序章 魔王様の戦闘服
その店は、とある街の大通りから少し外れた路地にあった。
人通りはそれほどある訳ではないが、寂れてはいない。
店先に大きな看板の類はない。
入口の脇に掛けられた小さな木札が、かろうじて店の存在を示している。
手書きで
「仕立屋 ルリエナ」
とだけ記されている。
店内には布地が並び、壁には革紐や糸、針、鋏、留め具が整然と掛けられている。
店全体を見渡せる作業台の上には裁断途中の布。その脇には、革を切るための道具。
狭くはない。
だが、広いとも言えない。
そんな小さな工房の作業台に向かい、一人の少女が針を動かしていた。
銀白色の、少しくせ毛の髪をゆるく編み、紫色の瞳を布地へ向けている。
十五歳。
この世界では、成人とされる年齢だ。
右手の親指の先と人差し指には、針仕事で出来たタコがある。十五歳ながら長年の経験を物語っている。
中指に職人が使う小さな指抜きをはめている。針を押し込むたび、金属が小さく鳴った。
そのとき・・・
カラン。
入口の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。そして、ルリエナの手が止まった。
男が身を屈め入口をくぐり抜ける。
背筋を伸ばす。
大きかった。
入口に立っているだけで、広くはない店の空間がさらに狭く感じられる。
二メートル近い巨体
広い肩
銀白色の髪
頭から後方へ大きく伸びた黒灰色の角
尖った耳
そして、人間とは明らかに異なる、僅かに紫がかった肌
黄金色の瞳が、静かに店内を見渡している。
普通の人間ならば、恐怖を覚えても不思議ではないだろう。
だが。
ルリエナが見ていたのは、角でも肌でもなかった。
肩
腰
膝
足
そして・・・立ち方
男は、ただ立っているだけだった。それでもルリエナには分かった。
重心が低い。
足裏が床を捉えている。
肩には余計な力が入っていない。
背中が僅かに広がっている。
呼吸も深い。
大きな身体を持て余している者の立ち方ではない。この身体を、自分の意思で正確に扱える者の立ち方だった。
「・・・ここが仕立屋か」
低い声だった。
「はい」
「そなたが店主か?」
「そうです」
男は少女を見下ろした。
ルリエナは動じない。
しばらくの沈黙の後、男は店内を見回した。
壁際に置かれた布。作業台。革。糸。そして、小さな少女。
その視線が、作業台の脇に置かれた一着の革製品で止まった。
男にとってみては、あまりに小さかった。
「ずいぶんと小さな店だな」
「そうですね」
「ここで余の戦闘服を仕立てられるのか?」
「はい。問題ありません」
「・・・この身体でも?」
ルリエナは、男の身体をもう一度、ゆっくりと上から下まで見た。
「問題はありません。ただし・・・」
「ただし?」
「少し片付ける必要がありますね」
ルリエナは少し、はにかみながら答えた。
男の口元が僅かに緩んだ。
「そうか」
そのときだった。男が一度、息を吐く。
「余は・・・」
低い声が店内に響いた。
「魔王だ」
「・・・そうですか」
ルリエナは頷いた。それだけだった。
そしてまた静かに針を動かしはじめた。
魔王
人間の国に暮らす者なら、誰でも知っている存在である。
長きにわたり、人間と魔族の戦いを率いてきた王。恐怖の象徴として語られることもある。
だが、ルリエナにとって今ここにいるのは、一人の客だった。
「それで、今日は何をお仕立てしますか?」
魔王を前にしても針を動かし続けるルリエナの返事に、彼は僅かに眉を上げた。
「・・・余は、魔王だぞ?」
「はい」
「恐ろしくはないのか?」
「恐ろしいかどうかと、お客様の服を仕立てることは別ですから」
魔王はしばらく黙っていた。
やがて、彼の面持ちから威厳が消え、口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「面白い娘だ」
そして言った。
「余に相応しい戦闘服を仕立ててもらいたい」
「戦闘服・・・ですか」
「ああ」
「どういうものを?」
魔王は少し考えた。
「強そうに見えるものだ」
「強そうに、ですか」
「そうだ」
「重くても?」
「構わぬ」
「動きにくくても?」
「構わぬ」
ルリエナの手が止まった。
そして、再び魔王の身体を見る。
「・・・それは、お勧めしません」
「なぜだ?」
「動きにくい服は、戦闘服として良くないからです」
「余は多少重い程度では、問題にはせぬ」
「そういう意味ではありません」
ルリエナは立ち上がった。
「魔王様」
「なんだ?」
「まず、外套と鎧を脱いでもらえますか?」
魔王は少し意外そうな顔をした。
「鎧を見たいのではないのか?」
「もちろん、後で見ますよ」
ルリエナは魔王の黄金色の瞳をまっすぐ見た。
「でも先に、魔王様自身の動きを見たいんです」
「なぜだ?」
「鎧を着た状態だけ見ても、どこまでが魔王様の動きで、どこからが鎧の制限なのか分かりませんから」
魔王は黙った。しばらく考えこんだ後、おもむろに外套を脱いだ。
続いて、身につけていた戦闘用の鎧を外していく。
胸当て
肩当て
腕部
腰
脚部
一つ外れるたびに、金属の重い音が土間へ落ちる。
そして、最後の防具が外された。
そこに現れたのは、さらに大きく見える身体だった。
鍛え上げられた肉体。
無駄のない筋肉。
だが、ルリエナが見たいのは筋肉の量ではない。
身体の使い方だ。
「少し、動いてもらえますか?」
「ここでか?」
「はい。少し待ってください・・・」
ルリエナは店内を見回した。まず今しがた縫っていた作業台の上の布をまとめる。次に裁断道具を片付ける。床に置いてあった革を壁際へ寄せる。道具箱を端へ移す。そして作業台を少しずらす。
その下から現れたのは、木の床ではなく、硬く踏み固められた土間だった。
もともとは、鍛冶屋のトルネイアスが武器や防具を保管していた物置だ。鉄の塊を置いても耐えられるよう、床だけは頑丈に作られている。
中央に人が動けるだけのスペースができた。それでも、二メートル近い巨体が自由に動くには、決して十分とは言えない。
「・・・これで、なんとか」
「十分なのか?」
「全力で戦うところまでは見られません。でも、身体の使い方を見るには十分です」
魔王は静かに頷いた。
「では、何をすればよい?」
「普段、戦うときの動きをお願いします」
「武器は?」
「なくても構いません」
「分かった」
魔王が土間の中央へ歩み寄る。
大きく息を吐く。
ゆっくりと、片足に重心を移す。
僅かに膝を曲げる。
その瞬間、ルリエナの目が細くなった。昔から集中して物を見る時の癖だ。
次の一歩を踏み込む。
床を押した力が脚から腰へ伝わる。
腰が回る。
背中がそれを受ける。
肩が遅れてついてくる。
腕が伸びる。
拳が空気を切った。
窓ガラスがビリビリと音をたてる。ルリエナのくせ毛が揺れる。
速い。
とてもその巨体から繰り出されたとは思えない速さである。
しかし力任せではない。
むしろ、余計な力がない。
魔王は拳を振り抜いた勢いを、そのまま次の動作へつないでいった。
軸足が変わる。
腰が反転する。
今度は反対の腕。
さらに一歩。
停止。
ルリエナは瞬きもせず、その一連の動きを追っていた。
足
膝
腰
背中
肩
腕
身体の各部が、ばらばらに動いているようで、実際には一本の流れになっている。
足で生み出した力を、腰が受け渡す。腰の回転を背中が支える。肩がそれを腕へ伝える。
そして最後に拳へ届く。
腕だけで殴っているわけではない。魔王自身も、それを意識しているようには見えない。
身体が覚えているのだ。
「・・・なるほど・・・」
魔王は動きを止めた。
「何が分かったのだ?」
「今の動き、いつも通りですか?」
「そうだ」
「分かりました・・・」
ルリエナは頷いた。
「では、鎧を着てください」
魔王は再び鎧を身につけていく。金属の音が土間に響く。
脛当て
脚部
腰
腕部
肩当て
胸当て
最後に留め具を締める。
見た目だけなら、十分に立派な鎧だった。重厚で、荘厳で、威圧感もある。
胸の魔石と散りばめられた宝石の装飾は、魔王という存在にも相応しい。
ルリエナは鎧をじっと見た。
鉄そのものに問題があるようには見えない。
形も悪くない。防御を考えれば、むしろよくできている。
だからこそ、彼女は思った。
惜しい。
「先ほどと同じ動きをお願いします」
「分かった」
魔王が構える。
重心を片足に乗せ、踏み込む。
ルリエナの視線が動く。
肩
腰
脚
先ほどと同じ動作。
だが・・・同じではない。ルリエナは見抜いていた。
右足が床を押す。
腰が回る。
その瞬間、腰回りの装甲が僅かに遅れた。
肩が動く。
肩当てが、ほんの一瞬遅れてついてくる。
腕が伸びる。
今度は腕部の装甲が動きを追う。
ほんの僅かな遅れ。
ほんの僅かな擦れ。
普通なら気にも留めない程度の違いであろう。
しかし、鎧を着けていない時の動きを見ていたルリエナには分かる。
魔王の身体が、鎧に合わせている。鎧が身体に合わせているのではない。
「もう一度」
魔王がコクリと頷き、動作を繰り返す。
今度はルリエナが、一歩近づいた。
魔王が腕を上げる。
「そこです」
「何?」
「右肩」
魔王が腕を止めた。
「ここまでは問題ありません。続けてください」
さらに腕を上げる。
「でも!ここから先で肩当てが遅れます」
「・・・分かるのか?」
「はい」
ルリエナは小さな背を伸ばし、肩当てに近づいた。
金属そのものには触れない。まず、留め具を見る。
次に革帯。
内側。
肩と胸の境目。
腕を動かしたとき、どこに張りが出るのか。ルリエナは指先で革帯を軽くつまんだ。
「ここです」
「そこが?」
「革が悪いわけではありません」
指を離す。
「長さと取り付け位置が、この鎧と魔王様の身体に合っていません」
次に腰を指さす。
「ここも」
脚部へ。
「ここも少し」
「・・・余には、今まで問題ないように思えたが・・・」
「問題がないんじゃありません」
間髪入れず、ルリエナは言った。
「魔王様が、問題が起きないように動いているんです」
・・・魔王が黙った。
「鎧に合わせて、無意識に動きを少しずつ変えているんです」
「それが分かるのか?」
「最初に見せてもらいましたから」
ルリエナは魔王の身体を見る。
「鎧を着ていないときの動きと比べれば、分かりますよ」
魔王は自分の鎧を見下ろした。これまで何度も戦場へ着ていった。
何度も命を守った。決して粗末なものではない。
それでも・・・
今まで一度も考えたことがなかった。自分が、鎧に合わせて動いていたなどとは。
「・・・では、どうする?」
ルリエナは腕を組み、中空を眺めながら少しの間考えた。
「鉄そのものを変える必要は、まだありません」
「まだ?」
「はい。動かしてみて、どうしても干渉する場所だけ、トルネイアスさんに相談します」
「そなたが鉄を変えるのではないのか?」
「私には鉄は変えられません」
ルリエナは即答した。
「鉄を自在に扱うのは鍛冶師の仕事です」
そして、再度魔王に近づき、鎧の内側を指した。
「私は、こっちです」
「革、か?」
「革と布。それから、留め方と配置です」
魔王は黙っている。
「鉄は守るために必要です。でも、人間の身体は鉄の板みたいには動きません」
ルリエナは自分の肩を動かしてみせた。
「肩は動く」
腰を捻る。
「腰も動く」
膝を曲げる。
「脚も動く」
そして身体を戻す。
「それぞれが少しずつ違う動きをして、それが一つにつながるんです」
ルリエナは鎧を見る。
「だから、全部を固めればいいわけじゃない」
「・・・・・」
「動くところは動かす」
肩。
「守るところは守る」
胸。
「その間を、革や布でつなぐ」
魔王が尋ねた。
「それが、そなたの仕立てか?」
「はい」
ルリエナは右の中指を見た。使い込まれた指抜きが、小さく光を反射する。
「素材を強くするわけじゃありません」
「・・・」
魔王は明らかに混乱している。
「形を変えるだけでもありません」
ルリエナの紫色の瞳が、魔王を見上げる。
「その人の身体と、素材が一番うまく噛み合うようにするんです」
魔王は何も言わなかった。
ルリエナは続ける。
「魔王様は、鎧を着て強くなるんじゃありません」
静かな、しかし、しっかりとした声だった。
「魔王様が元々持っている力を、鎧が邪魔しないようにするんです」
長い沈黙が落ちた。
やがて魔王は、自分の鎧へ視線を落とした。
「・・・余は、強くなれると思っていた」
「はい?」
「より重い鎧なら、より強くなれると」
ルリエナは首を横に振った。
「防具の性能が良いものを着れば、誰でもある程度は強くなれます。ただし、性能が全てではありません。時として重さが強さに直結する場所もあります」
「ほう」
「でも、必要以上の重さは身体の動きを遅くします」
そして、鎧の肩を指さした。
「守るためのものが、攻撃の邪魔をしてはいけません」
魔王は、しばらく肩当てを見つめた。
「・・・面白い。実に面白い。」
「え?」
「そなたは余の鎧を見て、弱いと言わなかった」
「弱くないですから」
「では、何だ?」
ルリエナは少しだけ笑った。
「もったいないんです」
ここで初めて魔王は笑った。はっきりと。
「あっははははは・・・なるほど」
そして、再び鎧を脱ぎ始めた。
「ならば、任せよう」
「はい」
「余の戦闘服を、仕立ててみよ」
「分かりました」
ルリエナは作業台へ戻った。先ほど片付けた雑多の中から、チャコペンと紙を一枚取り出した。
そこに魔王の身体を描く。
肩の位置
腕の長さ
腰の位置
脚の開き
踏み込んだときの重心
身体を捻ったときの軸
そして、鎧が遅れた場所
一つずつ。
丁寧に。
線を引いていく。
その姿を、魔王は黙って見ていた。
少女の手は小さい。
身体も小さい。
店も小さい。
魔王と相対すれば、戦闘とかけ離れた人間ほど、小さくなり、怯む。
けれど、その目だけは、目の前の巨体に少しも怯んでいなかった。
見ているのは魔王ではない。
一人の人間・・・いや、一人の戦士の身体だった。
このとき、ルリエナはまだ知らなかった。自分が仕立てることになるのは
魔王のための一着の戦闘服だけではない。
やがて彼女は知ることになる。
人間と魔族が、なぜ戦い続けているのか。
なぜ魔王が魔王であり続けるのか。
そして・・・
「魔王」という役割そのものが、本当にこのままでいいのか。
その問いに、彼女自身が針を入れることになるとは。
これはまだ、その始まりに過ぎなかった。




