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魔王様の仕立て屋  作者: 森紬
第一章 山本百合花

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第一節 衣装職人

「......そこ、もう少しだけ詰めます」


山本百合花は、針を動かしながら言った。

黒を基調とした衣装の肩口。そこに走る縫い目を指先で押さえ、ほんのわずかに位置をずらしていく。


「ここ?」


鏡の前に立つ男が、肩を動かした。


「はい。そこです」


「見た目には分からないけどな」


「見た目の話じゃありませんから」


百合花は手を止めずに答えた。


「腕、上げてください」


「こう?」


「はい。そのまま下ろして・・・身体を捻ってください」


男が言われた通りに動く。腕を上げる。下ろす。身体を捻る。そして、もう一度腕を上げる。

百合花は正面からその動きを見た。

鏡越しに肩の位置を確認し横へ回る。最後に背中側へ移った。


「・・・ほら」


「何が?」


「ここです」


百合花が肩口を指差した。


「腕を上げたとき、布が脇に引かれてます」


「これくらいなら問題ないだろ」


「問題あります」


返事は早かった。


「本番で何回も動いたら、もっと出ます」


「そんなもんか?」


「そんなもんです」


男は鏡を覗き込んだ。確かに、言われてみればわずかな皺が寄っている。普通なら見逃してしまう程度のものだ。けれど、百合花には、それがただの皺には見えなかった。

今は小さな引っ掛かりでも、身体が何度も同じ動きを繰り返せば、布は少しずつその場所へ引かれていく。


衣装は、立っているだけなら綺麗に見える。


だが、舞台に立つ人間は止まっているわけではない。


「朝日さん、もう一度腕を上げてください」


「はいはい」


その男――インペリウム朝日。

日本を代表するヘヴィメタルバンド「目死録」のボーカル。

荘厳で物々しい衣装をまとい、ステージを縦横無尽に駆け回る。

見た目がクローズアップされがちだが、実は、その圧倒的な歌唱力こそが最大の魅力である。

そんな彼が、少し面倒そうに腕を上げる。

百合花はその動きを追った。


肩が上がる。

肘が遅れて動く。

脇が開き、背中の布が引かれる。


その瞬間、肩口にあった小さな皺がわずかに深くなった。


「・・・やっぱり」


「何だ?」


「脇の下、もう少し逃がします」


「また直すのか?」


「直します」


「昨日も直したよな?」


「昨日とは別のところです」


「・・・細かいなぁ」


百合花は苦笑した。


「細かいんじゃなくて、気になるんです」


「それを世間では細かいって言うんだよ」


朝日も鏡の中で苦笑している。

百合花は返事をせず、再び衣装へ目を戻した。

どこを直せば、身体の動きを邪魔しないのか。

それを考えることは、彼女にとって特別なことではなかった。

むしろ、衣装を作るときには自然とそうしている。


布が身体にどう沿うのか。

腕を上げればどこが引かれるのか。

身体を捻れば、どこに余裕が必要なのか。


それを考えながら、針を入れる。

そして百合花には、そういう見方をするようになった理由があった。


     *


百合花の母は、元体操選手だった。

身体の動きや姿勢を見るのが、昔からの癖だったらしい。

幼い頃の百合花が立っていると、母はよく足元を見ていた。


「もう少し足を開いてごらん」


「こう?」


「そう。今度は身体をまっすぐにしてみて」


言われるままに姿勢を変える。


「ほら。こっちの方が安定するでしょう?」


「ほんとだ」


「身体って、ちょっとしたことで変わるのよ」


幼い百合花には、その意味まではよく分からなかった。

ただ、母は人の身体を見るとき、顔や服装だけを見ているわけではないのだということだけは、なんとなく分かった。


父は整体師だった。

こちらは母とは違う角度から、人の身体を見ていた。

筋肉や関節の状態を確かめ、身体のどこに負担がかかっているのかを探る。痛いと言われた場所だけを見るのではなく、その痛みがなぜ生まれたのかまで考える。


「そこが痛いからって、そこだけが悪いとは限らないんだ」


父がそう話していたことを、百合花は覚えている。

当時は、その言葉の意味がよく分からなかった。

けれど、両親が人を見るとき、自分とは違うものを見ていることは分かった。

だから百合花も、いつの間にか人を見るようになった。


顔だけではない。


歩き方や立ち方、座るときの姿勢。腕の振り方や、身体を捻ったときにどこから動き始めるのか。

本人が意識していなくても、身体にはそれぞれの癖がある。

そして、その癖は服にも現れる。

肩の布だけが妙に引っ張られていたり、腰の後ろに皺が寄っていたりする。膝を曲げたときだけ布が突っ張ることもある。

服を着て立っているだけでは分からない。

実際に動いてもらえば、初めて見えてくるものがある。


百合花は、それを見るのが好きだった。


いや。


好きというより、いつの間にか見えてしまうようになったのかもしれない。


     *


HELL工房に入ってから、その感覚はさらに磨かれていった。


衣装を着せる。

動いてもらう。

見る。

直す。

もう一度、着せる。


何度もそれを繰り返すうちに、百合花には少しずつ分かることが増えていった。


この人は、どう動くのか。

どこに力が入るのか。

どこに身体の癖があるのか。

そして、その動きを衣装が邪魔していないか。


それは特別な能力ではない。両親から受けた影響と、十三年間の経験。何度も衣装を直し、何度も人の動きを見てきた、その積み重ねだった。


やがて百合花は、服だけを見る職人ではなくなっていった。

服を着る人間を見る職人になっていた。

だから衣装を作るとき、最初に見るのは生地でも装飾でもない。


その服を着る人間だ。


どんな身体をしているのか。

どう動くのか。

どこに力が入るのか。

そして、その人間が本来どんな動きをしたいのか。


その動きを邪魔しない衣装を作る。


それが、山本百合花の仕事だった。


     *


「ユリ先輩」


少し離れたところから声がした。百合花が振り返ると、青みがかった髪の若い女性が立っていた。

髪を後ろでまとめ、黒を基調としたゴスロリ風の作業着を身につけている。フリルや小さなリボンがあしらわれているものの、袖や裾は作業の邪魔にならないようきちんとまとめられていた。

百合花の後輩、佐々木だ。


「何?」


「また直してるんですかー?」


「うん」


「そこまでやりますー?」


「やる」


「ですよねぇ・・・」


佐々木が苦笑する。

鏡越しに二人を見ていた朝日が、面白そうに口を挟んだ。


「佐々木ちゃん、諦めた方がいいぞ」


「分かってますよー」


「ユリちゃん、一度気になったら絶対直すからな」


「朝日さんまで・・・」


「だって本当だろ?」


「そうですけど」


百合花が認めると、佐々木は小さく吹き出した。


「ユリ先輩、朝日さんの衣装だから余計に細かいんじゃないですかー?」


「・・・仕事だから」


「はいはい」


「本当に仕事だから」


「分かってますって」


佐々木は笑いながら答えた。

百合花は少しだけ視線を逸らした。

それを見た朝日が、鏡越しにニヤリと笑う。


「ユリちゃん、まだ俺のファンなんだな」


「当然です」


「即答かよ」


「十三年ですよ」


「長いなぁ」


「十三年くらいで何ですか」


佐々木が吹き出した。


「ユリ先輩、三十五歳ですよね?」


「そうだけど」


「そろそろ結婚とか......」


「しない」


「即答!」


「興味ないから」


「でも彼氏くらい......」


「いない」


「また即答・・・」


朝日が笑う。


「ユリちゃん、男より衣装の方が大事なんだろ?」


「うーん、それもあります」


「それも?」


百合花は少しだけ考えた。

そして、鏡の中の朝日を見る。


「あと、朝日さん以上に格好いいと思える人がいないので」


「・・・・」


「・・・・」


一瞬、工房の音だけが耳に入った。


ミシンの音

誰かの話し声

金具の触れ合う音


その中で、佐々木が口元を押さえている。


「ユリ先輩・・・」


「何?」


「本当に好きなんですねー」


「好きですけど」


「そこも即答なんだ・・・」


朝日は困ったように笑った。


「ユリちゃん、俺を基準にするのはやめた方がいいと思うぞ」


「余計なお世話です」


佐々木がとうとう声を上げて笑った。

百合花も、つられて笑う。

それでも、針を持つ手は止まらなかった。

好きだからこそ、手を抜きたくない。


長年、衣装を作ってきた。

何度も舞台衣装を任されてきた。

だから百合花には分かっている。


好きなものほど、妥協したくない。


「朝日さん」


「ん?」


「もう一度、身体を捻ってください」


「まだやるのか?」


「まだです」


「はいはい」


朝日が身体を捻る。

百合花は、その動きを追った。

肩から背中へ、そして腰へと身体が連動していく。その動きに合わせて衣装が引かれ、装飾がわずかに揺れる。


「・・・ここも」


「どこだ?」


「背中です」


「分からん」


「分からなくていいです」


「じゃあ、何で聞いた?」


「私が分かればいいので」


「相変わらずだなぁ」


朝日は笑った。

百合花もわずかに笑う。


それが、彼女の日常だった。


     *


「百合根ー!」


工房の奥から声が飛んできた。


百合花が顔を上げる。


「はい!」


声の主は恩田だった。


百合花がこの工房に入ってから十三年間、一緒に仕事をしてきた上司だ。百合花の性格も、仕事への執着も、誰よりよく知っている。


「ちょっと来て!」


「何です?」


「新しい案件」


恩田が手招きする。

百合花は針を置いた。


「はい」


立ち上がりながら、百合花は完成したばかりの衣装をもう一度だけ振り返った。


まだ直せるところがあるか......


ほんの一瞬、そんなことを考える。

けれど、恩田が待っている。

百合花は工房の奥へ歩き出した。


新しい仕事が始まる。


百合花にとっては、それだけのことだった。


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