↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『男気の虫』  作者: こうた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/20

第一話 「男なら、助けろ」



 直人は、特別な人間ではなかった。


 二十四歳。


 仕事は真面目にこなし、遅刻もほとんどしない。人付き合いが得意なわけではないが、頼まれれば断れない。


 将来は、普通に暮らしたかった。


 大きな家はいらない。


 高級車もいらない。


 好きな人と結婚して、仕事をして、帰る場所があれば、それで十分だった。


 だからこそ、最初の一歩が間違いだったことに、直人は最後まで気づかなかった。


     ◆


 その夜、仕事を終えた直人のスマートフォンが鳴った。


「直人? 今からちょっと会えない?」


 電話の相手は、学生時代からの友人だった。


「今から?」


「うん。頼みたいことがある」


 直人は時計を見た。


 午後十時を過ぎている。


 明日も仕事がある。


 断ろうと思った。


 だが、電話の向こうの声が妙に弱々しかった。


「……金、貸してほしいんだ」


「金?」


「十万だけ」


 直人は黙った。


 十万円。


 決して小さな金ではない。


「何に使うんだ?」


「ちょっと支払いがあって……。明日までに必要なんだ」


「いつ返せる?」


「来月には絶対返す」


 直人はため息をついた。


「十万はちょっと……」


「そうだよな」


 友人の声が急に小さくなる。


「悪かった。忘れて」


「いや……」


「直人に頼むんじゃなかった」


 その言葉が妙に胸に刺さった。


「違う。貸したくないんじゃなくて……」


「いいよ。無理言った俺が悪い」


 電話が切れそうになる。


 直人は慌てて言った。


「待って」


「……何?」


「十万でいいんだな?」


「……うん」


 その瞬間だった。


 耳元で、誰かが囁いた。


 ――男なら。


 直人は振り返った。


 誰もいない。


 静かな自室。


 エアコンの音だけが聞こえている。


「……今、何か言った?」


「え?」


「いや……何でもない」


 直人は貯金口座から十万円を振り込んだ。


「送った」


「本当に?」


「ああ」


「ありがとう」


 電話の向こうで友人が笑った。


「やっぱり直人は男だな」


 その言葉を聞いた瞬間、直人の胸の奥が少しだけ温かくなった。


 認められた。


 必要とされた。


 それが嬉しかった。


     ◆


 翌日。


 会社へ向かう途中、直人はコンビニに立ち寄った。


 レジに並んでいると、前の男の首筋に黒いものが見えた。


 小さな虫だった。


 ゴマ粒ほどの黒い虫。


 男の首から肩へ這っている。


 直人は思わず目をこすった。


 次に見たときには、虫はいなかった。


「……何だったんだ?」


 気のせいだ。


 そう思って店を出た。


     ◆


 それから数日後。


「直人、この前ありがとな」


 友人から連絡が来た。


「十万、いつ返せそう?」


「それなんだけど……」


 嫌な予感がした。


「もうちょっと待ってくれない?」


「いつまで?」


「来月には絶対」


「……分かった」


 直人は電話を切った。


 そして、自分でも驚くほど自然に、


「まあ、仕方ないか」


と呟いた。


 その夜。


 別の友人から電話が来た。


「直人、ちょっと相談があるんだけど」


 また金だった。


 今度は三万円。


「俺、今月ちょっと厳しくてさ」


「ごめん。俺も余裕ない」


 直人はそう答えた。


 すると相手は笑った。


「お前、この前十万貸したんだろ?」


「……うん」


「じゃあ三万くらい大丈夫じゃん」


「いや、それとこれとは……」


「直人さ」


 声の温度が変わった。


「友達だろ?」


 直人は黙った。


「困ってる友達を見捨てるの?」


「……」


「男気ないなあ」


 まただった。


 耳元で声がした。


 ――男気を見せろ。


 直人は震える手で財布を開いた。


 三万円。


 それを振り込んだ。


「ありがとう!」


 電話の向こうから明るい声が聞こえる。


「やっぱ直人、最高だわ!」


 電話が切れた。


 直人は一人、暗い部屋に座っていた。


 財布を開く。


 残っている金は、ほんのわずかだった。


「……俺、何やってるんだろ」


 そのとき。


 テーブルの上に置いたスマートフォンの画面が暗くなった。


 黒い画面に、自分の顔が映る。


 その肩に――


 黒い虫が一匹、這っていた。


「……え?」


 直人が振り返る。


 もちろん、何もいない。


 もう一度スマートフォンを見る。


 虫も消えている。


 ただ、自分の顔だけが映っていた。


 直人は知らなかった。


 あの日貸した十万円が、自分の人生を壊す最初の十万円になることを。


 そして――


 「男気を見せろ」という言葉が、これから何度も自分の人生を奪っていくことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。