第二節 HELL工房
「新しい案件」
恩田がそう言って手招きした。
「はーい」
百合花は針を置き、立ち上がった。作業場を横切り、工房の奥へ向かう。その途中にも、何人もの職人がそれぞれの仕事に向き合っていた。
ミシンの駆動音が一定のリズムを刻み、少し離れたところでは裁断用の鋏が布を切る音がする。金具を打つ小さな音に、誰かがデザインについて相談する声が重なり、それらが混ざり合って、工房独特の空気を作っていた。
ここが、百合花の職場だった。
HELL工房。
名前だけを聞けば、何をする会社なのか分からない。
普通の被服会社ではない。普通の衣装制作会社でもない。
ここで作られているのは、日常の服ではなかった。
舞台衣装。
ライブ衣装。
ゲームや映像作品に登場する特殊衣装。
人が普段着ることのない、非日常の衣装を形にする。それが、この工房の仕事だった。
もちろん、一人の職人が最初から最後まで一着を作るわけではない。
デザインを考える者がいる。
素材を探す者がいる。
デザインをもとにパターンを起こす者がいる。
それを縫製する者がいて、最後に装飾を施す者もいる。
それぞれが自分の得意分野を持ち、その技術を持ち寄って、一着の衣装を完成させる。
百合花がこの工房に入ったのは、十三年前だった。最初から何でもできたわけではない。
先輩の仕事を横で見て、真似をする。
失敗する。
怒られる。
どこが悪かったのかを考えて、もう一度作る。
それを何度も繰り返してきた。
気がつけば十三年が過ぎ、今では自分が後輩に仕事を教える立場になっている。
「百合根!」
工房の奥から恩田の声が飛んできた。
「はーい、今行きまーす」
百合花が返事をする。
この「百合根」という呼び方も、いつの間にか工房ではすっかり定着していた。
最初の頃は、「ユリ姉」かと思っていた。しかしそうでもなかったため、百合花も嫌がった。
何しろ、本人の名前からは想像もつかない呼び名だった。それでも十三年も経てば、慣れるものだ。
「遅い!」
奥へ着くなり、恩田が言った。
「今来たところです」
「嘘。絶対途中で何か見てたでしょ」
「・・・見て・・・ません」
「その間は何よ」
恩田が笑う。
百合花は軽く肩をすくめた。
「それで、新しい案件って何ですか?」
「これよ」
恩田が分厚い企画書の中から一枚のイメージ画像を取り出し、机の上に置いた。
百合花が手を伸ばす。
「ゲーム会社からの依頼」
「ゲーム!?」
「そう」
恩田は頷いた。
「結構大きい仕事よ」
百合花は画像に目を落とした。
鎧を着た戦士が立っている。詳しい内容までは書かれていない。企画の概要と、いくつかの注釈が入っているだけだった。
「今回、HELL工房に白羽の矢が立った理由は分かる?」
恩田が尋ねる。
「特殊衣装だから?」
「それもある」
恩田は工房の壁へ目を向けた。
「でも、一番大きいのは・・・」
そこには、これまでHELL工房が手掛けてきた衣装の写真が並んでいた。
その中でも、ひときわ目を引くものがある。
黒
革
金属
髑髏の装飾
そして、巨大な翼。
目死録のステージ衣装だった。
「目死録の衣装制作で培った技術を買われたってこと」
「なるほど」
百合花も写真へ目を向けた。
十三年前、HELL工房に入った頃から何度も目にしてきた衣装だ。
普通のライブ衣装とは違う。
舞台の上で遠くから見ても、一瞬でその存在が分かるように作られている。だからこそ、形も素材も装飾も妥協しない。
けれど、派手ならそれでいいわけではない。
実際に人間が着て動くのだ。
歌う。
楽器を演奏する。
腕を振る。
ステージを走る。
そのすべてを邪魔せず、それでいて遠くから見たときの迫力も失わない。
見た目と機能。
一見、相反する二つを、どうやって一つの衣装にするか。それがHELL工房の仕事だった。
「で?これは、どんな衣装なんです?」
「それを今から説明する」
恩田は別の資料を取り出した。
「明日、先方の担当者が来る」
「明日?」
「そう。午後から打ち合わせ」
「私もですか?」
「もちろん、あなたにも同席してもらうよ」
「私が?」
「あなたが一番向いてる、と思ってるのよ」
恩田は当然のように言った。
百合花は少しだけ考えてから頷いた。
「・・・分かりました」
「それと、、、」
恩田が指を一本立てる。
「今度は納期を忘れないでよ」
「忘れません」
「その返事、信用できないのよねぇ」
「恩田さん」
「何?」
「仕事ですから」
百合花はイメージ画像を再び手に取った。
「ちゃんとやります」
「それは知ってる」
恩田は笑った。
「だから任せるのよ、百合根」
「はい」
百合花は鎧の戦士へ視線を向けた。
ゲームの衣装。
まだ詳しいことは何も分からない。
それでも、新しい仕事が始まるというだけで、胸の奥に小さな期待が生まれていた。
「ところで、ゲームのタイトルは?」
百合花が尋ねる。
「えーっと・・・」
恩田が企画書の表紙を確認する。
しばらく文字を目で追ってから、顔を上げた。
「『エターナル・ルーム』」
「エターナル・ルーム・・・」
百合花が、その名前を繰り返す。
そして、すぐに顔を上げた。
「設定資料は?」
「ん?」
「詳細な設定資料、ありますよね?」
「もちろんあるけど」
「見せてください」
声が、ほんの少しだけ早くなった。
「明日、担当者が来るんだけど?」
「ここで待ちます」
「いや、だから、、、」
「企画説明とかいらない。三面図だけでも」
百合花は恩田の持っている企画書へ視線を向けた。その目が、さっきまでとは明らかに違っている。
恩田はそれを見て、呆れたように笑った。
「百合根・・・」
「何です?」
「ゲームの衣装、好きねぇ」
「好きですよ」
百合花は即答した。
「特に、設定画を見るのが好きです」
「はいはい」
恩田は肩をすくめる。
「じゃあ、担当者が来るまでこれでも見てなさい」
「ありがとうございます!」
差し出された資料を、百合花はすぐに受け取った。
ページを開く。
まだ、ほんの数枚しかない。
それでも百合花は夢中になって目を走らせた。
描かれている衣装だけではない。
その衣装を着る人間が、どんな場所に立つのか。
どんな動きをするのか。
どんな場面で、この姿になるのか。
設定画の向こう側にあるものまで想像するように、百合花は一枚、また一枚とページをめくっていった。




