第二話 「最初の勝負」
十万円を貸してから、二週間が経った。
友人からは、まだ返金されていない。
直人は何度か連絡をしようと思った。
だが、スマートフォンを手に取るたび、やめてしまう。
「来月には返すって言ってたし……」
自分にそう言い聞かせた。
問題は、それだけではなかった。
三万円を貸した友人からも、返金の話は一度も出てこない。
合計十三万円。
社会人になってから少しずつ貯めてきた金だった。
その金が、たった数週間で消えた。
それでも直人は、誰かを責めることができなかった。
――困っていたんだから仕方ない。
そう思うしかなかった。
◆
金曜日の夜。
仕事を終えた直人が会社を出ると、駐車場で声をかけられた。
「直人!」
振り返る。
先日の友人だった。
「今から飯行こうぜ」
「悪い。今日は帰るよ」
「いいじゃん。ちょっとだけ」
「明日も予定あるから」
直人が断ると、友人は笑った。
「相変わらず真面目だな」
「そうかな」
「そうだよ。だからさ」
友人は直人の肩を叩いた。
「一個、面白いことしようぜ」
「何?」
「勝負」
「……勝負?」
「博打」
直人の顔が曇った。
「俺、そういうのやらないよ」
「知ってる」
「じゃあ、なんで誘うんだよ」
「だから面白いんじゃん」
友人は笑った。
「今日だけ。ちょっと遊んで帰ろうぜ」
「いや、本当にいいって」
「怖いの?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何?」
「金ないし」
その瞬間、友人の笑顔が少しだけ変わった。
「この前、俺に十万貸してくれたじゃん」
「……それは関係ないだろ」
「いや、関係あるよ」
友人は直人を見つめた。
「人のためには十万出せるのに、自分のためには一円も使わないの?」
「……」
「それってどうなの?」
直人は答えられなかった。
「男ならさ」
友人が笑う。
「一回くらい勝負しようぜ」
その言葉を聞いた瞬間。
まただった。
耳の奥で、あの声がした。
――男気を見せろ。
直人は眉間を押さえた。
「……分かったよ」
「よし!」
◆
店の奥にある小さな個室。
直人は椅子に座り、目の前に置かれたカードを見つめていた。
数千円だけ。
本当にそれだけのつもりだった。
「これで最後にするからな」
「分かってるって」
友人が笑う。
最初は負けた。
次も負けた。
そして三回目。
直人は勝った。
「……え?」
予想以上の金が戻ってきた。
「すげえ!」
友人が叫ぶ。
「直人、持ってるじゃん!」
「いや、偶然だろ」
「いやいや、才能あるって」
次の勝負。
また勝った。
さらに次も。
気づけば、最初に持っていた金の何倍もの金になっていた。
直人の手が震えた。
「……こんなに勝つの?」
「だから言っただろ」
友人が笑う。
「勝負って面白いだろ?」
直人は笑ってしまった。
胸の奥が熱くなる。
金を失う怖さではない。
勝つ快感だった。
「もう一回だけ」
直人が言った。
「もちろん」
◆
その夜。
直人は大きく勝って店を出た。
財布が重い。
こんな感覚は久しぶりだった。
「なあ、直人」
「ん?」
「今日、勝った記念に奢ってくれよ」
「え?」
「いいじゃん。男気見せろよ」
直人は少し考えた。
だが、財布を見る。
「……まあ、いいか」
店に入り、二人で食事をした。
酒を飲む友人の隣で、直人はジュースを飲んでいた。
「直人って本当にいい奴だよな」
「そうかな」
「うん」
友人は笑った。
「お前みたいな奴、俺は好きだよ」
直人は少し照れた。
その瞬間だった。
友人の首元に、黒いものが見えた。
小さな虫。
一匹。
直人の目の前で、それが皮膚の下へ潜り込んだ。
「……!」
直人は椅子を引いた。
「どうした?」
「いや……」
友人が首を触る。
「何かついてた?」
「……何もない」
直人はそう答えた。
見間違いだ。
そう思おうとした。
しかし。
店のガラスに映った二人の姿を見たとき――
直人の背後にも、黒い虫が一匹いた。
肩に乗っている。
そして、直人の耳元へ顔を近づけるように蠢いていた。
直人は振り返った。
誰もいない。
もう一度ガラスを見る。
虫は消えていた。
◆
帰宅した直人は、財布の中の金を数えた。
「……これだけあれば」
十三万円。
貸した金のほとんどを取り戻せる。
そう思った。
しかし、スマートフォンが鳴った。
最初に十万円を借りた友人からだった。
『直人、悪い』
「どうした?」
『もうちょっとだけ待ってくれ』
「……分かった」
『本当に助かるわ』
電話を切った。
今度は三万円を借りた友人。
『直人、今いい?』
「何?」
『ちょっと相談があるんだけど』
嫌な予感がした。
『実はさ――』
また金だった。
直人は財布を見る。
今日、勝った金。
その金を見つめながら、直人は思った。
――どうせまた勝てばいい。
その瞬間。
部屋の隅から、かすかな声が聞こえた。
誰かが笑っている。
そして。
「もう一回だけ」
直人は、その声を聞いても不思議と怖くなかった。
むしろ――
安心した。
それが、最初の勝負だった。




