第十九話 「男気のない男」
それから半年。
直人の人生は、ほとんど終わっていた。
仕事を失った。
借金は残った。
友人たちは誰一人として連絡してこない。
窃盗事件についても、直人一人が責任を負うことになった。
かつて「仲間」と呼んだ人間たちは、直人の前から消えた。
まるで――
最初から存在していなかったかのように。
◆
直人は小さな部屋で暮らしていた。
家具はほとんどない。
テレビもない。
あるのは古い机と布団だけ。
机の上には、借金の返済計画。
毎月、少しずつ返している。
しかし、利息によってほとんど減らない。
「……あと何年だよ」
紙をめくる。
十年。
二十年。
それでも終わらない。
直人は笑った。
「俺、何歳まで払えばいいんだよ……」
答える者はいない。
ただ――
部屋の隅から、
カサ……
という音がする。
直人は振り向いた。
黒い虫。
もう驚かなかった。
「……まだいるのか」
虫は一匹だった。
以前のような大量の虫ではない。
直人のところへ近づいてくる。
そして足元で止まった。
「お前だけか?」
虫は動かない。
「他の奴らは?」
直人が尋ねる。
「みんな、別の人間を探しに行ったのか?」
虫が少しだけ動いた。
直人は苦笑した。
「そうだよな」
「俺にはもう金がない」
「男気もない」
虫が止まる。
「だから、もう寄生する価値もないんだろ?」
◆
その日の夜。
珍しく電話が鳴った。
知らない番号。
直人は出なかった。
しばらくして留守番電話が入る。
再生する。
『直人さん……ですよね?』
女性の声だった。
『以前、あなたと一緒にいた人たちについて聞きたいことがあります』
直人の手が止まる。
『あなたが全部一人でやったとは、私たちは考えていません』
直人は息を呑む。
『もし話してくれるなら――』
そこで録音が切れた。
直人は長い間、スマートフォンを見つめていた。
初めてだった。
誰かが、
「あなた一人ではない」
と言ってくれた。
直人の目から涙が落ちる。
「……まだ、終わってないのか」
そう呟いた。
◆
翌日。
直人は警察へ向かった。
もう一度、話すために。
窃盗のこと。
借金のこと。
脅されたこと。
仲間に利用されたこと。
全部。
今度こそ話す。
警察署の前に立つ。
しかし――
足元に黒い虫がいた。
直人は立ち止まった。
虫が言う。
「男気を見せろ」
直人は笑った。
「……違う」
虫が動く。
「仲間を守れ」
「違う」
「責任を取れ」
「違う」
直人は警察署の扉を見る。
「俺は……俺を守る」
そして一歩、踏み出した。
◆
取調室。
直人はすべてを話した。
自分が何をしたのか。
誰に頼まれたのか。
どうやって金を取られたのか。
そして、どうして犯罪に手を染めたのか。
何時間も話した。
最後に警察官が尋ねた。
「なぜ、もっと早く言わなかったんですか?」
直人はしばらく黙っていた。
「……男気を見せろって言われ続けました」
「……」
「助けるのが男だって」
「……」
「仲間を売らないのが男だって」
直人は俯いた。
「でも、本当は……」
涙が落ちる。
「怖かっただけなんです」
警察官は何も言わなかった。
直人は続ける。
「嫌われるのが怖かった」
「一人になるのが怖かった」
「だから……全部背負えば、誰かが自分を認めてくれると思った」
長い沈黙。
そして警察官が言った。
「分かりました」
◆
取調室を出る。
直人は深く息を吐いた。
外は夕方だった。
空が赤い。
半年ぶりに見る夕焼けだった。
「……終わった」
そう呟いた。
しかし――
スマートフォンが鳴る。
知らない番号。
出ない。
また鳴る。
出ない。
するとメッセージが届いた。
『裏切ったな』
続いて、
『男気のない奴だ』
さらに、
『仲間を売るなんて最低だ』
直人はスマートフォンを見つめる。
以前なら、この言葉だけで心が折れていた。
しかし今は違う。
「……そうかもしれない」
直人は呟いた。
「俺は男気のない男だ」
そして――
「それでいい」
スマートフォンをポケットへ入れた。
◆
その瞬間。
直人の首筋に、あの痛みが走った。
「……!」
黒い虫が皮膚の下から現れる。
一匹。
直人はそれを見た。
「まだいたのか」
虫は直人の首に張り付く。
そして囁いた。
「お前は一人だ」
「……」
「仲間はいない」
「そうだな」
「友人もいない」
「そうだな」
「金もない」
「……そうだ」
虫が笑う。
「何もない」
直人はしばらく黙っていた。
そして――
「でも、俺は生きてる」
虫が止まった。
「何もなくてもいい」
「借金が残ってもいい」
「罪を背負ってもいい」
「失ったものは戻らなくてもいい」
直人は空を見上げた。
「それでも、自分の人生を取り戻す」
虫が震える。
そして――
直人の首から落ちた。
地面で蠢く。
黒い虫は、一匹だけだった。
◆
直人は歩き出した。
しかし、その背後で――
虫が一匹。
また一匹。
そしてさらに一匹。
地面の隙間から這い出してくる。
直人は気づかない。
虫たちは一人の人間へ向かっていく。
警察署から出てきた若い男。
電話をしながら歩いている。
「大丈夫だって」
「俺が何とかするよ」
「仲間だろ?」
その首筋に――
一匹の黒い虫が這い上がった。
男は気づかない。
そして笑う。
「俺、男気あるからさ」
直人は遠ざかっていく。
その背中を見ながら、
黒い虫たちは静かに新しい宿主へ群がっていった。
呪いは終わっていなかった。
ただ――
宿主が変わっただけだった。




