第十六話 「逃げる男」
直人は、三日間ほとんど眠れなかった。
警察に嘘をついた。
窃盗に手を貸した。
借金は増えた。
そして何より――
自分を利用した人間たちは、何事もなかったように笑っている。
直人だけが、泥の中に取り残されていた。
スマートフォンには新しいメッセージ。
『次の仕事、明日な』
直人は返信しなかった。
数分後。
『返事して』
無視する。
『男気ないな』
それでも無視する。
さらに一通。
『じゃあ、写真を警察に送る』
直人はスマートフォンを握りしめた。
「……」
もう限界だった。
直人は立ち上がった。
「警察に行こう」
自分に言い聞かせる。
「全部話そう」
それしかない。
自分の罪も話す。
友人たちのことも話す。
借金のことも。
全部。
そうすれば、少なくともこの地獄から抜けられる。
◆
警察署へ向かう途中。
直人のスマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
無視する。
また鳴る。
さらに鳴る。
直人は電源を切った。
その瞬間――
車の前に、一人の男が飛び出してきた。
「!」
急ブレーキ。
男は道路脇に立ち、直人を見ていた。
知らない男だった。
しかし、その首元には――
黒い虫。
一匹。
男は笑った。
「どこへ行くんですか?」
直人は答えなかった。
「警察ですか?」
心臓が跳ねる。
「……何のことですか」
「別に」
男は笑いながら車の窓を見つめる。
「ただ、仲間を裏切るって怖いですよね」
直人の手が震えた。
「俺は……」
「男気のある人は、仲間を売らない」
「……」
「そうでしょう?」
直人はアクセルを踏んだ。
男を避けて、その場から走り去る。
バックミラーを見る。
男は追ってこない。
ただ、道路の真ん中で立っていた。
そして――
直人に向かって手を振っていた。
◆
警察署の前まで来た。
車を停める。
エンジンを切る。
直人はドアを開けようとした。
しかし、手が動かない。
「……」
胸が苦しい。
ここに入れば、何もかも変わる。
自分が犯罪者として扱われるかもしれない。
仕事を失うかもしれない。
家族や友人から見放されるかもしれない。
未来がなくなる。
直人は目を閉じた。
そして――
車を発進させた。
警察署から離れていく。
「……俺には無理だ」
自分に言い聞かせる。
「まだ……何とかなる」
◆
その夜。
友人たちが待っていた。
「遅かったな」
「……」
「警察に行こうとしてた?」
直人は顔を上げた。
「何で知ってる?」
「分かるよ」
友人は笑った。
「俺たち、仲間だろ?」
「……」
「だから、お前のことは全部分かる」
直人は恐怖を感じた。
「次の仕事だ」
「やらない」
「直人」
「もう無理だ」
「無理じゃない」
「俺はもう犯罪をしたくない」
友人の表情が変わった。
「だったら、今までのことを全部警察に話すのか?」
直人は黙った。
「お前だけじゃない」
友人が続ける。
「俺たちも捕まる」
「……」
「それでもいい?」
直人は答えられない。
「お前が話せば、みんな終わる」
「……」
「だから、最後まで責任取れよ」
そして――
「男気見せろ」
その瞬間。
周囲にいた人間たちが一斉に直人を見る。
誰も何も言わない。
ただ、全員が笑っている。
首元には黒い虫。
それが一斉に蠢いた。
◆
直人は逃げた。
建物から飛び出す。
走る。
走る。
どこへ向かうのか分からない。
ただ、あの場所から離れたかった。
夜の街を走っていると、スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
切る。
また鳴る。
切る。
さらに鳴る。
直人はとうとうスマートフォンを地面へ叩きつけた。
画面が割れる。
静かになった。
「……終わった」
直人は息を切らしながら呟いた。
「これで……」
しかし。
割れた画面が勝手に点灯した。
そこに文字が浮かぶ。
『逃げても借金は消えない』
直人は後ずさる。
『逃げても罪は消えない』
さらに、
『逃げても仲間は消えない』
そして最後に――
『だから、男気を見せろ』
直人はスマートフォンを蹴った。
「うるさい!」
その瞬間。
道路の両側から黒い虫が現れた。
一匹。
十匹。
百匹。
まるで地面そのものが黒く染まったようだった。
直人は逃げようとする。
しかし、足元に虫がまとわりつく。
「やめろ!」
払い落とす。
それでも増える。
虫たちは直人の靴、ズボン、腕へ這い上がってくる。
そして――
直人の首筋へ。
「……!」
何匹もの虫が皮膚に食い込んでいく。
痛い。
苦しい。
それでも直人は振り払った。
「俺は……!」
直人は叫ぶ。
「俺は誰かのために生きるんじゃない!」
一瞬、虫たちが止まった。
「俺自身の人生を生きるんだ!」
静寂。
直人は息を切らした。
初めて、自分のために叫んだ。
その瞬間――
スマートフォンに一通の通知が入った。
画面を見る。
銀行からだった。
『口座残高:0円』
直人は固まった。
さらに通知。
『ローン返済額変更のお知らせ』
そして――
『新規借入:1,500,000円』
「……何で」
直人は銀行へ電話をかける。
しかし、受付時間外。
画面を見つめる。
150万円。
自分の知らない借金。
「俺は……借りてない」
その瞬間、友人からメッセージが届いた。
『お前の名前で借りた』
直人の身体から力が抜ける。
『これで次の仕事の元手ができた』
そして最後に――
『お前が責任取ってくれよ』
直人はその場に膝をついた。
黒い虫たちが、ゆっくりと彼を取り囲む。
もう直人は怒らなかった。
叫ばなかった。
ただ、呟いた。
「……俺の人生なのに」
誰も答えない。
虫たちだけが蠢いている。
そして遠くから――
「男気を見せろ」
という声が聞こえた。
直人は顔を上げた。
その目には、もう涙すら残っていなかった。
残っていたのは、
自分だけが全ての責任を背負わされる
という、絶望だけだった。




