第一話 「男なら、助けろ」
直人は、特別な人間ではなかった。
二十四歳。
仕事は真面目にこなし、遅刻もほとんどしない。人付き合いが得意なわけではないが、頼まれれば断れない。
将来は、普通に暮らしたかった。
大きな家はいらない。
高級車もいらない。
好きな人と結婚して、仕事をして、帰る場所があれば、それで十分だった。
だからこそ、最初の一歩が間違いだったことに、直人は最後まで気づかなかった。
◆
その夜、仕事を終えた直人のスマートフォンが鳴った。
「直人? 今からちょっと会えない?」
電話の相手は、学生時代からの友人だった。
「今から?」
「うん。頼みたいことがある」
直人は時計を見た。
午後十時を過ぎている。
明日も仕事がある。
断ろうと思った。
だが、電話の向こうの声が妙に弱々しかった。
「……金、貸してほしいんだ」
「金?」
「十万だけ」
直人は黙った。
十万円。
決して小さな金ではない。
「何に使うんだ?」
「ちょっと支払いがあって……。明日までに必要なんだ」
「いつ返せる?」
「来月には絶対返す」
直人はため息をついた。
「十万はちょっと……」
「そうだよな」
友人の声が急に小さくなる。
「悪かった。忘れて」
「いや……」
「直人に頼むんじゃなかった」
その言葉が妙に胸に刺さった。
「違う。貸したくないんじゃなくて……」
「いいよ。無理言った俺が悪い」
電話が切れそうになる。
直人は慌てて言った。
「待って」
「……何?」
「十万でいいんだな?」
「……うん」
その瞬間だった。
耳元で、誰かが囁いた。
――男なら。
直人は振り返った。
誰もいない。
静かな自室。
エアコンの音だけが聞こえている。
「……今、何か言った?」
「え?」
「いや……何でもない」
直人は貯金口座から十万円を振り込んだ。
「送った」
「本当に?」
「ああ」
「ありがとう」
電話の向こうで友人が笑った。
「やっぱり直人は男だな」
その言葉を聞いた瞬間、直人の胸の奥が少しだけ温かくなった。
認められた。
必要とされた。
それが嬉しかった。
◆
翌日。
会社へ向かう途中、直人はコンビニに立ち寄った。
レジに並んでいると、前の男の首筋に黒いものが見えた。
小さな虫だった。
ゴマ粒ほどの黒い虫。
男の首から肩へ這っている。
直人は思わず目をこすった。
次に見たときには、虫はいなかった。
「……何だったんだ?」
気のせいだ。
そう思って店を出た。
◆
それから数日後。
「直人、この前ありがとな」
友人から連絡が来た。
「十万、いつ返せそう?」
「それなんだけど……」
嫌な予感がした。
「もうちょっと待ってくれない?」
「いつまで?」
「来月には絶対」
「……分かった」
直人は電話を切った。
そして、自分でも驚くほど自然に、
「まあ、仕方ないか」
と呟いた。
その夜。
別の友人から電話が来た。
「直人、ちょっと相談があるんだけど」
また金だった。
今度は三万円。
「俺、今月ちょっと厳しくてさ」
「ごめん。俺も余裕ない」
直人はそう答えた。
すると相手は笑った。
「お前、この前十万貸したんだろ?」
「……うん」
「じゃあ三万くらい大丈夫じゃん」
「いや、それとこれとは……」
「直人さ」
声の温度が変わった。
「友達だろ?」
直人は黙った。
「困ってる友達を見捨てるの?」
「……」
「男気ないなあ」
まただった。
耳元で声がした。
――男気を見せろ。
直人は震える手で財布を開いた。
三万円。
それを振り込んだ。
「ありがとう!」
電話の向こうから明るい声が聞こえる。
「やっぱ直人、最高だわ!」
電話が切れた。
直人は一人、暗い部屋に座っていた。
財布を開く。
残っている金は、ほんのわずかだった。
「……俺、何やってるんだろ」
そのとき。
テーブルの上に置いたスマートフォンの画面が暗くなった。
黒い画面に、自分の顔が映る。
その肩に――
黒い虫が一匹、這っていた。
「……え?」
直人が振り返る。
もちろん、何もいない。
もう一度スマートフォンを見る。
虫も消えている。
ただ、自分の顔だけが映っていた。
直人は知らなかった。
あの日貸した十万円が、自分の人生を壊す最初の十万円になることを。
そして――
「男気を見せろ」という言葉が、これから何度も自分の人生を奪っていくことを。




