第七話 「増える寄生虫」
翌朝。
直人は、ほとんど眠れなかった。
壁にも、床にも、何もいなかった。
それでも耳の奥には、昨夜聞いた音が残っている。
カサ……。
カサカサ……。
目を閉じると、無数の黒い虫が自分の周囲を這い回っているような気がした。
直人は鏡の前に立った。
顔色が悪い。
目の下には濃い隈ができている。
「……疲れてるだけだ」
そう呟いて、仕事へ向かった。
◆
昼休み。
スマートフォンを見ると、メッセージが十件以上届いていた。
『昨日はありがとな』
『また今日も勝負しよう』
『今度は絶対勝てる』
『直人なら大丈夫』
そして――
『ちょっと金貸してくれない?』
直人は画面を閉じた。
もう嫌だった。
金の話ばかり。
博打の話ばかり。
「男気」の話ばかり。
以前の自分の生活には、こんなものはなかった。
昼休みが終わる直前、一人の同僚が近づいてきた。
「直人さん」
「ん?」
「ちょっとお願いがあるんですけど……」
直人は嫌な予感がした。
「金?」
「え?」
「……いや」
同僚は苦笑した。
「実は今月、ちょっと厳しくて」
直人は黙った。
「三万円だけ貸してもらえませんか?」
「……無理だよ」
初めて、はっきり断った。
同僚は驚いた顔をした。
「え?」
「俺も余裕ないから」
「でも……」
「ごめん」
直人は席を立った。
その瞬間だった。
背後から、
「……男気ないな」
小さな声が聞こえた。
直人は振り返った。
「今、何か言った?」
「え?」
同僚は不思議そうな顔をしている。
「いや……何でもない」
直人はその場を離れた。
◆
その日の夜。
直人のもとに電話がかかってきた。
「直人、今日どうだった?」
「何が?」
「勝負」
「今日は行かない」
「なんで?」
「もうやめる」
電話の向こうが静かになる。
「……本気?」
「うん」
「借金どうすんの?」
「働いて返す」
「無理だろ」
直人の手が止まった。
「……何で?」
「金額、分かってる?」
「分かってる」
「普通に働いてたら何年かかると思ってんの?」
直人は答えられなかった。
「だから勝負するんだよ」
「嫌だ」
「直人」
声が低くなる。
「仲間だろ?」
「……」
「困ったときは助け合うもんだろ?」
直人は目を閉じた。
胸の奥が苦しくなる。
「俺は……」
その言葉を口にした瞬間。
耳元で、
「男気を見せろ」
と囁かれた。
「……今日は行かない」
直人は電話を切った。
◆
翌日。
友人から連絡は来なかった。
その翌日も。
さらに次の日も。
直人は少しだけ安心した。
これで終わる。
そう思った。
ところが、一週間後。
会社から帰ろうとした直人の前に、見知らぬ男が立っていた。
「直人さん?」
「……誰ですか?」
「○○さんの友達です」
直人の顔が曇る。
「何か?」
「あなた、困ってるんですよね?」
「……」
「俺なら力になれますよ」
「結構です」
直人が歩き出す。
男が後ろから言った。
「でも、男気のある人なら――」
直人の足が止まった。
ゆっくり振り返る。
「……今、何て言いました?」
男は笑った。
「何でもありませんよ」
その首元。
直人には見えた。
黒い虫が一匹。
男のシャツの襟から這い出している。
虫は首筋を上り、耳元へ向かっている。
そして――
男の耳に潜り込んだ。
「……!」
直人は後ずさった。
男は何も気にしていない。
「また連絡しますね」
そう言って去っていった。
◆
その夜。
直人は昔の友人に電話をかけた。
博打にも誘ってこない。
金も借りてこない。
唯一、普通に話ができた友人だった。
「久しぶり」
『どうした?』
「……ちょっと話したい」
直人は、これまでのことを話した。
借金。
博打。
友人たち。
そして黒い虫のこと。
電話の向こうが長い沈黙に包まれる。
『直人』
「うん」
『もう、あいつらと関わるな』
「……でも」
『でもじゃない』
「俺が逃げたら……」
『逃げろよ』
直人は黙った。
『それは逃げじゃない』
友人の声は優しかった。
『自分を守るんだよ』
直人の目に涙が浮かんだ。
「……ありがとう」
電話を切る。
その瞬間。
スマートフォンの画面に、一件のメッセージが表示された。
『裏切るの?』
直人の心臓が跳ねた。
送信者は――
さっき電話した友人だった。
「……え?」
直人は電話をかけ直した。
呼び出し音。
出ない。
もう一度。
出ない。
すると、またメッセージが届いた。
『仲間だろ?』
直人は震える手で画面を見つめた。
「……違う」
呟いた。
「お前じゃない」
その瞬間、部屋の電気が消えた。
真っ暗になる。
直人の足元から、
カサ……
という音。
一匹。
二匹。
三匹。
暗闇の中で、何かが増えていく。
直人はスマートフォンの明かりを床に向けた。
そこには――
黒い虫が、無数に集まっていた。
その中心に、一枚の紙が落ちている。
拾い上げる。
紙には、赤い文字で一言だけ書かれていた。
「男気を見せなければならない」
直人は、その文字を見つめた。
そして初めて気づいた。
これはお願いではない。
脅迫でもない。
義務だった。
そう思い込まされている。
そして、その思い込みこそが――
寄生虫たちにとって、最も都合のいい餌だった。




