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魔王様の仕立て屋  作者: 森紬
第五章 知るということ

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第九節 母の目

午後の仕立て場には、柔らかな陽が差し込んでいた。


フィーネは窓際の椅子に座り、一枚の布を膝の上に広げている。ルリエナはその向かいで糸を巻き直しながら、母の手元を眺めていた。

さっきからフィーネは、布を裁つでもなく、針を動かすでもない。ただ布を広げては畳み、時折、縫いかけの服を手に取って眺めている。


「お母さん、何してるの?」


「考えてるのよ」


「何を?」


「この服を、どうしたら着る人が気持ちよく着られるかなって」


ルリエナは首を傾げた。


「動きやすくするんじゃないの?」


「それも大事ね」


フィーネは笑った。


「でも、それだけじゃないのよ」


そう言って、布の端を指で撫でる。


「同じ形の服でも、人によって好き嫌いがあるでしょう? 柔らかい布が好きな人もいれば、少し張りのある布が好きな人もいる。袖が広い方が楽な人もいれば、手首のところが締まっていた方がいい人もいるわ」


「どうして分かるの?」


「聞くこともあるわね」


フィーネは針山から針を一本抜き、指先でくるりと回した。


「でも、全部を言ってくれる人ばかりじゃないのよ」


「じゃあ、どうするの?」


「見るの」


フィーネはそう答えると、机の上に置かれていた布をルリエナへ渡した。


「この布、鑑定してみる?」


「うん」


ルリエナは布を受け取り、言われた通りに意識を集中させた。


「・・・鑑定」


頭の中に、いつものように言葉が浮かぶ。


布。

植物繊維。


それだけだった。


「布で、植物の繊維からできてるって」


「それで?」


「・・・それだけ」


ルリエナは布を見つめた。

指で撫でれば、表面の滑らかさが分かる。少し引っ張れば伸び方が分かり、折り重ねれば厚みも分かる。


けれど、鑑定から得られた情報は、目で見たり触ったりすれば分かる程度のものだった。


「便利ではあるけど・・・これだけじゃ、服は作れないね」


「そうでしょう?」


フィーネが笑う。


「鑑定は、知るためのきっかけにはなるわ。でも、それだけで全部が分かるわけじゃないの」


「お父さんも同じこと言ってた」


「でしょうね」


フィーネは布を受け取りながら頷いた。


「素材の名前が分かったところで、それが今どんな状態なのか、何に使うのがいいのかまでは、自分で見なければ分からないもの」


ルリエナは、昨日ガルドと森を歩いたときのことを思い出した。

同じ薬草でも、育ち方によって採るものと残すものが違った。

鑑定では、どちらも同じ「薬草」だった。

けれど父は、葉の大きさや茎の状態、周囲の環境まで見ていた。


「じゃあ、人も同じ?」


「ええ」


フィーネは穏やかに答えた。


「人のことも、見ないと分からないわ」


フィーネはそう言って、布を膝の上に置いた。


「話しているときの表情。服を触るときの手つき。どんな服を着て来たのか。仕事をしている人なら、その仕事で身体をどう使うのか。家に帰ってから何をするのか・・・そういうことを少しずつ見るの」


「どうして?」


「服を作ってほしい、と言われても、本当に欲しいものが『服』とは限らないからよ」


ルリエナは母の顔を見た。


「服じゃないの?」


「ええ。楽に仕事がしたいのかもしれない。子どもを抱きやすい服が欲しいのかもしれない。寒い日に身体を冷やしたくないのかもしれない。あるいは、少しおしゃれをして出かけたいのかもしれない」


フィーネはそこで一度言葉を切り、娘を見る。


「服は、その人がしたいことを助けるものでもあるのよ」


ルリエナは、しばらく何も言わなかった。


服を作る。


それは今まで、布を選んで、形を考えて、縫っていくことだと思っていた。

けれど母は、その服を着た先にいる人のことまで考えている。


「じゃあ、お母さんは服を作る前に、その人のことを知るの?」


「そうね」


フィーネは穏やかに頷いた。


「知らないまま作ることもできるけれど、知っていた方が、その人に合ったものを作れるでしょう?」


ルリエナは、父と森へ行った日のことを思い出した。

ガルドも、植物を見つけたからといって、すぐに採るわけではなかった。

どんな場所に生えているのか。

どれくらい育っているのか。

今、必要なのか。

何を知っているかで、同じものの見え方が変わる。


「お父さんも、同じようなこと言ってた」


「お父さんが?」


「うん。森にあるものは、分かったからって何でも採ればいいわけじゃないって」


フィーネは少し嬉しそうに笑った。


「そうね。ガルドらしいわ」


「お父さんは森を見る。お母さんは人を見るんだね」


「そうかもしれないわね」


フィーネは笑いながら、縫いかけの服をルリエナに渡した。


「じゃあ、ルリエナは何を見るの?」


「私?」


「ええ。最近、ずいぶんいろんなものを見るようになったでしょう?」


ルリエナは服を受け取り、布を指先で撫でた。


「・・・布を見る」


「うん」


「人も見る」


「そうね」


「それから、動きも見る」


レオンが走る姿や、農家のおばさんが仕事をする姿が頭に浮かぶ。

そして、父と森を歩いたときに見た植物や革のことも思い出した。


「素材も見る」


フィーネは何も言わず、娘の言葉を聞いていた。


「でも・・・まだ、どうやって見るのかは分からない」


「それでいいのよ」


フィーネは針に糸を通しながら、いつものように穏やかな声で言った。


「見ていれば、そのうち分かるようになるわ。分からないときは、聞けばいい。間違えていたら、直せばいいの」


ルリエナは母の言葉を聞きながら、手元の服を見つめた。


鑑定は、物の名前や大まかな種類を教えてくれる。

けれど、それだけでは、その物が何に向いているのかまでは分からない。

まして、人が何を求めているのかなど、鑑定で分かるはずもない。


だから、見る。


自分の目で見て、触れて、考える。

分からなければ、もう一度見る。


「私も、そういう服を作れるかな」


「作れるようになるわよ」


フィーネは迷いなく答えた。


「だって、ルリエナはもう見始めているもの」


「・・・そうかな」


「ええ」


フィーネは微笑んだ。


「だから、これからもたくさん見なさい」


ルリエナは頷き、手元の布をもう一度広げた。

昨日までなら、ただの布として見ていたものだった。

けれど今は、この布を誰が着るのか、その人は何をするのか、どんなふうに動くのか――そんなことまで考えてみたくなる。


「お母さん」


「なあに?」


「この布なら、農作業する人の服にするなら・・・」


ルリエナが考えながら布の端を指でつまむ。


フィーネは何も言わず、娘の話を聞き始めた。


午後の仕立て場には、針が布を通る小さな音が響いていた。


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