第一節 積み重ね
それから、季節がいくつか巡った。
五歳になったばかりの頃に比べれば、ルリエナの毎日は少しずつ変わっていた。朝になればフィーネの仕立てを手伝い、時間があればレオンと遊び、ガルドが森へ出る日は、その帰りを楽しみに待つ。
同じことを繰り返しているように見えても、昨日と今日では、ほんの少しだけ違う。
針を持つ手が安定した。
布の重さや硬さが分かるようになった。
革を触れば、以前よりもその性質を考えるようになった。
そして、森へ行けば、足元に生えている草や落ちている枝にも目が向くようになっていた。
「ルリエナ、そこを押さえてくれる?」
「うん」
フィーネが裁断した布を作業台へ広げると、ルリエナは言われた場所へ手を添えた。以前なら、ただ布が動かないように押さえているだけだったが、今ではフィーネが針を進める位置を見ながら、少しずつ手を動かすようになっている。
針が布を通り、糸が引かれる。
そのたびに布がわずかに引かれることを、ルリエナは知っていた。だから、糸が引かれる方向とは反対側へ、ほんの少しだけ布を押さえる。
フィーネが手を止めた。
「・・・上手になったね」
「そう?」
「うん。前は、糸を引くたびに布まで動いてたもの」
言われてみれば、そんなこともあった気がする。
ルリエナは自分の手を見た。毎日使っているから気づかなかったが、針を持つ指も、糸を扱う手つきも、五歳になった頃とは少し違っている。
「もっと上手になりたい」
そう言うと、フィーネは笑った。
「じゃあ、もっとやってみようか」
「うん」
窓から差し込む春の日差しの中で、針がまた動き始めた。
夏になると、ルリエナはガルドについて森の入口まで行くことが増えた。
五歳の頃は、森の中にあるものを見るたびに「これは何?」と尋ねていた。それが少しずつ変わり始めている。
「父さん、あれ・・・キブルの薬草?」
道端の草を指差す。
ガルドは歩みを止め、ルリエナの指先を見た。
「どうしてそう思った?」
「葉っぱの形が、この前見たのと似てるから」
「それだけか?」
「・・・ううん」
ルリエナは草の周りを見た。
「前に採ったグリエンの薬草より、葉っぱが少し細い。それに、こっちは湿ったところに生えてる」
「よく見てるな」
ガルドはしゃがみ込んだ。
「じゃあ、これは薬草か?」
ルリエナも隣にしゃがむ。
葉を一枚見る。茎を見る。根元の土を見る。
「・・・違うと思う」
「どうして?」
「葉っぱは似てるけど、茎の色が違う。前に父さんが採ったオルゴンの薬草は、もっと薄い色だった」
ガルドは草を一本抜き、根元を見せた。
「正解だ」
「本当?」
「ああ。よく覚えてたな」
ルリエナの顔が明るくなる。
「やった」
「でも、最初から見分けられたわけじゃないだろ?」
「うん」
「何度も見たから分かったんだ」
ガルドは草を土へ戻した。
「森にあるものは、見た目が似ているものが多い。だから、一つだけ見て覚えるんじゃない。生えている場所や季節、それから匂いや手触りまで一緒に覚えるんだ」
ルリエナは頷きながら、もう一度草を見る。
布なら、触れば硬いか柔らかいか分かる。革なら、曲げればどれくらい戻ろうとするかが分かる。
けれど森のものは、もっと多くのことを見なければ分からない。
その違いが、ルリエナには面白かった。
別の日、ガルドは森の中で立ち止まった。
「ルリエナ。これは何だと思う?」
足元には、折れた枝が落ちている。
ルリエナはしゃがみ込み、枝を手に取った。
「・・・木の枝」
「それは見れば分かる」
ガルドが笑う。
「何に使える?」
ルリエナは枝を軽く曲げてみた。
乾いている。表面は硬いが、完全には枯れていない。折れた場所は新しく、まだ内側に湿り気が残っている。
「薪にはできるけど、まだ少し湿ってるから、すぐには燃えにくいと思う」
「うん」
「細いから、大きな道具には使えない。でも、火を起こすときの細い薪なら使える」
ガルドは頷いた。
「じゃあ、持って帰るか?」
「・・・ううん」
「どうして?」
「乾いてる枝を先に使った方がいいから。これは、もう少し乾かしてからの方がいいと思う」
「その通りだ」
ガルドは枝を元の場所へ戻した。
「採ることだけが採取じゃない。今必要じゃないものまで持って帰れば、置いておく場所も必要になる。森にあるものを全部持ち帰る必要はないんだ」
ルリエナは、その言葉を聞きながら森を見回した。
森には、たくさんのものがある。
けれど、あるからといって、全部が必要なわけではない。
以前、ガルドが話していたことを思い出す。
必要なものと、あるから使うものは違う。
それは、仕立てにも少し似ている気がした。
布も革も、たくさん使えばいいわけではない。
その人に必要なものを選ぶ。
ルリエナは、少しだけ分かったような気がした。
秋になると、森の色が変わり始めた。
落ち葉が道を覆い、木の実が増える。
ガルドは拾った木の実を袋へ入れながら、ときどきルリエナに尋ねるようになった。
「これは?」
「キコの実。食べられる」
「どうして?」
「前に食べたから」
「それだけ?」
「・・・形と匂いも同じ」
「よし」
そんなやり取りを繰り返すうち、ルリエナは少しずつ素材を見ることに慣れていった。
もちろん、間違えることもある。
似た葉を見て薬草だと思ったら違っていたこともあったし、使えそうな枝を見つけても、ガルドから「その木は乾かすと割れやすい」と教えられたこともあった。
そのたびに、ルリエナは覚えた。
間違えたことを恥ずかしいとは思わなかった。
知らなかったことが、一つ分かったからだ。
冬になると、森へ行く機会は減った。
家の中で過ごす時間が増え、フィーネは仕立てをし、ガルドは採ってきた素材の整理をする。
ある夕方、ガルドが床にいくつかの革を並べていた。
「ルリエナ」
「なに?」
「この中で、一番柔らかいのはどれだ?」
ルリエナは三枚の革を順番に触った。
一枚目は薄い。
二枚目は厚いが、しなやかに曲がる。
三枚目は薄いものの、表面が少し硬い。
「これ」
二枚目を指差した。
ガルドが目を細める。
「薄い方じゃないのか?」
「薄いけど、こっちは曲げたときに戻ろうとする感じが強いから」
ルリエナは革をもう一度曲げた。
「こっちの方が、柔らかいと思う」
「正解だ」
「やった」
ルリエナは嬉しそうに笑う。
ガルドは二枚目の革を手に取った。
「じゃあ、これは何に向いてる?」
ルリエナは少し考えた。
「・・・身体に沿わせるもの」
「どうして?」
「硬い革だと、曲げたところで邪魔になるから」
ガルドはしばらく黙っていた。
やがて、口元を緩める。
「フィーネに似てきたな」
「お母さんに?」
「ああ。素材を見るときの目がな」
その言葉に、ルリエナは少し照れた。
目の前の革をもう一度触ってみる。
以前は、ただ「柔らかい」「硬い」としか考えていなかった。
今は、その違いが「何に使えるか」までつながり始めている。
それが少し嬉しかった。
六歳になる頃には、ルリエナの手つきはさらに変わっていた。
針に糸を通すことも、革に穴を開けることも、一人でできる。
縫い目が曲がれば、自分で気づく。
糸を引きすぎて布が寄れば、なぜそうなったのかを考える。
フィーネも、以前ほど細かく手を出さなくなった。
「ここ、どうしたらいいと思う?」
ルリエナが尋ねると、
「ルリエナはどう思う?」
と返されることが増えた。
最初は困った。
けれど、自分で考えてみる。
布を触る。
縫い目を見る。
実際に少し動かしてみる。
「・・・ここを少し緩くする」
「やってみて」
ほどいて、縫い直す。
今度は布が自然に動いた。
「できた」
「うん」
フィーネの頷きが、何より嬉しかった。
レオンもまた、少しずつ身体が大きくなっていた。
走る速さが上がり、跳ぶ高さも高くなった。
その分、転び方も派手になった。
「また転んだ」
「転んでない!」
「膝、擦ってるよ」
「・・・これは転んだんじゃなくて、地面が近づいてきたんだ」
「地面が?」
「そう!」
ルリエナは呆れながらも笑った。
レオンが差し出した膝当てを受け取り、傷んだ革を調べる。
「ここ、薄くなってる」
「分かる?」
「うん。ここばっかり擦れてる」
ルリエナは指先で革を撫でた。
「転ぶときに、ここがよく地面に当たってるんだと思う」
「じゃあ、直せる?」
「直してみる」
以前なら、破れたところを直すだけだった。
今は、なぜそこが傷んだのかまで考えるようになっている。
同じものを直すだけでも、見えているものが少し違っていた。
六歳の夏。
ガルドと森へ出た帰り道、ルリエナは採取した素材の入った袋を抱えていた。
「父さん」
「ん?」
「これ、何の皮?」
袋から少しだけ覗いている革を指差す。
「分かるか?」
ルリエナは立ち止まり、革の端をつまんだ。
「・・・ドルートボア?」
「正解」
「毛の跡が少し残ってる。それに、この厚さ・・・前に見せてもらったのと似てる」
「よく覚えてたな」
ガルドは満足そうに頷いた。
「じゃあ、これはどう使う?」
「厚いから、服には向かないと思う」
「そうだな」
「でも、硬いから・・・膝当てとか、身体を守るものには使えるかも」
「それも正解だ」
ルリエナは袋の中を覗いた。
「父さんが採って、お母さんが加工して、私が使うこともできる?」
「ああ」
「じゃあ、みんなで作ってるみたいだね」
ガルドは少しだけ目を細めた。
「そうだな」
森から素材を採る。
それを家へ持ち帰る。
フィーネが素材を見て、必要なものを選ぶ。
ルリエナが触って、形を考える。
まだ自分が何をする人間なのかは分からない。
けれど、家の中にある仕事が、それぞれ別のものではないことだけは、少しずつ分かってきていた。
秋が過ぎ、冬が来た。
そして、また春が来る。
雪が解け、土が顔を出し、庭先の草が伸び始める。
長かったようにも、短かったようにも感じる二年間だった。
気がつけば、ルリエナは七歳になっていた。
「大きくなったな」
ある朝、ガルドがそう言った。
「そう?」
「ああ。前はここまで届かなかっただろ」
ガルドが棚の上を指差す。
ルリエナは手を伸ばしてみた。
指先が、以前より少し高いところまで届く。
「本当だ」
「森へ行っても、もう俺の後ろを歩いてるだけじゃないしな」
「だって、見るところがたくさんあるもの」
そう答えると、ガルドが笑った。
「そうか」
その笑顔を見て、ルリエナも笑った。
七歳になった春。
朝の仕立て場では、フィーネが布を広げていた。
ルリエナはその隣で糸を選んでいる。
「これでいい?」
「うん。どうしてそれを選んだの?」
「布が少し厚いから。細い糸だと、引っ張ったときに負けると思う」
フィーネが頷く。
「じゃあ、それでやってみよう」
窓の外では、ガルドが森から戻ってきたところだった。
背負った袋を下ろし、中の素材を一つずつ確かめている。
その姿を見ながら、ルリエナはふと思った。
五歳の頃は、父に「これは何?」と聞いてばかりだった。
今は、自分で考えてから尋ねることが増えた。
母に教えてもらうだけだった仕立ても、今では自分なりに考えて針を動かしている。
レオンと遊ぶときも、ただ一緒に走るだけではない。
走り方を見て、どこで転ぶのかを考える。
服を着てもらえば、どこが動きにくいのかを聞く。
革を触れば、どこに使えるかを考える。
少しずつ。
本当に少しずつ。
分からなかったものが、分かるようになっていた。
けれど――。
分かるようになったからこそ、まだ分からないものがたくさんあることにも、気づき始めていた。
森の奥。
見たことのない素材。
自分の身体の中にあるもの。
そして、自分自身がこれから何になっていくのか。
七歳になったばかりのルリエナには、それがまだ何なのか分からない。
ただ、その日もまた、いつものように針を手に取った。
春の光が、仕立て場の床へゆっくり伸びている。
そして、この春を境に――。
ルリエナは、自分の知らなかった世界を、少しずつ知っていくことになる。




