くと、少し違って感じる。
「じゃあ、鑑定って・・・」
「最初の一歩だな」
ガルドは立ち上がった。
「名前が分かれば、それを知ったことにはなる。でも、名前だけじゃ使い方までは分からん」
ルリエナは、もう一度薬草を見る。
鑑定で見えた「薬草」という言葉は間違っていない。
けれど、それだけでは足りない。
父は葉の大きさを見て、育ち具合を見て、周囲の土や日当たりまで見ている。
そうして初めて、今採るべきかどうかを決めている。
ルリエナは父の背中を見ながら歩いた。
しばらく進むと、ガルドが突然足を止めた。
「どうしたの?」
「・・・ここから少し先、行くぞ」
声の調子が変わっていた。
ルリエナは父の視線を追った。
森の奥へ続く道。
何か特別なものが見えるわけではない。
けれどガルドは、地面に残った小さな跡を見つめていた。
「何かいるの?」
「いた跡だな」
「魔物?」
「たぶん小さいやつだ」
ガルドはしゃがみ込み、土に残った跡を指でなぞる。
「この足跡、まだ新しい」
「分かるの?」
「土が戻ってないだろ」
ルリエナは足跡を見る。
言われてみれば、周囲の土とは少しだけ違っていた。
自分では見つけられなかった。
「どうして分かるの?」
「ずっと見てきたからだ」
それだけだった。
けれど、その答えがルリエナには妙に印象に残った。
特別な魔法を使ったわけではない。
鑑定を使ったわけでもない。
ただ、何度も森を歩き、何度も同じものを見てきた。
その積み重ねが、父には見えている。
少し歩いたところで、ガルドが木の幹へ手を当てた。
樹皮を指で撫でる。
「今日はこっちじゃないな」
「どうして?」
「湿ってる」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
ガルドは上を見上げた。
「風向きも違う。こっちの斜面は昨日まで雨が残ってる。採れるものも、状態が悪いだろう」
ルリエナは思わず父の顔を見た。
森を見ている。
木だけではない。
土も、風も、天気も、季節も見ている。
素材を探しているようで、その実、森そのものを見ているのだ。
「お父さんって、森のこと、全部分かるの?」
「全部なんて分かるわけないだろ」
ガルドは笑った。
「森は毎日変わる。俺が知ってるのは、今まで見てきた森のことだけだ」
「じゃあ、知らないものもある?」
「ああ。いっぱいある」
その答えに、ルリエナは少し嬉しくなった。
父でさえ、知らないものがある。
それなら、自分にもまだ知らないものがたくさんあって当然だ。
「・・・お父さんも、知らないものを見つけたら調べる?」
「もちろんだ」
「怖くない?」
「分からないものを分からないままにするほうが怖いこともある」
ガルドはそう言って、また歩き始めた。
ルリエナは、その言葉を胸の中で繰り返した。
分からないものを、分からないままにしない。
それは父の仕事のやり方なのかもしれない。
名前を知る。
姿を見る。
触れて確かめる。
季節を覚える。
使い道を考える。
必要なら、また見に行く。
そうやって、少しずつ分かることを増やしていく。
村へ戻るころには、空が少し赤くなっていた。
ガルドは背負った袋を下ろし、中身を一つずつ確認している。
薬草。
食用になる木の実。
いくつかの植物の根。
そして、森で見つけた小さな素材たち。
どれも特別なものには見えない。
けれど、ガルドが手に取ると、それぞれに意味があるように見えた。
「お父さん」
「ん?」
「私も、いつか森の奥まで行ける?」
ガルドは少しだけ黙った。
「いつかはな」
「いつかって、いつ?」
「もっといろんなことを知ってからだ」
ルリエナは森の向こうを見る。
まだ自分の知らない場所がある。
知らない植物があり、知らない素材があり、知らない魔物がいる。
そして、それを知っている人もいる。
父はその一人だった。
ルリエナは今日、初めて思った。
自分の父親は、ただ森へ行って素材を拾ってくる人ではない。
森を見て、考えて、覚えて、その中から必要なものを見つけてくる人なのだ。
その仕事を続けてきたからこそ、父には見えるものがある。
それは鑑定では得られない。
長い時間をかけて、自分の目と身体で積み重ねてきたものだった。
ルリエナは父の背中を見つめながら、自分もいつか、そんなふうに何かを知れるようになりたいと思った。
そして同時に、まだ知らない父のことが、少しだけ気になっていた。
村では、父を「深森のガルド」と呼ぶ人がいる。
その名前が、ただ森の中を歩くことが得意だから付いたものではないことを、ルリエナはまだ知らなかった。




