第四節 洗礼
朝の空気が、いつもより少しだけ慌ただしかった。
家の前ではガルドが荷物をまとめ、フィーネは戸締まりを確かめている。今日は、七歳になった子どもが受ける洗礼の日だった。
ルリエナにとって、町へ行くのは初めてのことだ。
普段の生活はセアドール村の中でほとんど完結している。必要なものがあれば大人たちが町へ出向くことはあるが、ルリエナが一緒について行くことはなかった。
「忘れ物はないか?」
ガルドが背負い袋を持ち上げながら聞いた。
「大丈夫よ」
フィーネが答える。
「ルリエナは?」
「私も大丈夫」
そう答えながら、ルリエナは小さな袋を抱え直した。
中身はたいしたものではない。それでも、いつもと違う場所へ行くと思うと、どこか落ち着かなかった。
三人で家を出る。
朝の村はまだ静かだったが、畑ではすでに仕事を始めている人の姿が見える。村の道を歩いていると、通りかかった農家のおばさんがルリエナに気づいて声をかけてきた。
「ルリエナ、今日は洗礼なんだって?」
「うん」
「大きくなったねえ。ついこの前まで、フィーネの後ろについて歩いてた気がするのに」
おばさんは笑いながら、ルリエナの頭を軽く撫でる。
「町まで気をつけて行ってくるんだよ」
「はい」
手を振って別れ、村の外へ出る。
しばらくは見慣れた道が続いていたが、やがて畑が途切れ、両側に広い草地が広がり始めた。朝露を残した草が風に揺れ、遠くにはなだらかな丘が見える。
村の外をこれほど長く歩くのも、ルリエナにはあまり経験がない。
何度か父と森へ行ったことはあるが、それとは違う景色だった。
そんな道をしばらく歩いたところで、ルリエナは隣を歩くフィーネを見上げた。
「お母さん」
「なあに?」
「洗礼って、何するの?」
フィーネは少し考えるように歩調を緩めた。
「そうね。魔法について教えてもらうのよ」
「魔法?」
ルリエナは首を傾げる。
「魔法って、何?」
フィーネは少し驚いたように娘を見たが、すぐに小さく笑った。
「・・・そこからなのね」
「だって、知らないもの」
「そうよね」
フィーネは前を向き、歩きながらゆっくりと言葉を選んだ。
「魔法っていうのは、自分の中にある力を使って、何かを起こすことよ」
「自分の中にある力?」
「そう」
「何を起こすの?」
「水を出したり、火をつけたりするの」
その言葉を聞いて、ルリエナは思い浮かんだものがあった。
母が糸を湿らせるために水を出すこと。父が火を起こすこと。どちらも、ルリエナにとっては幼い頃から見慣れた光景だった。
「・・・それって、お母さんが水を出すやつ?」
「そうよ」
「お父さんが火をつけるのも?」
「魔法よ」
「・・・あれも?」
「そう」
ルリエナはしばらく黙って歩いた。
「でも、お母さんもお父さんも、いつもやってるよね」
その言葉に、フィーネは笑った。
「ええ。大人にとっては、特別なことではないもの」
「じゃあ、魔法って特別なものじゃないの?」
「大人にとっては、そうかもしれないわね。でも、どうして水が出るのか、どうして火がつくのか、どうやって自分の中にある力を使うのか。それをちゃんと知るのは、七歳くらいからなの」
ルリエナは母の言葉を聞きながら、自分の手を見た。
針を持つ手。布をつまむ指。革に触れる指。
その手の中に、今まで知らなかったものがある。
「私の中にもあるの?」
「あるわ」
「お母さんにも?」
「もちろん」
「お父さんにも?」
「あるわよ」
「レオンにも?」
「きっとあるでしょうね」
ルリエナは少し考えてから、前を向いた。
「・・・じゃあ、みんな持ってるんだ」
「そうよ」
不思議だった。
今まで何度も見ていたものなのに、それが魔法だと知らなかった。母が水を出すことも、父が火を起こすことも、ルリエナにとっては「大人ならできること」というだけだった。
けれど、そう考えてみると、仕立ても少し似ている気がする。
布だって、触らなければ違いは分からない。革だって、曲げたり伸ばしたりしてみなければ、その性質は分からない。
身体の動きだって、実際に見なければ、どこが服に引っ張られるのか分からない。
知っているつもりでも、その意味までは知らないことがある。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「魔法って、練習したら上手くなるの?」
「そうね。使い方を覚えれば、少しずつ上手くなるわ」
「じゃあ、私もできる?」
「きっとできるわ」
フィーネは優しく笑った。
「でも、今日いきなり何でもできるようになるわけじゃないからね。まずは、自分の中にある魔力を知ることからよ」
「魔力?」
「それも、今日教えてもらうわ」
また新しい言葉が増えた。
魔法。
魔力。
まだ意味はよく分からない。それでも、分からないことがあると知りたくなるのは、仕立てを覚えてきた頃から変わらなかった。
ルリエナは少しだけ歩く速度を速めた。
やがて道の先に、これまで見たことのない景色が現れた。
「・・・あれ?」
ルリエナが足を緩める。
遠くに、いくつもの建物が集まっている。
村の家よりずっと大きな建物もあれば、道に沿って並んでいる建物もある。荷車が行き交い、人の姿も村とは比べものにならないほど多い。
「あれが町?」
「そうよ」
フィーネが答えた。
ルリエナは思わず立ち止まりそうになった。
今まで自分が暮らしてきた村とは、まるで違う。
知らない人が歩いている。知らない声が聞こえる。見たことのない店が並び、荷車には見慣れない荷物が積まれている。
どこを見ても知らないものばかりだった。
「・・・大きい」
思わず呟く。
ガルドが隣で笑った。
「初めて見ると、そう思うだろうな」
ルリエナは頷きながら、町の様子を目で追っていた。
けれど、今日は町を見に来たわけではない。
「洗礼が終わったら、少し町を見て回ろうか」
フィーネが言った。
「いいの?」
「せっかく来たんだもの」
「やった」
ルリエナが笑う。
けれど、その前に、今日一番知りたいものがある。
自分の中にあるという、魔力。
そして、それを使うということ。
ルリエナは胸元にそっと手を当てた。
何かがあるようには感じない。
それでも、確かにあるらしい。
今まで知らなかったものが、自分の中にある。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
三人は町の中へ入っていった。
村とは違う道を、人の流れに合わせて進んでいく。
やがて、道の先に白い壁の大きな建物が見えてきた。
屋根の上には、遠くからでも分かる印が掲げられている。
「あそこが協会よ」
フィーネが言った。
ルリエナは建物を見上げた。
今日、自分は何を知るのだろう。
その答えは、まだ分からない。
けれど、分からないからこそ、知りたかった。




