第二十話 「男気という呪い」
それから三年。
直人は、以前とは別人のようになっていた。
借金はまだ残っている。
窃盗事件の罪も消えてはいない。
失った仕事も、信用も、戻らなかった。
かつての仲間たちとは、もう二度と会っていない。
それでも直人は、生きていた。
毎朝起きて。
働いて。
少しずつ借金を返す。
派手な生活ではない。
幸せとも言えない。
それでも――
「これでいい」
直人は、そう思えるようになっていた。
◆
ある日の帰り道。
駅前で、若い男が数人の仲間に囲まれていた。
「頼むって」
「俺たち仲間だろ?」
「お前なら助けられる」
男は困った顔をしている。
「でも、俺も金ないよ」
「何だよ、男気ないな」
「それでも友達かよ」
直人の足が止まった。
その言葉。
何度も聞いた。
忘れたくても忘れられない言葉。
男は財布を取り出した。
「……いくら必要なんだ?」
仲間たちが笑う。
「さすが!」
「やっぱりお前だよ!」
「男気あるな!」
直人の背筋に悪寒が走った。
男の首元。
黒い点が見える。
「……やめろ」
思わず声が出た。
全員が振り返る。
「え?」
直人は若い男に近づいた。
「金を渡すな」
「……誰?」
「そいつらは、お前を助けてるんじゃない」
仲間たちが睨む。
「何なんだよ、あんた」
直人は答えない。
ただ男を見る。
「断っていいんだ」
「……」
「嫌なことは、嫌だと言っていい」
「でも……仲間が」
「仲間なら、お前が無理をすることを要求しない」
男が黙る。
直人は続けた。
「男気なんて、見せなくていい」
◆
その言葉を聞いた瞬間。
若い男の首元から、
黒い虫が一匹落ちた。
「……え?」
男が首を触る。
「何だ、これ……」
直人は凍りついた。
虫は地面を這っていく。
そして――
直人の足元へ来た。
「……」
直人はそれを見つめる。
虫は直人を見上げた。
まるで笑っているようだった。
そして、静かに呟く。
「次は、お前だ」
直人の顔から血の気が引く。
「……俺?」
虫は答えない。
そのまま暗闇へ消えていく。
◆
数日後。
ニュースが流れた。
『若者を狙った新たな金銭トラブルが相次いでいます』
画面には、複数の被害者。
借金。
ギャンブル。
金銭の貸し借り。
そして――
仲間内での犯罪。
直人はテレビを消した。
「……またか」
呪いは終わっていない。
宿主を変えながら、広がっている。
それでも直人は思った。
自分が止めなければならない。
少なくとも、次の人間には同じ思いをさせない。
そう決意した。
◆
翌朝。
直人は仕事へ向かった。
駅へ歩く。
いつもの道。
いつもの景色。
そして――
スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
直人は無視した。
また鳴る。
無視する。
さらに鳴る。
直人はため息をついた。
「しつこいな……」
電話に出る。
「もしもし?」
返事がない。
ただ、
カサ……
という音が聞こえた。
「……」
直人の顔が強張る。
電話の向こうから声がした。
「男気を見せろ」
直人は電話を切った。
しかし――
今度は周囲から声が聞こえる。
「男気を見せろ」
振り返る。
誰も言っていない。
「男気を見せろ」
駅の中。
「男気を見せろ」
交差点。
「男気を見せろ」
街角。
声がどんどん増えていく。
直人は耳を塞いだ。
「やめろ……」
しかし声は止まらない。
「男気を見せろ」
「仲間を助けろ」
「金を出せ」
「責任を取れ」
「お前ならできる」
直人は走った。
◆
駅の階段を上る。
息が切れる。
ホームへ出る。
人が大勢いる。
その全員が普通に生活している。
誰も直人を見ていない。
なのに――
直人には見えていた。
人々の首筋。
肩。
耳。
服の隙間。
黒い虫。
一匹。
二匹。
十匹。
数え切れない。
いつの間にか、この街そのものが黒い虫に覆われていた。
そして誰かが言った。
「困ってるんだよ」
「助けてよ」
「仲間だろ?」
「男気見せろよ」
直人は震えた。
「違う……」
誰も止まらない。
「俺は……」
直人は拳を握った。
「もう、誰かのために自分を壊さない」
その瞬間――
駅にいた一人の男が振り返った。
男の首には、黒い虫。
男は直人を見て笑った。
「そう言うと思ったよ」
「……誰だ?」
「俺たちは、ずっとお前を見ていた」
直人の背後にも人が立っている。
前にも。
横にも。
全員の首筋に黒い虫。
そして全員が、
同じ声で言った。
「男気を見せろ」
◆
直人は逃げなかった。
もう逃げることにも疲れていた。
「……分かった」
人々が笑う。
「やっぱりな」
「直人はそういう男だ」
直人は首を横に振った。
「違う」
「……?」
「男気を見せるんじゃない」
直人は一歩前へ出る。
「俺は――」
その瞬間。
首筋に激痛が走った。
「……っ!」
黒い虫が皮膚の下から現れる。
しかし、今までとは違った。
一匹ではない。
何十匹もの虫が、
直人の身体から一斉に這い出していく。
「……何だ、これ」
虫たちは地面へ落ちる。
そして――
人々の足元へ向かって走っていく。
直人は気づいた。
「……俺から出た?」
そう。
直人の中に長い間いた虫たちは、
直人を捨てて、
新しい宿主を探していた。
「待て……」
直人は追いかける。
しかし間に合わない。
一匹が若い男へ。
一匹が会社員へ。
一匹が老人へ。
一匹が学生へ。
次々と人間の身体へ入り込んでいく。
そして――
直人の身体から最後の一匹が落ちた。
その虫だけは、
直人の前に残った。
直人はしゃがみ込む。
「……終わったのか?」
虫が顔を上げる。
「違う」
「……」
「始まったんだ」
直人は凍りついた。
虫は暗闇へ消えていく。
◆
その日から。
街では、奇妙な言葉が流行り始めた。
「男なら助けろ」
「仲間なら金を出せ」
「男気を見せろ」
誰かが困れば、誰かが犠牲になる。
誰かが借金をすれば、別の誰かが保証人になる。
博打で負ければ、仲間が金を出す。
犯罪をすれば、一番立場の弱い人間が責任を負う。
そして――
利益だけは、別の誰かへ流れていく。
寄生する者たちは、宿主を選ばない。
友人。
恋人。
家族。
職場。
仲間。
誰でもいい。
ただ一つ。
「男気を見せろ」
その言葉を信じてくれればいい。
◆
数年後。
直人は、街の片隅で一人暮らしていた。
借金はまだ残っている。
失ったものも多い。
幸せだったとは言えない。
それでも、直人は時々若者に声をかけた。
「無理して助けなくていい」
「嫌なことは断れ」
「仲間だからって、金を渡す必要はない」
「男気なんて、見せなくていい」
それが、直人にできる唯一のことだった。
しかし――
誰も知らない。
直人の首筋に、
小さな黒い跡が残っていることを。
そして夜になると、
その跡の奥から、
かすかな声が聞こえることを。
「幸せになりたい?」
「だったら――」
「男気を見せろ」
直人は目を閉じる。
もう返事はしない。
しかし、街のどこかでは、
また誰かが誰かに金を貸している。
また誰かが博打に手を出している。
また誰かが、
「仲間だろ?」
と言っている。
そして、その言葉を聞いた人間の首筋に――
一匹の黒い虫が這い上がる。
誰にも見えない。
誰にも気づかれない。
ただ静かに、
人間の欲望に寄生していく。
「男気」という言葉を餌にして。
直人は最後まで、幸せになれなかった。
欲しかったのは、
金でも、
名誉でも、
仲間からの賞賛でもなかった。
ただ――
普通に幸せに生きたかっただけだった。
しかし彼の人生に残ったのは、
借金。
罪。
失った人々。
そして、決して消えることのない呪い。
それだけだった。
そして今日もまた、
どこかで誰かが言う。
「男気を見せろよ」
その瞬間。
誰にも見えないところで、
黒い虫が一匹――
新しい人間の身体へ、
ゆっくりと潜り込んだ。
――完――




