第十二節 小さな魔法
洗礼を終えてから、ルリエナはときどき、自分の中にあるものを意識するようになった。
魔力。
人は生まれたときから持っているものだという。けれど、子どものうちは、それが何なのかを知ることも、思うように使うこともできない。
七歳になって洗礼を受けたことで、ようやく自分の中にあるものを意識し、生活魔法を使えるようになった。
とはいえ、魔力が目に見えるわけではない。
どこにあるのかと考えても、胸のあたりにあるような気もするし、腹の奥にあるような気もする。
身体の中を探そうとすればするほど、かえって分からなくなった。
ただ、意識を静かに向けていると、身体の奥に何かがあるような感覚だけは、少しずつ分かるようになってきた。
それが魔力なのだろう。
そう思っているだけで、本当にそうなのかは、まだルリエナにも分からなかった。
ある日の昼下がり。
ルリエナは母の隣で、洗った布を干していた。
陽の光を受けた布が、風に揺れている。
フィーネは桶の中の布をすすぎながら、片手で水をすくった。
すると、手のひらからこぼれ落ちる水が、ほんの少しだけ動きを変えた。
水滴がまとまり、桶の中へ落ちていく。
何気ない動作だった。
これまでにも、何度となく見てきた光景だ。家事の合間に母が生活魔法を使うのは珍しいことではなく、ルリエナにとっても当たり前の風景の一つだった。
けれど、洗礼を終えてからは、同じ光景を見ても、以前とは少し違うことを考えるようになっていた。
「・・・お母さん」
「なに?」
「今の、水を動かす生活魔法?」
フィーネは手を止めて、ルリエナを見た。
「そうよ。ほんの少しだけどね」
「そんなふうに使うんだね」
「水をまとめたり、こぼれた分を寄せたりね。毎日のことだから、いちいち意識しなくても使えるようになったわ」
フィーネはそう言って、また布をすすぎ始めた。
ルリエナは桶の中を覗き込んだ。水面が陽の光を反射して揺れている。
生活魔法。
これまで何度も見ていたものに、改めて名前をつけてみる。
そうすると、知っていたはずのものが、少しだけ違って見えた。
「・・・私も、同じようにできるかな」
「できるでしょう。洗礼を受けたんだもの。あとは、使い方に慣れることね」
フィーネは笑って、桶の前を空けた。
ルリエナはしゃがみ込み、水面を見つめた。
生活魔法の使い方なら、何となく知っている。
火を灯すときも、水を扱うときも、大人たちは特別な言葉を唱えたり、決まった動作をしたりしているようには見えなかった。
だからといって、ただ手を向ければいいというわけでもないのだろう。
ルリエナは右手を水へ向け、自分の中に意識を向けた。
身体の奥にあるもの。
魔力。
それを水へ伝えるつもりで、そっと意識を動かしてみる。
「・・・動いて」
水面は静かなままだった。
「・・・もう一度」
今度は目を閉じる。身体の中を探し回るのではなく、そこにあるものを感じようとしてみた。
すると、ほんのわずかに何かが揺れた。
気のせいかもしれない。
それでも、その感覚を逃さないように意識を向ける。
身体の奥から、手の先へ。そして、その先にある水へ。
水面が、かすかに揺れた。
「・・・!」
ルリエナは目を開いた。
桶の中で、小さな波紋が広がっている。
風が吹いたわけではない。
母が桶に触れたわけでもなかった。
「今の、私がやったの?」
「そうよ。ちゃんと動いたわね」
フィーネが笑った。
ルリエナは水面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
生活魔法そのものは、洗礼を受けてから使えるようになった。
けれど、今の感覚は、これまで母の動作を見ているだけでは分からなかったものだった。
自分の中にある何かを意識し、それを水へ伝えた。その結果、水が動いた。
本当にそうなのだろうか。
確かめるように、もう一度手を伸ばす。
今度は何も起こらなかった。
「あれ?」
「同じようにやっても、いつも同じ結果になるとは限らないわよ」
「でも、さっきは動いたのに」
「ええ。だから、もう一度やってみればいいじゃない」
ルリエナは考え込んだ。
さっきは、何かを感じた。その感覚を追っていったら、水が動いた。
けれど、今は同じようにしても何も起きない。
意識の向け方が違ったのだろうか。
それとも、魔力を動かしたときの感覚を、うまく捉えられなかったのだろうか。
もう一度試す。
やはり動かない。
少し休んでから、また試す。今度は水面がほんの少しだけ震えた。
「・・・今のも?」
「うん。ちゃんと動いたわ」
フィーネが頷く。
「上手くいったり、いかなかったりするのね」
「慣れるまでは、そんなものよ。毎日使っている私だって、何でも思い通りにできるわけじゃないもの」
ルリエナは頷いた。
不思議と、できないことが嫌ではなかった。
むしろ、どうしてできたりできなかったりするのかが気になった。
何が違うのだろう。
魔力を動かしたときの感覚か。
集中の仕方か。
それとも、水の量や状態にも関係があるのだろうか。
分からない。
だから、もう一度試してみたくなる。
「・・・面白い」
思わず口から出た言葉に、フィーネが笑った。
「ルリエナらしいわね」
その日の夕方。
ルリエナは今度、父のところへ向かった。
ガルドは家の外で薪を並べていた。
ルリエナが近づいていくと、ちょうど小さな火を灯したところだった。
薪の隙間に赤い光が生まれ、やがて炎がゆっくりと揺れ始める。
「お父さん」
「ん?」
「魔力って、どういうものなの?」
ガルドが顔を上げた。
「急にどうした?」
「お母さんが水を動かしていたから、私もやってみたの。少しだけ動いたんだけど、どうして動いたのか分からなくて」
「なるほどな」
ガルドは嬉しそうに笑った。
「生活魔法を試してみたのか。洗礼を受けてから、ずいぶん気になっていたんだな」
「うん。でも、魔力をどうやって水に伝えているのか、よく分からないの」
ガルドは少し考えてから、燃えている薪へ視線を向けた。
「魔力には、性質があるんだ」
「性質?」
「ああ。火を灯すのと、水を動かすのでは、起きる現象が違うだろう。どちらも魔力を使っているが、同じことをしているわけじゃない」
炎が小さく揺れる。
ルリエナは、その赤い色をじっと見つめた。
「魔力を使うと、火や水になるの?」
「魔力そのものが、そのまま火や水になるわけじゃない。魔力の性質に応じて、外に現れるものが変わるんだ」
「・・・じゃあ、魔力と、魔法で起きることは別なの?」
「そう考えていい。魔力は力のもとになるものだが、実際にどんな現象が起きるかは、それだけで決まるわけじゃない」
ガルドは薪を一本、火のそばへ寄せた。
「ただ、今のお前に、仕組みを全部理解するのは難しいだろうな。俺だって、何でも説明できるわけじゃない」
「・・・お父さんにも分からないことがあるの?」
「当たり前だ。使い方を知っていることと、仕組みを全部知っていることは違うからな」
その言葉に、ルリエナは今日、水を動かしたときの感覚を思い出した。
ほんの一瞬だった。
身体の奥にある何かが動いて、それが手の先を通り、水へ伝わったような感覚。
けれど、あれが本当に魔力の動きだったのか、どうして水が動いたのか、まだ確かなことは何一つ分かっていない。
「・・・使っていれば、分かるようになる?」
「少しずつな。何度も使っていれば、自分がどんなときに上手くできるのか、何が苦手なのかも分かってくる。仕組みを知りたければ、使うだけじゃなく、よく見て考えることも必要だ」
ルリエナは頷いた。
それなら、やることは決まっている。
「・・・もっと試してみたい」
「そうすればいい。ただし、無理はするな。魔力を使うのにも限りはある。疲れたときは、ちゃんと休め」
「分かった」
ルリエナはもう一度、炎を見つめた。
母が使った水の生活魔法も、父が灯した火も、これまで何度も目にしてきたものだった。
特別なものだとは思わず、家事や暮らしの中にある、ごく当たり前のこととして見ていた。
けれど、今はそこに新しい疑問が生まれている。
魔力には、どんな性質があるのか。
どうすれば、思うように動かせるのか。
水を動かしたときに感じたものは何だったのか。
火と水では、何が違うのか。
知らないことばかりだった。
けれど、それでいい。分からないからこそ、知りたかった。
ルリエナは小さく握った自分の手を見つめた。
材料も、人の身体も、まだ知らないことがある。
そして今度は、生活魔法もその一つになった。
知りたいと思う。
見てみたいと思う。
試してみたいと思う。
その気持ちは、いつも同じだった。
だからルリエナは、明日になったらまた試してみようと思った。
今度は、今日より少しだけ上手に。
小さな生活魔法の向こうにも、まだ知らない世界が広がっている。
そう思うと、明日が少しだけ楽しみになった。




