第一節 五歳
春になった。
冬の間、白く冷えていた朝の空気も少しずつ柔らかくなり、セアドール村のあちこちで新しい芽が顔を出していた。
畑では土を起こす音が聞こえ、家々の軒先には冬の間に使った薪が積まれている。道端の草も少しずつ緑を増し、昼間には小さな虫が飛ぶようになっていた。
そんな春の日に、ルリエナは五歳になった。
三歳の頃と比べると、身体もずいぶん大きくなった。
まだ母の作業台には届かないが、踏み台を使えば、その上に並べられた布や革に手が届く。
フィーネに頼まれれば、糸を巻くこともできるようになった。
「ルリエナ、これを巻いてくれる?」
「うん」
母から糸を受け取り、ルリエナは小さな手でゆっくりと巻いていく。
以前は途中で糸を絡ませたり、強く引っ張りすぎたりすることも多かった。
けれど最近は、糸が張りすぎないように手を動かせるようになっている。
自分でも、いつの間に上手くなったのかは分からない。
何度もやっているうちに、手が覚えていった。
布をたたむときも同じだった。
柔らかい布なら、少し形を崩しても元に戻る。
張りのある布は、折った場所がそのまま残りやすい。
革も同じではない。
見た目が似ていても、触れば違う。
硬いもの。
柔らかいもの。
曲げるとすぐ戻るもの。
ゆっくり戻るもの。
ルリエナは、そんな違いを見つけるのが好きだった。
理由を考えているわけではない。
ただ、触っていると面白かった。
「ルリエナ、そろそろお昼よ」
「はーい」
フィーネに呼ばれ、ルリエナは糸を置いた。
昼食を終えると、今度はガルドと一緒に村の外へ出た。
その日は森の入口近くまで行っていた。
ガルドが拾った枝をまとめている間、ルリエナは地面にしゃがみ込み、芽を出した草を眺めていた。
少し離れた場所では、小さな虫が葉の上を歩いている。
風が吹く。
木の枝が揺れる。
遠くで鳥が鳴いた。
「お父さん」
「ん?」
「あれ、食べられる?」
ルリエナが指差したのは、地面から顔を出しているきのこだった。
ガルドが近づき、しゃがみ込む。
「これは食べられない」
「この前のきのこと似てるね」
「見た目が似ていても、違うからな」
ガルドはきのこの笠を指差しながら説明した。
「森には、似ているものがたくさんある。見ただけじゃ分からないものもあるんだ」
「・・・触ったら?」
「触って分かるものもある。でも、触る前に俺に聞け」
「うん」
ルリエナは素直に頷いた。
それから二人で村へ戻った。
村の中を歩いていると、前から大きな身体をした赤髪の男が歩いてきた。
「おう、ガルド」
「やあ、レオニス」
「森帰りか?」
「ああ」
レオニスの隣には、ルリエナと同じくらいの歳の男の子がいた。
赤い髪をした男の子は、道端に落ちていた小石を拾っている。
しゃがみ込んでは、小石を並べたり、指で転がしたりしていた。
一方のルリエナは、少し離れた場所に生えている草を眺めていた。
風が吹くたびに揺れる葉を、じっと目で追っている。
レオニスとガルドは、そんな子どもたちを気にする様子もなく話を続けていた。
「森の方はどうだった?」
「昨日、魔獣の跡を見つけた」
「近かったのか?」
「いや。まだかなり奥だ。ただ、足跡が新しかった」
「そうか。じゃあ、しばらくは奥へ行くときに気をつけないとな」
「ああ。あの辺りは一人で行かない方がいい」
大人たちの話は続いている。
けれど、二人の子どもは互いを見ようともしなかった。
ルリエナは草を眺めている。
男の子は小石を並べている。
それぞれ、自分のしていることに夢中だった。
「じゃあな」
「ああ。またな」
大人たちが別れる。
男の子も立ち上がり、小石をその場に残したまま父親についていった。
ルリエナも、何事もなかったようにガルドの後を歩く。
その日の二人にとって、相手はただそこにいただけだった。
ルリエナは、赤い髪の男の子がいたことさえ、すぐに忘れてしまった。
翌日の朝。
ルリエナが村の道を歩いていると、後ろから声がした。
「エナ!」
振り返る。
赤い髪の男の子が、こちらへ走ってきた。
「遊ぼうぜ!」
「・・・誰?」
男の子が止まった。
「え?」
「誰?」
「俺だよ!」
「知らない」
「昨日も会っただろ!」
「昨日?」
ルリエナが首を傾げる。
男の子は、しばらく何も言わなかった。
「・・・忘れたのかよ」
その顔があまりにも困っていたので、ルリエナは思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「笑うなよ!」
「だって・・・」
男の子も、つられるように笑った。
「俺、レオン!」
「レオン・・・」
「そう!」
「私はルリエナ」
「知ってる。ガルドおじさんの娘だろ?」
「うん」
「じゃあ、遊ぼうぜ!」
レオンはそう言って、返事を待たずに走り出した。
「待って」
ルリエナも後を追う。
村の外れまで来ると、レオンは地面に落ちていた一本の木の枝を拾った。
両手で握り、胸の前に構える。
「見てろよ」
真剣な顔だった。
「俺、冒険者になるんだ」
「冒険者?」
「父ちゃんみたいに!」
レオンの父、レオニスは村でも腕の立つ男だった。
その背中を、レオンはいつも見ているのだろう。
レオンは木の枝を振った。
「こうやって魔物を倒して、困ってる人を助けるんだ!」
「・・・すごいね」
「だろ?」
得意そうに胸を張る。
もう一度、枝を振る。
そのときだった。
「うわっ!」
足元の小さな石につまずき、レオンが前へ転がった。
「レオン!」
ルリエナが駆け寄る。
レオンは地面に手をつき、すぐに顔を上げた。
「大丈夫!」
膝を見ると血は出ていないが擦ったあとがついている。
けれど、レオンは気にしていない。
「もう一回!」
「また転ぶよ」
「転ばない!」
レオンは立ち上がり、木の枝を握り直した。
ルリエナは足元に落ちていた別の枝を拾った。
「じゃあ、私も」
「エナのは剣じゃないだろ」
「剣だよ」
「俺のは剣!」
「私のも剣」
「違う!」
「同じだよ」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
その日からだった。
村の中で、赤い髪の男の子と、森へ行く父親を持つ女の子が、一緒にいる姿を見かけるようになったのは。
まだ二人は知らない。
これから何年もの間、同じ道を歩いていくことを。




