第十四話 「署名」
朝。
直人は机の前で立ち尽くしていた。
書類には、自分の名前が書かれている。
「……俺が書いた?」
記憶がない。
昨夜、ペンを握ったところまでは覚えている。
しかし、署名した瞬間の記憶だけが抜け落ちていた。
直人は書類を裏返した。
何もない。
もう一度表を見る。
確かに自分の字だった。
「……こんなの、知らない」
そのときスマートフォンが鳴った。
『ありがとう』
友人からだった。
「……何が?」
『これで話が進められる』
「俺は同意してない」
『でも署名しただろ?』
「……」
『男気見せてくれたじゃん』
直人は電話を切った。
◆
会社へ行く。
いつも通り仕事をする。
しかし、頭の中には書類のことしかなかった。
昼休み。
銀行から通知が届いた。
知らない口座への送金記録。
金額は、直人の月給を遥かに超えている。
「……何だよ、これ」
さらに通知。
『ご利用ありがとうございます』
借入額が増えている。
「……嘘だろ」
直人は銀行へ確認した。
しかし、手続き上は問題ないという。
「本人確認もされています」
「でも、俺は……」
言葉が出なかった。
自分の名前で金が動いている。
自分の知らないところで。
そして――
借金だけが自分に残っている。
◆
その夜。
直人は友人たちを問い詰めた。
「何をした?」
「何って?」
「俺の名前で金を借りただろ」
「そうだよ」
「ふざけるな!」
直人が怒鳴る。
友人は笑った。
「怒るなよ」
「返せ!」
「返すよ」
「誰が?」
「みんなで」
直人は友人たちを見る。
「……本当に?」
「ああ」
その言葉に、一瞬だけ安心した。
しかし。
「ただし」
友人が続けた。
「勝ったらな」
「……」
「この金を元手に、もっと大きく勝負する」
「やめろ!」
「ここまで来たんだから」
「俺はもうやらない!」
友人は首を傾げた。
「でも、もうお前の金だぞ?」
「違う!」
「お前の名前で借りた」
「……」
「だったら、お前が責任取るしかない」
周囲から笑い声が起きる。
「男気あるもんな」
「最後までやれよ」
「仲間だろ?」
直人はその場から逃げ出した。
◆
帰宅すると、妻――ではなく、一人暮らしの部屋は真っ暗だった。
誰もいない。
静かな部屋。
直人は玄関に座り込んだ。
「……俺は何をしてるんだ」
仕事をして。
借金を返して。
それだけの人生でよかった。
普通に暮らしたかった。
好きな人と笑って。
家を持って。
子どもができて。
休日にどこかへ出かけて。
そんな普通の幸せが欲しかった。
なのに。
今の自分は――
借金。
博打。
脅迫。
犯罪の片棒。
そして、得体の知れない虫。
「……俺の人生、返してくれよ」
誰も答えない。
その代わり、
カサ……
と音がした。
壁を見る。
黒い虫。
一匹。
それが直人の名前が書かれた書類へ向かって這っていく。
「……」
虫は書類の上に乗った。
そして、文字を食べ始めた。
直人の名前が少しずつ消えていく。
「やめろ!」
直人が書類を奪い取る。
しかし――
消えた文字の代わりに、
別の文字が浮かんだ。
「責任」
◆
翌日。
直人のもとへ、一人の男が来た。
「例の件ですが」
「……何ですか」
「少し問題が起きまして」
「問題?」
「金が足りません」
直人は目を閉じた。
「俺にはもう金がない」
「だから、別の方法を使いましょう」
「……別の方法?」
男は笑った。
「簡単な仕事ですよ」
直人は黙っている。
「荷物を運ぶ」
「……」
「少しだけ物を持ち出す」
「……」
「誰にも見つからなければ問題ありません」
直人は首を横に振った。
「窃盗じゃないか」
「まだ何も盗んでませんよ」
「でも――」
「嫌ならいいです」
男は立ち上がった。
「ただ、借金は残ります」
直人は俯いた。
「……」
「返済期限もあります」
「……」
「どうします?」
直人は答えられない。
男が最後に言った。
「男気のある人なら、仲間を助けますよね?」
◆
男が帰ったあと。
直人は一人で長い時間考えた。
やってはいけない。
分かっている。
ここで断ればいい。
警察に相談する方法だってある。
それでも――
頭の中には借金の数字が浮かぶ。
返せない。
払えない。
逃げられない。
そして、自分の名前で借りられた金。
それを放置すれば、自分の人生が終わる。
「……一回だけ」
直人は呟いた。
「一回だけなら……」
その瞬間。
部屋の隅に黒い虫が現れた。
一匹。
そして二匹。
さらに三匹。
直人は目を閉じた。
「……一回だけだ」
虫たちが、一斉に動き出した。
まるで喜んでいるように。
◆
夜。
直人は指定された場所へ向かった。
黒いバッグを受け取る。
「これを持っていけばいいんだな?」
「ああ」
「これで借金は?」
「少し減る」
「……分かった」
直人はバッグを持った。
その重さに、身体が沈む。
帰ろうとしたとき。
背後から友人の声がした。
「直人」
「……」
「ありがとうな」
直人は振り返らない。
「本当に助かる」
そして――
「やっぱりお前は男気あるよ」
直人は目を閉じた。
その言葉を聞いた瞬間。
首筋に、あの痛みが走った。
皮膚の下を何かが這っている。
直人は首を押さえた。
「……っ」
黒い虫が、一匹。
また一匹。
皮膚の内側へ潜り込んでいく。
直人はバッグを抱えたまま立ち尽くした。
そして気づく。
もう、自分は「助ける側」ではない。
犯罪をすることで、誰かの借金を支える側になっている。
それでも足は止まらなかった。
直人は暗い道を歩いていく。
その背後を、
無数の黒い虫が追いかけていた。




