第九節 母の目
午後の仕立て場には、柔らかな陽が差し込んでいた。
フィーネは窓際の椅子に座り、一枚の布を膝の上に広げている。ルリエナはその向かいで糸を巻き直しながら、母の手元を眺めていた。
さっきからフィーネは、布を裁つでもなく、針を動かすでもない。ただ布を広げては畳み、時折、縫いかけの服を手に取って眺めている。
「お母さん、何してるの?」
「考えてるのよ」
「何を?」
「この服を、どうしたら着る人が気持ちよく着られるかなって」
ルリエナは首を傾げた。
「動きやすくするんじゃないの?」
「それも大事ね」
フィーネは笑った。
「でも、それだけじゃないのよ」
そう言って、布の端を指で撫でる。
「同じ形の服でも、人によって好き嫌いがあるでしょう? 柔らかい布が好きな人もいれば、少し張りのある布が好きな人もいる。袖が広い方が楽な人もいれば、手首のところが締まっていた方がいい人もいるわ」
「どうして分かるの?」
「聞くこともあるわね」
フィーネは針山から針を一本抜き、指先でくるりと回した。
「でも、全部を言ってくれる人ばかりじゃないのよ」
「じゃあ、どうするの?」
「見るの」
フィーネはそう答えると、机の上に置かれていた布をルリエナへ渡した。
「この布、鑑定してみる?」
「うん」
ルリエナは布を受け取り、言われた通りに意識を集中させた。
「・・・鑑定」
頭の中に、いつものように言葉が浮かぶ。
布。
植物繊維。
それだけだった。
「布で、植物の繊維からできてるって」
「それで?」
「・・・それだけ」
ルリエナは布を見つめた。
指で撫でれば、表面の滑らかさが分かる。少し引っ張れば伸び方が分かり、折り重ねれば厚みも分かる。
けれど、鑑定から得られた情報は、目で見たり触ったりすれば分かる程度のものだった。
「便利ではあるけど・・・これだけじゃ、服は作れないね」
「そうでしょう?」
フィーネが笑う。
「鑑定は、知るためのきっかけにはなるわ。でも、それだけで全部が分かるわけじゃないの」
「お父さんも同じこと言ってた」
「でしょうね」
フィーネは布を受け取りながら頷いた。
「素材の名前が分かったところで、それが今どんな状態なのか、何に使うのがいいのかまでは、自分で見なければ分からないもの」
ルリエナは、昨日ガルドと森を歩いたときのことを思い出した。
同じ薬草でも、育ち方によって採るものと残すものが違った。
鑑定では、どちらも同じ「薬草」だった。
けれど父は、葉の大きさや茎の状態、周囲の環境まで見ていた。
「じゃあ、人も同じ?」
「ええ」
フィーネは穏やかに答えた。
「人のことも、見ないと分からないわ」
フィーネはそう言って、布を膝の上に置いた。
「話しているときの表情。服を触るときの手つき。どんな服を着て来たのか。仕事をしている人なら、その仕事で身体をどう使うのか。家に帰ってから何をするのか・・・そういうことを少しずつ見るの」
「どうして?」
「服を作ってほしい、と言われても、本当に欲しいものが『服』とは限らないからよ」
ルリエナは母の顔を見た。
「服じゃないの?」
「ええ。楽に仕事がしたいのかもしれない。子どもを抱きやすい服が欲しいのかもしれない。寒い日に身体を冷やしたくないのかもしれない。あるいは、少しおしゃれをして出かけたいのかもしれない」
フィーネはそこで一度言葉を切り、娘を見る。
「服は、その人がしたいことを助けるものでもあるのよ」
ルリエナは、しばらく何も言わなかった。
服を作る。
それは今まで、布を選んで、形を考えて、縫っていくことだと思っていた。
けれど母は、その服を着た先にいる人のことまで考えている。
「じゃあ、お母さんは服を作る前に、その人のことを知るの?」
「そうね」
フィーネは穏やかに頷いた。
「知らないまま作ることもできるけれど、知っていた方が、その人に合ったものを作れるでしょう?」
ルリエナは、父と森へ行った日のことを思い出した。
ガルドも、植物を見つけたからといって、すぐに採るわけではなかった。
どんな場所に生えているのか。
どれくらい育っているのか。
今、必要なのか。
何を知っているかで、同じものの見え方が変わる。
「お父さんも、同じようなこと言ってた」
「お父さんが?」
「うん。森にあるものは、分かったからって何でも採ればいいわけじゃないって」
フィーネは少し嬉しそうに笑った。
「そうね。ガルドらしいわ」
「お父さんは森を見る。お母さんは人を見るんだね」
「そうかもしれないわね」
フィーネは笑いながら、縫いかけの服をルリエナに渡した。
「じゃあ、ルリエナは何を見るの?」
「私?」
「ええ。最近、ずいぶんいろんなものを見るようになったでしょう?」
ルリエナは服を受け取り、布を指先で撫でた。
「・・・布を見る」
「うん」
「人も見る」
「そうね」
「それから、動きも見る」
レオンが走る姿や、農家のおばさんが仕事をする姿が頭に浮かぶ。
そして、父と森を歩いたときに見た植物や革のことも思い出した。
「素材も見る」
フィーネは何も言わず、娘の言葉を聞いていた。
「でも・・・まだ、どうやって見るのかは分からない」
「それでいいのよ」
フィーネは針に糸を通しながら、いつものように穏やかな声で言った。
「見ていれば、そのうち分かるようになるわ。分からないときは、聞けばいい。間違えていたら、直せばいいの」
ルリエナは母の言葉を聞きながら、手元の服を見つめた。
鑑定は、物の名前や大まかな種類を教えてくれる。
けれど、それだけでは、その物が何に向いているのかまでは分からない。
まして、人が何を求めているのかなど、鑑定で分かるはずもない。
だから、見る。
自分の目で見て、触れて、考える。
分からなければ、もう一度見る。
「私も、そういう服を作れるかな」
「作れるようになるわよ」
フィーネは迷いなく答えた。
「だって、ルリエナはもう見始めているもの」
「・・・そうかな」
「ええ」
フィーネは微笑んだ。
「だから、これからもたくさん見なさい」
ルリエナは頷き、手元の布をもう一度広げた。
昨日までなら、ただの布として見ていたものだった。
けれど今は、この布を誰が着るのか、その人は何をするのか、どんなふうに動くのか――そんなことまで考えてみたくなる。
「お母さん」
「なあに?」
「この布なら、農作業する人の服にするなら・・・」
ルリエナが考えながら布の端を指でつまむ。
フィーネは何も言わず、娘の話を聞き始めた。
午後の仕立て場には、針が布を通る小さな音が響いていた。




