第五話 「負けを取り返せ」
土曜日の朝。
直人は目を覚ますと、最初に財布を確認した。
中には、数枚の紙幣しかない。
昨日までなら、少ないと思っただけだった。
今は違う。
その金が、妙に心細く感じる。
「……今日、勝てばいい」
誰に言うでもなく、直人は呟いた。
そして、自分の言葉に自分で驚いた。
昨日までは、博打なんてやらないと言っていた。
今では、
「勝てばいい」
が当たり前になっている。
◆
午後。
直人は再び友人たちと合流した。
「今日はどうする?」
「昨日と同じ」
友人が笑った。
「昨日より大きくいこうぜ」
「……いくら?」
「二十万」
直人は言葉を失った。
「無理だよ」
「じゃあ十万」
「それも無理」
「直人」
友人が真顔になった。
「昨日、勝っただろ?」
「でも、その金は……」
「みんなで使った」
「……」
「仲間なんだから当然だろ?」
直人は黙った。
また「仲間」。
そして、最後には必ず――
「男気見せろよ」
その言葉が出てくる。
直人は財布を握った。
「十万なら……」
「よし!」
◆
最初の勝負。
負けた。
二回目。
負けた。
三回目。
負けた。
直人の喉が乾いていく。
「もうやめる」
そう言った瞬間、友人が笑った。
「何言ってんだよ」
「もう金がない」
「借りればいい」
「無理だ」
「じゃあ、昨日勝った金は?」
「もうない」
「でも借金は残ってるだろ?」
直人は顔を上げた。
「……何が言いたい?」
「取り返すしかないだろ」
「どうやって?」
友人は簡単なことのように言った。
「もう十万借りればいい」
直人は首を横に振った。
「これ以上は無理だ」
「なんで?」
「借金になる」
「だから勝てば返せるって」
「でも負けたら……」
友人はため息をついた。
「直人さ」
そして、笑った。
「お前、男気ないな」
胸が痛んだ。
耳元で、あの声がする。
――男気を見せろ。
直人は目を閉じた。
「……十万、借りる」
◆
その日の終わり。
直人は、さらに三十万円の借金を抱えていた。
勝負の途中、一度だけ大きく勝った。
だが、その金を元手にさらに賭けた。
そして失った。
「……何でだよ」
直人はテーブルを見つめた。
自分の前には、何もない。
友人たちは帰り支度を始めていた。
「じゃあ、またな」
「……待って」
「何?」
「今日の金……」
「何?」
「少し貸してくれないか?」
友人が笑った。
「俺も金ないんだよ」
「でも……」
「直人」
友人が肩を叩く。
「男なら自分で何とかしろよ」
そう言って帰っていった。
一人残された直人。
店の照明が落ちる。
床を見ると、黒い虫が這っていた。
それは直人の足元を通り過ぎ、友人たちが座っていた椅子へ向かう。
そして、そこに落ちていた紙幣の切れ端に群がった。
「……お前ら」
直人は呟いた。
「俺が金を持ってるときだけ……」
虫たちが一斉に動きを止める。
直人の方を向いた。
そして、何匹もの虫が同時に鳴いた。
「仲間だろ?」
直人は息を呑んだ。
◆
帰宅してから、直人は借金の額を計算した。
紙に数字を書いていく。
最初の借金。
博打のための借金。
友人に渡した金。
さらに今日の借金。
合計金額を見た瞬間、手が止まった。
「……俺、こんなに……」
怖くなった。
数字が、現実ではないように見える。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
「はい……」
『直人さんですか?』
男の声。
『お支払いについて確認したいのですが』
直人の血の気が引いた。
「……はい」
『期日までにお願いします』
電話が切れた。
部屋が静かになる。
直人は床に座り込んだ。
「返せない……」
その言葉が口から漏れた。
返せない。
どう考えても、返せない。
翌月の給料だけでは足りない。
貯金もない。
友人たちは助けてくれない。
誰かに相談しようにも、恥ずかしくてできない。
そして――
耳元から声がした。
「勝てばいい」
直人は顔を上げた。
「……誰?」
「もう一度、勝てばいい」
「無理だ……」
「男気を見せろ」
部屋の隅を見る。
そこには何もない。
だが、床には黒い虫が一匹いた。
その虫が、直人の財布へ向かってゆっくり這っていく。
直人は財布を掴んだ。
虫を振り払う。
それでも声は消えない。
「負けを取り返せ」
直人は両手で頭を抱えた。
「……もう嫌だ」
初めてそう呟いた。
しかし、その夜。
直人は眠る前にスマートフォンを手に取った。
そして、自分から友人へメッセージを送った。
『明日、勝負できる?』
送信。
既読。
すぐに返信が来た。
『もちろん』
その下に、もう一行。
『今度こそ男気見せようぜ』
直人は画面を見つめた。
そして、ほんの少し笑った。
その笑顔は――
もう、以前の直人のものではなかった。




