第二節 エナ!
春の陽射しが、村の畑をやわらかく照らしていた。
冬の間に乾いていた土も、雪解け水を吸って少しずつ色を濃くしている。畑の向こうでは、農家の人たちが鍬を手に動き回り、遠くから鳥の鳴き声が聞こえていた。
その声に混じって、聞き慣れた声が響く。
「エナ!」
振り返るより先に、誰なのか分かった。
七歳になったルリエナにとって、その呼び声はもう、特別なものではない。
村の中で、そう呼ぶのは一人だけだった。
「レオン!」
声のした方を見ると、赤い髪を揺らしながら、レオンがこちらへ走ってくる。
五歳の頃と比べると、身体つきも少し大きくなった。走る速さもずっと速い。
それでも、以前のように勢いだけで突っ込んでくることはなくなっていた。
足元の石を避け、地面の凹凸を見ながら走る。
そのままルリエナの前まで来たところで、足がわずかにもつれた。
「あっ」
思わず声が出る。
だが、レオンは倒れなかった。
身体を前へ丸めるようにして肩から地面へ触れ、そのまま一回転する。勢いを殺しながら立ち上がると、服についた土を手で払った。
「・・・今の、すごい」
ルリエナが目を丸くする。
「だろ?」
レオンは得意そうに胸を張った。
「前だったら、そのまま転んでたよね」
「俺だって、いつまでも転んでばっかじゃないぞ」
「でも、前はよく転んでた」
「・・・それは、そうだけど」
少しだけ言葉に詰まってから、レオンは頭を掻いた。
ルリエナはしゃがみ込み、レオンが転がった場所を見る。
土の上には、肩が触れた跡が薄く残っていた。
「どうやったの?」
「かあちゃんが教えてくれた」
「マレナおばさん?」
「うん」
レオンは頷いた。
「転ぶときは手をつくんじゃなくて、身体を丸めろって」
「へぇ・・・」
ルリエナは、もう一度さっきの動きを思い返した。
五歳の頃のレオンなら、転びそうになった瞬間に手を前へ出していた。膝をつき、身体を支えようとして、そのまま地面に滑り込んでていた。
けれど今は違う。
身体を丸めて、地面にぶつかる力を逃がしている。
「それで、起き上がるのも早くなったんだ」
「そう。転んでも、すぐ立てる」
レオンはそう言って、その場で軽く跳ねた。
「かあちゃんが言ってた。転ばないようにするのも大事だけど、転んだときにどうするかも大事だって」
「なるほど・・・」
ルリエナは頷きながら、レオンの足元を見る。
さっき転びかけたときも、足を完全に止めてはいなかった。
身体が傾いた瞬間に、次の動きへつなげていた。
転ばないようにする。
それだけではない。
転んでも、動きを止めない。
それは、以前自分が作った膝当てのことを、どこか思い出させた。
動かなくするのではなく、動いても邪魔にならないようにする。
身体の動きは、止めるよりも、その動きに合わせた方がいい。
「・・・なんか、服と似てるかも」
「何が?」
「ううん。なんでもない」
ルリエナは笑った。
まだ上手く言葉にはできない。
けれど、人が動くところを見ていると、服を作るときと同じように、気になるところが見えてくる。
袖が引っ張られる場所。
膝が曲がる場所。
身体をひねったときに、布が余る場所。
そして、今はレオンが身体を動かすときのことまで。
「エナは?」
「え?」
「何か教わってる?」
レオンが聞いた。
「私?」
「うん。俺はかあちゃんに教えてもらってる。エナは何を伸ばすんだ?」
「何を・・・」
ルリエナは少し考えた。
針を持つこと。
布を見ること。
革に触れること。
父と森へ行って、素材を見ること。
五歳の頃には分からなかったことが、今では少しずつ分かるようになっている。
けれど、それでもまだ知らないことの方が多い。
「・・・もっと、上手になりたい」
「何が?」
「仕立て」
答えると、レオンは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、俺が手伝ってやるよ」
「何を?」
「服を着る係」
「それだけ?」
「あと、走る係」
「それも?」
「転ぶ係もできるぞ」
「もう転ばないんでしょ?」
「・・・たまには転ぶ」
そう言って、レオンは笑った。
ルリエナもつられて笑う。
二人の背丈は、まだ大人には遠く及ばない。
けれど、五歳の頃とは明らかに違っていた。
レオンは、自分の身体がどう動くのかを少しずつ知り始めている。
ルリエナもまた、布や革だけではなく、人の身体がどう動くのかを見つめるようになっていた。
「なあ、エナ」
「なに?」
「俺、これから何を伸ばせるんだろうな」
不意に、レオンがそんなことを言った。
ルリエナは隣に並んだレオンを見る。
レオンは森の方を眺めていた。
まだ遠く、木々の向こうに何があるのかは分からない。
「走るの、もっと速くなるんじゃない?」
「それだけ?」
「力も強くなると思う」
「じゃあ、もっと強くなる」
レオンは拳を握った。
けれど、すぐにその拳を開く。
「・・・それで、誰かを守れるようになりたい」
五歳の頃にも聞いた言葉だった。
あの頃は、父親のような冒険者になりたいと言っていた。
今も、その気持ちは変わっていないらしい。
ただ、あの頃よりも少しだけ、自分のことを考えるようになっていた。
「エナは?」
「私は・・・」
ルリエナは自分の手を見る。
小さな手。
その指には、針を持ったときにできた小さな跡がいくつか残っている。
「もっと、ちゃんと見られるようになりたい」
「見る?」
「人がどう動くのか。何が必要なのか。どんな服なら、その人が動きやすいのか」
レオンは少し考えてから、笑った。
「じゃあ、俺を見ればいいじゃん」
「いつも見てるよ」
「ほんと?」
「うん。よく転ぶから」
「だから、もうそんなに転ばないって!」
レオンの声が、村の中へ響いた。
ルリエナも笑った。
春の風が二人の間を抜けていく。
七歳。
まだ二人とも、自分が何になれるのかを知らない。
これから何を覚え、何を得て、何を失うのかも。
ただ、少しずつ身体を動かし、手を動かし、目で見て、考えている。
知らないことを知るたびに、また知らないことが増えていく。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど二人は、もう歩き始めていた。
それぞれの道を。
まだ名前のない未来へ向かって。




