第十三話 「友達の値段」
直人は、三匹の虫を見つめていた。
首筋に張り付いている。
指で触れると、確かに感触があった。
生きている。
「……取れろ」
爪を立てる。
しかし、虫は皮膚の中へ逃げ込むように消えた。
「……!」
直人は鏡から離れた。
首筋には何もない。
傷もない。
ただ、焼けるような痛みだけが残っていた。
スマートフォンが鳴る。
また、友人からだった。
『今から来て』
「嫌だ」
『大事な話がある』
「もう関わりたくない」
『直人』
少し間があってから、
『お前が困ってるのは分かってる』
直人は黙った。
『だから、助けてやるよ』
「……どうやって?」
『簡単だ』
友人は笑った。
『もっと大きい勝負をする』
◆
指定された場所へ行くと、以前とは比べ物にならない人数がいた。
知らない男たち。
知らない女たち。
そして、いつの間にか疎遠になっていた昔の知人までいる。
「なんでこんなに……」
「みんな仲間だよ」
友人が答えた。
「仲間?」
「そう」
直人は周囲を見る。
全員が笑っている。
しかし、その笑顔はどこか不自然だった。
そして――
全員の首元に、黒い虫がいた。
一匹ではない。
何匹も。
直人は吐き気を覚えた。
◆
「今日は大きく勝負する」
テーブルに金が積まれる。
直人は息を呑んだ。
「こんな金、どこから……」
「みんなで集めた」
「俺は出さない」
「いいよ」
友人は笑った。
「お前は名前だけ貸してくれればいい」
「……名前?」
「大丈夫」
「何をするんだ?」
「借りるんだよ」
直人の顔が強張る。
「俺の名前で?」
「そう」
「嫌だ」
「何で?」
「もう借金は嫌だ」
友人はため息をついた。
「直人」
「……」
「ここまで来て、逃げるの?」
周囲から声が上がる。
「仲間だろ」
「助け合おうぜ」
「男気見せろよ」
直人は耳を塞ぎたくなった。
しかし、今回は違った。
誰か一人の声ではない。
全員が同じことを言っている。
まるで、一つの生き物が喋っているようだった。
◆
直人は立ち上がった。
「俺は帰る」
静かになった。
友人が笑う。
「……本気?」
「本気だ」
「分かった」
友人は意外にも止めなかった。
「帰ればいい」
直人は出口へ向かう。
その背中に声が飛んできた。
「ただし――」
直人が止まる。
「お前が帰ったら、ここにいる全員が困る」
「……」
「お前だけ逃げるのか?」
直人は拳を握った。
「俺には関係ない」
「本当に?」
友人が一枚の紙を掲げる。
そこには直人の名前が書かれていた。
「もう、お前の名前で金を借りる話は進んでる」
「……!」
「今さらやめられないよ」
直人の足が震える。
「そんなの……知らない」
「知らないじゃ済まない」
友人が笑う。
「男気のある男なら、責任取るよな?」
◆
その夜。
直人は帰宅してから、何時間も机の前に座っていた。
目の前には書類。
自分の名前。
自分の住所。
自分の署名欄。
まだ署名はしていない。
だが、これに署名すれば――
借金はさらに増える。
直人はペンを握った。
「……嫌だ」
手を離す。
「もう嫌だ」
涙が落ちる。
「俺は、こんな生活したかったんじゃない」
その瞬間。
背後から声がした。
「では、幸せになれない」
直人は振り返る。
誰もいない。
「金が必要だ」
「……」
「金を得るには、勝たなければならない」
「違う……」
「仲間を助けなければならない」
「違う!」
「男気を見せなければならない」
「違う!」
直人は叫んだ。
「俺は誰も傷つけたくない!」
静寂。
しばらくして、スマートフォンが鳴った。
昔の友人からだった。
『直人、大丈夫か?』
直人は電話に出た。
「……助けて」
初めて、自分から助けを求めた。
『どうした?』
「俺……もう一人じゃ無理だ」
『分かった。今から行く』
その言葉に、直人は少しだけ救われた。
◆
しかし――
電話を切った直後。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
直人は動けなかった。
また鳴る。
ピンポーン。
恐る恐る覗き穴を見る。
そこには――
助けを求めたはずの友人が立っていた。
「……え?」
電話を見る。
まだ通話履歴には、今の電話が残っている。
しかし玄関の外の友人は、
ゆっくり顔を上げた。
覗き穴越しに目が合った。
「直人」
声が聞こえる。
「開けてくれよ」
直人は後ずさる。
「……お前、本当に?」
友人が笑う。
「もちろん」
その首元。
黒い虫がびっしりと張り付いている。
直人は震えた。
「……来るな」
「なんで?」
「お前……」
友人の笑顔が大きくなる。
「仲間だろ?」
その瞬間。
玄関の下の隙間から、
黒い虫が一匹、入り込んできた。
続いて二匹。
三匹。
直人は後ずさった。
しかし虫たちは直人には向かわない。
テーブルの上にある――
借金の書類へ向かって進んでいった。
そして紙の上に群がる。
無数の虫が、直人の名前を覆い隠していく。
直人は理解した。
この呪いが欲しいものは、
金だけではない。
直人の名前そのものだ。
名前を使わせる。
責任を背負わせる。
そして最後には――
罪まで背負わせる。
玄関の向こうから、友人の声が響いた。
「署名しろよ、直人」
「男気を見せろ」
直人は震えながら、机の上のペンを見つめた。
まだ、引き返せる。
そう思った。
しかし――
翌朝。
その書類には、
直人の署名が入っていた。




