第三節 好きなもの
ある日の昼下がり。
家の戸が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
フィーネが作業台から顔を上げる。
「今日は早かったのね」
「ああ」
ガルドは手にしていた小さな籠を置いた。
その中には、いくつかの採取物が入っている。
きのこ
木の実
乾いた枝
そして――小さな壺が一つ。
「今日は何?」
フィーネが壺を持ち上げる。
「蜂蜜」
「まあ!」
フィーネの顔が明るくなった。
「久しぶりじゃない。どうしたの?」
「森の奥で見つけた」
「採ったの?」
「巣が落ちていた。蜂はいなかった」
「そう。じゃあ、いただきましょうか」
その会話を聞いていたルリエナが、作業台の向こうから顔を出した。
「はちみつ?」
「そうよ」
「それ、、、何?」
「甘いわよー」
フィーネが笑う。
「食べてみる?」
「うん!」
フィーネが小さなスプーンを取り出した。
壺のフタを開ける。
中から、とろりとした黄金色の蜂蜜が姿を現した。
窓から差し込んだ光を受けて、きらりと光る。
「きれい・・・」
「でしょう?」
フィーネがスプーンの先に少しだけ蜂蜜を取った。
「はい」
ルリエナは恐る恐る舌を伸ばした。
そして――
止まった。
「・・・!」
フィーネが首を傾げる。
「どう?」
ルリエナは答えない。
もう一度、スプーンを見る。
そしてフィーネの顔を見る。
「・・・お母さん」
「なあに?」
「これ」
「うん」
「・・・もう一回」
フィーネが吹き出した。
「そんなに気に入ったの?」
「うん!」
即答だった。
「はい、もう一口」
今度は自分から口を開ける。
「ゆっくり食べなさいよ」
「うん!」
ぱくっ。
ルリエナの顔が、ぱっと明るくなった。
「おいしい!」
「でしょう?」
「甘い!」
「蜂蜜だからね」
「もっと!」
「食べすぎは駄目」
「・・・もう一回」
「一回だけよ」
「もう一回!」
「ルリエナ」
「・・・お願い」
フィーネは困った顔をしながら笑った。
「本当に気に入ったのね」
その横で、ガルドが黙って蜂蜜の壺を見ていた。
「・・・」
「どうしたの?」
フィーネが尋ねる。
「いや」
ガルドは娘を見る。
「そんなに好きなら、また探してくる」
「ほんと?」
ルリエナが振り返る。
「ああ」
「やった!」
ガルドは少しだけ眉を上げた。
「ただし、蜂がいるところには近づかない」
「うん!」
「巣が落ちていたらだ」
「うん!」
「勝手に取らない」
「・・・うん」
最後だけ、少し返事が遅れた。
フィーネが笑う。
「そこは大事ね」
ルリエナは蜂蜜の壺を見た。
もう一度見る。
そしてフィーネを見る。
「お母さん」
「なに?」
「もう一回」
「・・・さっき食べたでしょう?」
「もう一回だけ」
「さっきもそう言ったわよ」
家の中に、フィーネの笑い声が響いた。
*
それから数日後。
夕方、ガルドとルリエナが家へ戻る頃には、空が赤く染まっていた。
「ただいまー!」
ルリエナが先に扉を開ける。
「おかえりなさい!」
奥からフィーネの明るい声が返ってきた。
「今日はどうだった?」
「いっぱい見た!」
「いっぱい?」
「葉っぱとか、きのことか、鳥とか!」
「まあ。ずいぶん色々見たのね」
フィーネが笑いながら二人を迎える。
ガルドはいつものように短く、
「ただいま」
と言っただけだった。
「はいはい、お疲れさま。手を洗ってきてね。今日はね、朝のきのこを使って料理したのよ」
「きのこ!」
「そう。ルリエナが見たきのこでしょう?」
「うん!」
ルリエナは嬉しそうに頷いた。
食卓に並んでいるのは、穀物と野菜の煮込み、それにきのこの入った汁物だった。
決して豪華な食事ではない。
けれど、森から持ち帰ったきのこが入っているだけで、ルリエナには少し特別に思えた。
「このきのこ、おいしいね」
ルリエナがスプーンを動かす。
「でしょう?」
フィーネが嬉しそうに答える。
「お父さんが採ってきたのよ」
「うん。見た」
「見ただけ?」
「食べた」
「食べたのは今でしょう?」
「そうだけど」
フィーネが笑った。
ガルドは黙って食事を続けている。
その横で、ルリエナは今日見たものを一つずつ母親に話していた。
「それでね、お父さんが『全部見るんだ』って」
「まあ。ガルドらしいわね」
「それから、芽を踏んじゃダメって」
「それは大事ね」
「あとね、森はもっと大きいんだって」
「そうよ」
フィーネが笑う。
「ルリエナが今日見たのは、まだ入り口のほうでしょう?」
「・・・まだあるの?」
「まだまだ奥深くあるのよ」
ルリエナの目が輝いた。
「行ってみたい!」
フィーネはすぐにガルドを見る。
「・・・ダメよ」
「なんで?」
「お父さんに聞いて」
ルリエナもガルドを見る。
ガルドはキノコを口に運びながら答えた。
「まだ早い」
「いつならいい?」
「もう少し大きくなってから」
「どれくらい?」
「・・・もう少し」
「それ、いつ?」
フィーネが吹き出した。
「ほら。あなた、そういうところよ」
ガルドは黙って食事を続けた。
「あなたが『もう少し』って言うと、子供には永遠に来ないみたいに聞こえるのよ」
「そうか?」
「そうよ」
フィーネは笑った。
「でも、今日は楽しかったみたいね」
ガルドはルリエナを見る。
「ああ」
「何か変わったことあった?」
少しの沈黙。
ガルドはスプーンを置いた。
「よく見ていた」
「何を?」
「森を」
「いつものことじゃない?」
「そうじゃない」
ガルドは少し考える。
「俺が見ているものを、同じように見ようとしていた」
フィーネは娘を見る。
ルリエナは、まだ食事に夢中だった。
「それは・・・あなたの真似をしてるんじゃない?」
「かもしれない」
「なら、いいじゃない」
フィーネは笑った。
「あなたと私から、好きなものを一つずつ覚えてくれれば」
ガルドが妻を見る。
「私からは何だと思う?」
「針と糸」
「それはもう覚えてるわよ」
フィーネは嬉しそうに笑った。
「この前なんて、私の仕事を横からずっと見てたんだから」
「そうか」
「それにね、この子、布を触ると妙なことを言うのよ」
「妙なこと?」
「こっちは伸びるとか、こっちは硬いとか」
ガルドはルリエナを見る。
「・・・素材を見ているのか」
「どうかしらね」
フィーネは肩をすくめる。
「まだ三歳よ。本人は遊んでるだけでしょう」
「そうだな」
ガルドはそれ以上言わなかった。
けれど、娘の小さな手を見る。
森で樹皮を触っていた手。
布を触っていた手。
今はスプーンを握っている手。
まだ何も知らない。
それでも、目の前にあるものを一つずつ覚えようとしている。
そんなふうに、ガルドには見えた。
「ねえ、お父さん」
「なんだ?」
「明日も森?」
「ああ」
「私も?」
「家の周りだけならな」
「やった!」
ルリエナが笑う。
フィーネも笑った。
「良かったわね」
食事が終わる。
フィーネが食器を片付けている間、ルリエナは何かを思い出したように振り返った。
「お父さん」
「なんだ?」
「はちみつは?」
ガルドがフィーネを見る。
フィーネもガルドを見る。
二人とも、同時に笑った。
「少しだけね」
「やった!」
ルリエナは両手を上げた。
森から持ち帰ったきのこ。
母が作った料理。
父と歩いた道。
そして、甘い蜂蜜。
どれも特別なものではない。
けれど、その頃のルリエナにとっては、一つひとつが新しく、面白く、好きなものだった。
その夜も、家の中には三人の笑い声が響いていた。




