第十八話 「盗んだ罪」
朝。
直人はテレビを消した。
ニュースを見ることができなかった。
自分の顔が映っている。
自分が「容疑者」と呼ばれている。
それだけで、胃の奥が締め付けられた。
テーブルには借金の明細。
床には壊れたスマートフォン。
そして――
黒い虫。
もう数えることもできない。
直人の部屋には、虫が住み着いていた。
壁の隙間。
天井。
カーテンの裏。
ベッドの下。
どこにでもいる。
しかし、直人はもう追い払わなかった。
「……好きにしろよ」
虫たちは動かない。
「俺には、もう何もない」
その言葉に反応するように、一匹の虫が直人の手へ這い上がった。
直人はそれを見つめた。
「お前たちが欲しかったのは、金じゃないんだろ?」
虫が首筋へ向かって進む。
「俺の人生だ」
直人は目を閉じた。
◆
昼。
警察が来た。
「直人さんですね」
「……はい」
「窃盗事件について、詳しくお話を伺いたいのですが」
直人は黙っていた。
逃げることもできる。
嘘をつくこともできる。
でも――
もう疲れた。
「……俺がやりました」
警察官が顔を上げる。
「詳しく話してください」
「荷物を運びました」
「誰から頼まれました?」
直人は答えようとした。
しかし、口から出たのは――
「……分かりません」
「分からない?」
「名前を言えません」
「なぜですか?」
直人は俯いた。
「……仲間だから」
警察官は黙って直人を見る。
「仲間をかばうということですか?」
「……はい」
その瞬間。
耳元で、あの声が聞こえた。
「男気を見せろ」
直人は拳を握った。
涙が落ちる。
「……俺が全部責任を取ります」
警察官は静かに尋ねた。
「本当に、それでいいんですか?」
直人は答えた。
「……はい」
◆
取調室。
直人は一人で座っていた。
机の上に置かれた写真。
自分がバッグを運んでいる。
その写真を見ていると、不思議な感覚に襲われた。
写真の中の自分が笑っている。
いや。
笑っているように見えただけだった。
直人は目を細める。
写真の背景。
倉庫の壁。
そこに黒い虫がびっしり張り付いている。
「……」
直人は写真を手に取った。
虫たちが動く。
写真の中なのに。
一匹。
また一匹。
そして、写真の中の直人の身体へ這い上がっていく。
「やめろ……」
写真の中の直人が、ゆっくりこちらを見る。
そして口を動かした。
「男気を見せろ」
直人は写真を落とした。
警察官が戻ってくる。
「どうしました?」
「……何でもありません」
◆
取り調べは長時間続いた。
直人は自分がやったことを話した。
しかし、他の人間の名前は出さなかった。
自分が金を運んだ。
自分が荷物を運んだ。
自分が現場にいた。
それだけを話した。
警察官は何度も確認した。
「本当に一人でやったんですか?」
「……はい」
「誰かに指示されたのでは?」
「違います」
「借金が原因ですか?」
「……」
直人は答えなかった。
警察官はため息をついた。
「分かりました」
◆
その頃。
別の場所では――
「これで大丈夫だな」
友人たちが笑っていた。
「直人が全部かぶってくれた」
「助かった」
「本当にあいつ、最後まで男気あったな」
テーブルの上には金。
直人が運んだ金。
直人が借金を背負って作った金。
そして――
それを取り囲むように、黒い虫が群がっていた。
一人の男が虫を見つける。
「……何だこれ?」
手で払う。
虫は消えた。
「気のせいか」
誰も気にしない。
笑い声が続く。
「次は誰に頼む?」
「もう直人は使えないだろ」
「じゃあ、新しい奴探そうぜ」
その瞬間。
テーブルの下から黒い虫が一匹這い出した。
そして、一人の男の耳へ入っていった。
男は何も感じない。
ただ笑っている。
◆
数日後。
直人のもとに正式な通知が届いた。
窃盗事件についての容疑。
自分一人が罪を背負うことになった。
直人は紙を見つめた。
「……終わった」
何もかも。
仕事も。
信用も。
友人も。
未来も。
そして――
幸せになるという夢も。
直人は机に伏せた。
涙が落ちる。
「俺は……何のために……」
誰も答えない。
しばらくすると、
スマートフォンが鳴った。
壊れているはずなのに。
画面が点灯する。
メッセージ。
『ありがとう』
送り主は――
「仲間」全員。
次のメッセージ。
『お前のおかげで助かった』
さらに。
『また頼むな』
最後に――
『男気を見せてくれてありがとう』
直人はスマートフォンを握り潰そうとした。
しかし、できなかった。
指に力が入らない。
そのとき。
首筋に激痛が走った。
「……っ!」
鏡を見る。
黒い虫。
一匹。
二匹。
三匹。
それどころではない。
首から肩。
肩から腕。
腕から胸へ。
無数の黒い虫が、皮膚の下を這っている。
「……やめろ」
直人は鏡を叩いた。
「やめてくれ……」
鏡が割れる。
しかし、鏡の中の自分は消えない。
そこには、
黒い虫に覆われた直人が立っていた。
そして鏡の中の直人が笑う。
「男気を見せたな」
直人はその場に崩れ落ちた。
もう抵抗する力はなかった。
◆
夜。
直人は一人で歩いた。
街には人がいる。
笑い声が聞こえる。
家族連れ。
恋人。
友人同士。
普通の幸せ。
直人が欲しかったもの。
しかし、自分にはもうない。
横断歩道で立ち止まる。
信号が赤。
足元を見る。
黒い虫が一匹いる。
その虫が直人を見上げる。
直人は笑った。
「……俺の人生、返してくれよ」
虫は答えない。
ただ、直人の足元へ集まってくる。
一匹。
二匹。
十匹。
百匹。
やがて道路一面が黒く染まった。
そして、その中から声が聞こえる。
「男気を見せろ」
直人は目を閉じた。
もう逃げなかった。
もう叫ばなかった。
ただ静かに呟いた。
「……俺は、最初からそんなもの欲しくなかった」
信号が青に変わる。
人々が歩き出す。
直人だけが動かない。
その背後で――
黒い虫たちが、
ゆっくりと人の形を作り始めていた。




