第四話 「男気の値段」
翌日の夜。
直人は、昨日と同じ店の前に立っていた。
帰ろうと思えば、今すぐ帰れる。
財布の中には、わずかな現金しかない。
ここに来なければ、それ以上失うこともない。
そう分かっていた。
それでも足は動かなかった。
「来たな」
背後から声がした。
振り返ると、昨日の友人が笑っていた。
「遅いぞ」
「……帰ろうと思ってた」
「またまた」
友人は直人の肩を叩いた。
「お前がそんな簡単に逃げるわけないだろ」
その言葉に、直人は何も言えなかった。
店の中へ入る。
◆
「今日は十万だけでいい」
テーブルに置かれた紙幣を見て、直人は息を飲んだ。
「十万?」
「そう」
「俺、そんなに持ってない」
「借りればいいじゃん」
「借金は嫌だよ」
友人は笑った。
「昨日までの直人は、友達のためなら十万出せたじゃん」
「それは……」
「じゃあ自分のためなら出せないの?」
直人は黙った。
「一回勝てばいいんだよ」
友人がカードを指で叩く。
「昨日みたいに勝てば、全部戻る」
「でも昨日は負けた」
「だから取り返すんだろ?」
その瞬間。
直人の耳元に、あの声がした。
――男なら。
続いて、別の声。
――逃げるな。
さらにもう一つ。
――男気を見せろ。
「……十万」
直人は呟いた。
「借りる」
友人が笑った。
「そうこなくちゃ」
◆
最初の勝負。
負けた。
五万円。
二回目。
負けた。
さらに五万円。
直人の手のひらに汗が滲んだ。
「もうやめる」
直人が立ち上がる。
すると友人が言った。
「ここで?」
「……」
「十万借りて、負けたまま帰るの?」
「でも……」
「男なら取り返せよ」
直人は座り直した。
三回目。
勝った。
「……!」
一気に金が戻ってきた。
「ほら!」
友人が笑う。
「やっぱりお前、持ってるよ!」
直人の胸が高鳴った。
そして次の勝負。
勝った。
さらに勝った。
最初に借りた十万円が、いつの間にか二十万円を超えていた。
「すごい……」
直人は呟いた。
「これなら借金も返せる」
「そうだよ」
友人が笑った。
「だから言っただろ?」
直人は久しぶりに笑った。
これで終われる。
本当にそう思った。
◆
帰ろうとした直人を、友人が呼び止めた。
「なあ」
「何?」
「今日、勝っただろ?」
「うん」
「じゃあさ」
友人は周囲を見回した。
「みんなに少し返してやろうぜ」
「みんなに?」
「お前が勝てたのも、俺たちが付き合ってやったからだろ?」
直人は眉をひそめた。
「でも、俺が賭けた金だろ?」
「そうだけど」
友人の笑顔が消える。
「お前、変わったな」
「……え?」
「前のお前なら、そんなこと言わなかった」
周囲の人間たちが直人を見る。
「男気あると思ってたのにな」
胸が締め付けられた。
まただ。
この言葉。
直人は財布から札を取り出した。
「……いくら?」
「十万」
「十万……」
「それくらい、いいだろ?」
直人は震える手で金を渡した。
「ありがとう」
友人が笑った。
その瞬間。
直人には見えた。
友人の口の端から、黒い虫が這い出してきた。
一匹。
その虫はテーブルの上の札へ向かって這っていく。
そして札に触れた瞬間――
紙幣の中へ潜り込んだ。
「……!」
直人は思わず後ずさった。
「どうした?」
「今……虫が……」
「虫?」
友人は笑った。
「疲れてるんじゃない?」
直人は何も言えなかった。
◆
店を出た。
財布を開く。
勝ったはずなのに、残っている金はわずかだった。
直人は立ち尽くした。
「……何でだよ」
勝った。
確かに勝った。
なのに、自分の手元には何も残っていない。
スマートフォンが鳴った。
最初に十万円を借りた友人だった。
『直人、悪い。まだ返せそうにない』
「……分かった」
『それとさ』
「何?」
『もう一回だけ、助けてもらえない?』
直人は目を閉じた。
「……いくら?」
『五万円』
電話の向こうで笑い声が聞こえた。
直人は断ろうとした。
だが――
耳元で声がした。
「男気を見せろ」
直人は財布を握りしめた。
「……分かった」
◆
電話を切った直後。
直人の足元に、黒い虫がいた。
その虫は一匹ではなかった。
二匹。
三匹。
いつの間にか、道路の隙間から次々と這い出してくる。
そして全ての虫が、直人の財布へ向かって進んでいた。
直人は後ずさった。
だが、虫たちは追ってこない。
財布の前で止まり、じっと待っている。
まるで――
次の餌が来るのを待っているように。
直人は財布を胸に抱えた。
その夜、初めて思った。
もしかすると、自分の周りにいる人間たちは、
自分を友達だと思っているのではなく、金を吐き出す何かだと思っているのではないか。
しかし、その疑問を振り払うように、スマートフォンがまた鳴った。
『明日も勝負しようぜ』
画面を見つめる直人。
返信欄に指を置く。
しばらく迷ったあと――
『分かった』
と送った。
その瞬間、画面の黒い反射の中で、
直人の肩に乗った一匹の虫が、
ゆっくりと口を開いた。
「もっと男気を見せろ」




